剣の神と鹿と正道古流の復興【2】戦後に作られた武士のイメージ
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敗戦国、日本と剣術
最近、戦後に習った日本の歴史が本当に正しかったのか、という疑問の声が高まっている。
昭和の大戦後、敗戦国となった日本はいろいろな制限を受け、それまでの伝統をかなり捨てざるを得なかった。
この過去が今、強く認識されるようになり、戦後の日本人の思想の偏りや不自然な教育、管理システムの是正が求められている。
昭和の時代、剣の世界も、もちろん敗戦の影響をもろに受けた。
日本人と剣は、昔から切っても切れない関係にあり、日本人の戦いがいくら近代化、機械化されても、そのベースにはいつも刀や武士の精神などがあった。
江戸時代の平和が失われ、戦争、戦争の時代になったとしても、やはり日本の軍人たちを支えたのは、日本の伝統と誇りだった。
そんな日本の力を封じ込めたい戦勝国にとって、この国の揺るぎない伝統と、それを象徴する「剣」は、危険な存在であった。
敗戦後の日本では、一時、剣道が禁止されたという。
これが何とか復活しても、スポーツとしての要素が強まり、剣術は外国から危険視され続けた。
剣といえば剣道のことだろう。本物の剣術などはもう存在しない。日本人が刀を帯びていたのは遠い昔の話だ。
昭和の終わりには、そのような雰囲気が支配的となった。
そもそも、武士の魂であった剣が、大きく変容したのは明治時代である。
武士が滅ぼされ、廃刀令が出された。
竹刀による試合などが増え、多様な古い流派が統合される動きが見られた。
そして、剣道が生まれる。
明治、大正は、急速に西洋化が進んだ時代であった。
しかし、当時はまだ「和魂洋才」といった考え方があり、どれほど西洋の技術や文化を取り入れても、魂は日本人のままでいよう、という気持ちが強かった。
この魂が、戦後に失われていき、忘れ去られる危機に瀕した。
その大きな原因は、歴史認識の改変、伝統否定型の教育、そして思想統制である。
私たちは武士に対して、良いイメージをもつことが難しくなった。
武士は、江戸時代には特権階級であり、自分たちだけが刀を帯びて、弱い庶民が逆らえば、容赦なく斬り捨てていた。農民から重い年貢を取り立てて、武士は皆を苦しめていた。民は、武士を恐れて言いたいことも言えず、貧乏で、抑圧された人生を送っていた。
このひどい社会を変え、国民を自由にしてくれたのが、西洋諸国だ。
こんな歴史を習って、江戸時代の武士を好きになった人は、非常に少ないだろう。
武士が滅びて世の中は良くなった、と、はっきり教えられたのである。
ひどい人間とされたのは、武士だけではない。日本人全般である。
悪い武士たちに支配された世の中で、それを変える勇気も知恵もなかった庶民たち。
無知で無能で、非文明的だった日本の人々……。
そのような日本人像が作られた。
江戸時代はもちろんのこと、近現代の日本人も、ひどい人間とされた。戦争を好み、アジアや太平洋を滅茶苦茶にした極悪人たち。原爆でも落とさなければ、決して懲りない、頑なで、頭がどうかしたような民族。私たちは、そんな風に習った。
古代の日本人もダメで、文明的に遅れた人々であったという。何でも朝鮮半島や大陸から教えてもらった。そうでなければ、農業もできず、まともな国にはなれなかった。こんな日本史が定着した。
武士は貴人であり、公人
武士の成り立ちについても、事実とはかなり違ったイメージが作られた。
武士は、平安貴族などに武力で対抗し、新しい身分を獲得した人々。そんな風に印象づけられたのだ。
しかし、実際には随分、違った背景をもつ。
日本の武士は、もともと天皇に近い公官であり、天皇の子孫や親戚などが武士となることも多かった。武士たちは都や国を守るために武力を行使していた。
どこかで争乱が起きると、遠国であっても鎮定のために出陣した。平時も、武士は諸国に配置され、治安を守ったり、揉め事の仲裁、裁判などを行なったりした。つまり、武士は公の存在であり、軍事のみならず行政や司法なども担っていたのだ。
ところが、作られたイメージでは、武士は一種の反逆者である。天皇や公家、貴族などと対立する構造となる。
日本に長年、根付いていた「忠義」の感覚や、秩序を重んじる「順」の精神が取り除かれ、「逆」の精神が武士の心であるかのように、イメージ操作がなされた。
武士は、為政者や貴族に不満をもち、実力で特権階級に昇り詰めた。しかし、やがて傲慢になり、圧政を行なったので、明治維新で排除された。
こんな印象をもっている日本人は多いだろう。
これでは、上も下も日本人は皆、ひどい人間ということになってしまう。
まず、庶民を不当に差別し、苦しめた貴族たち。この貴族たちに対抗しようとした武士たち。しかし、その武士たちも結局、善良ではなく、自分たちが特権階級になると悪政を行ない、滅びた。
もちろん、日本の武士が皆、善良で素晴らしかったというつもりはない。
武士も私利私欲で動くことがあった。無駄な勢力争いをし、愚かしい戦さを起こしたこともある。
だが、基本的には天皇の命令に従い、秩序を守り、社会を安定させようとしていた。
日本中が戦乱に陥った戦国時代でさえ、都の権威は何とか守られた。泥沼の戦いが、天皇の仲裁で何とか収まったこともある。
武士は、力と力でぶつかるものだと思われがちだが、実は、権威や正統性がかなりものを言った。
日本には、長い長い歴史を誇る「公」の権威や筋目というものが存在し、いくら強い者でも、頭の良い策略家でも、これを無視することはできなかったのだ。
自分の力は、国や主君のために使うもの。私利私欲のために武力を用いるのは、恥ずかしいこと。そんな美学が、日本の侍にはあった。
武士は「大義」を重んじる。大義とは「大きな義」であり、自分や少数の者の利益のために動いてはならないということだ。
多くの人の心に響く「大義」や「美学」がなければ、戦さをしようにも兵たちが付いて来ない。家臣たちも奮起せず、皆の士気は上がらない。
結果的に、軍は弱くなったり、まとまりに欠けて機能しなくなったりする。
それにしても、なぜ日本では、これほど公の権威が重視され、筋目や道理が守られ続けたのか。
そこには、前述の「順」の精神が関係していると思われる。日本人は、根本的に「逆」を嫌い、「順」を好むのである。
「順」というと、誰か特定の人や上の者などに従う、という意味にとられがちだが、そうではない。時代の流れに従うのも順であり、大勢に従うのも順である。
そして、最も大きな意味では、自然の理に従うのが順なのだ。
日本人は、絶えず変化する自然に対して、抗うことなく適応して生きてきた。自然の理に従うことで、自然に愛され、その恵みを受けるという道を選んできた。
大自然には、逆らっても到底、敵わない。
自分が一番偉い、あるいは、最強だなどと思っても、それは虚しい誇大妄想であり、現実には、誰もが従わねばならない自然の理や法則が存在する。
これが、日本人の考え方であり、感覚だった。
庶民も利口で、活力があった日本
戦国時代、伝統的な価値観を破壊せんばかりの勢いで、庶民から武士になった人物として、豊臣秀吉がいた。
室町時代の後期は、本当に世の中がひどい有り様であった。武士の美学が良い形で働かず、プライドばかり高い武士たちが、家柄主義や内紛により、世に害を与えていた。
そうなれば、日本の庶民も黙ってはいない。秀吉は、自らの知恵と才覚で天下人にまで昇り詰めた。
武士は、自分たちが悪政を行ない、民の信用を失えば、どうなるかを思い知らされた。
国が乱れれば戦さが増え、武士が活躍できるはずであったが、実際には、秩序が崩れ過ぎて、むしろ武士が既得権益を失う結果となった。
世は、実力主義の無法地帯と化す。
秀吉が天下を取ったことで、素晴らしい、自由な社会が訪れると期待した人もいただろう。
しかし、世の中がうまく治まることはなかった。下克上という「逆」の精神が主流になると、社会は乱れる。
その時々に力のある者や利口な者が天下を取る、という形では、結局、ずっと不安定な世が続くのだ。
これに気づいた日本の武士たちは、徳川家康の下、また秩序ある武家社会を築いていった。もちろん、室町幕府の反省を踏まえながら。
これが、世界に誇るべき江戸時代──約250年も続いた平和な世であった。
日本には、秀吉のように天才的な能力をもった庶民もいた。そして、その秀吉でさえ、天皇には逆らわず、ある程度の社会秩序は意識していた。
江戸時代も、優秀で勤勉な民によって国が支えられ、独自の発展を遂げたのである。
以下の【3】に、つづく
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