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自筆短編 「黄泉比良坂の旅館」
黄泉比良坂の旅館
(よもつひらさかの旅館)
ふと眼を開けた。
私は温かくて滑らかなお湯に浸かっていた。
眼前には美しい湖と、その周囲を彩る山々、その緑の木々。
溶けてしまいそうな程の至福。
露天風呂。檜の湯船。
首まで深々と私は温泉に包まれている。
湖上に一羽の鳥が飛んでいるのを見つけた。
それは私を意識でもしているかの様に眼前を何度も旋回していた。
満たされた環境の中、
ぼんやりと頭に浮かんできた。
「そうだ。そうだった。私、死んだんだ」
私は澤口文香。38歳OL。
それはまさに38歳の誕生日の日だった。
友人が10人近く集まってくれて、私の誕生日を居酒屋を貸切にして祝ってくれた。
プレゼントもたくさんもらって、帰りの電車で最寄り駅に着いた時に友人が家まで荷物を持つと言ってくれたのだけど、私の家は駅から歩いて2~3分の距離だから、そう言って遠慮したのだった。
大きな買い物袋を両手に抱えて、駅を降りて、駅前から大通りを歩いて、信号を渡る時だった。
たしかに青信号だった。
たくさんの荷物を持っていたからか左右は見ていなかったと思う。
横断歩道の真ん中辺りで突然クラクションが響いて、右側を、そのクラクションの方へ向いた時にはもうトラックが目の前だった。
多分身体の痛みは感じなかったと思う。
そう、そうだ。それで次に眼を開けて、今私はここにいるんだ。
はっとして私は立ち上がり自分の身体を確認した、どこも怪我していない。
とりあえずお風呂からあがろうと思って湯船を出た。
どうやら私が浸かっていた露天風呂はここの一番奥にあって、入口に向かって次に半露天、次にガラス張りの内湯、そして脱衣場まで来た。
ロッカーが並ぶ前で立ち尽くしてしまった私に声がかけられた。
「ああ、新入りさんね。聞いていたよりも少し早かったね」
それは小柄なおばあさんであったのだけど、お肌が艶やかで、腰もぴんと延びていて、かなり若々しいのだけど多分90歳近くの女性なのだろう。
作務衣姿に腕は作業をしやすい様になのか白い布が結んである。
頭にも白い頭巾を結んでいる。
穏やかに微笑んでいてとても優しい雰囲気だった。
何も返事の出来ない私におばあちゃんはこう続けた。
「ふふふ。何が何だかさっぱりなんだろうね。そら、ここに掛けなさい」
私は言われるままに丸い椅子に座り、差し出された紙コップのお茶を飲んだ。
風呂上がりに冷たいお茶が心地よく喉を通った。
「いいかね。落ち着いて聞くんだよ。貴女、文香ちゃんだね。貴女は死んでしまったんだね。とっても悲しいね、でももう仕方ないね。それでここは黄泉の世界という訳なんだよ。現の世界で言われているところの所謂天国のほうの死後の世界。あっ風邪を引いてしまうといけないからこれを着なさいな」
そう言っておばあちゃんは脇の籠に入っていた浴衣を渡してくれた。
私は呆然としながらも浴衣を着て帯を締めた。
「私はツネ子。みんなにはツネ婆と呼ばれているからそう呼んでいいからね。これから部屋に案内するよ。大体みんな2~3週間ここで過ごして。お達しが出たら船で向こう岸まで行って、湖畔の洞窟に入っていくんだよ。露天風呂からも小さく見えていただろう。つまりは生まれ変わりだね。それまでの間のほんの休暇。本当の骨休め、ふふふ。んでもってそれがこの旅館なんだよ。まだよく状況が呑み込めないと思うけど、簡単に言えばひとり旅に来たみたいなものだね。とりあえず部屋でゆっくりしなさいな」
それから長い廊下をツネ婆の後ろからついて歩いた。
増築を度々した様な連なる渡り廊下の窓からも湖が一望出来て、1隻の観光船の様な船が見えた。
「ああ、あの船だよ。ここの脇にある港から向こうへ行く定期便。朝と午後、1日に2回運行していて10人くらいずつ向こうへ行くんだよ」
私はさっきの説明を聞いても、今の説明を聞いてもなんだか現実味がなく、返事の声も出せなかった。
その後も廊下を歩いているとたくさん人が泊まっている様で、通り過ぎる人達は皆ツネ子と挨拶を交わしていた。
「さあ着きましたよ。お入り」
案内された部屋に入るとそこはゆったりとした広縁付きの和室だった。
ツネ婆は布団の入った押入れや備品の説明をしてくれて、
「あと3時間くらいで夕食の時間だから、その頃また呼びにくるからね。館内を見て回ってもいいし、寝ていてもいいし、自由に過ごしたらいいからね。もちろんお風呂に入りに行ってもいいのよ。さっき通ったロビーのカウンターに私はいるから、何か分からない事があったらいつでも聞きにおいで」
そう言ってツネ婆は部屋から去っていった。
私は1人何をするでもなく、広縁の椅子に腰掛けて湖を眺めた。
なんて心の落ち着く景色なんだろう。
空の青さと、山の緑と、また湖の青さ。
頭の中が冷静になってきて、それは少しずつではあるけれど「死」の実感が湧き始めてきたと言う事なのかも知れない。
「私、本当に死んじゃったんだ」
美しい湖の景色が映る瞳から、
すーっと静かに涙が頬を伝った。
私はそれから何もする事は無く、部屋から出る気持ちにもなれなかったので、早速布団を敷いて横になった。
駅から歩いている様だった。
両手の袋の持ち手の紐が指に食い込んでとても痛い。
指に力を入れ直して、持ち直してみても、やはり指が痛い。
交差点の信号の前に立った。
やだ。だめ、渡っちゃだめ。
信号が青に変わる。
だめ、そっちは渡っちゃだめ。
だけど体が勝手に横断歩道へと進んでいく。
クラクションが耳をつんざく程の大きさで響いた。
その音が鳴り止まず続いて胸の鼓動が高まっていった。
「文香ちゃん。文香ちゃん。大丈夫かい」
私は目覚めた。
ツネ婆の心配そうな顔があった。
「すみません。私、なんか、うなされてましたか?」
私は、思えばここに来て初めて言葉を発した。
「うなされていたよ。苦しそうにしていたよ」
私はゆっくりと起き上がった。
「ありがとう。もう夜ご飯の時間ですか?」
ツネ婆は微笑んだ。
「うん。食堂に案内するわね。黄泉の国だからってあなどられちゃ困るわよ。ここのご飯はね、とっても美味しいのよ」
夕食の会場もモダンで綺麗な広々とした所だった。
懐石風のたしかに美味しい食事だった。
気分は大分落ち着いてきたのだけど、しかし周りが気になってしまう。
長い漆塗りの光沢のあるテーブルの私の斜め向かいに座って食事をしている黄色のポロシャツの男の子が特に気になっていた。
そこにワイシャツにベスト姿でなまず髭のウェイターが突然声をかけてきた。
「あぁ、貴女新人さんね。私は新宮司と言います。お名前は?」
そう名乗った時大げさに胸に手を当てて深々と礼をされた。
「澤口です」
新宮司と名乗った男はまた大げさに、今度は手を広げてみせる。
「レディーは下の名前で覚えたいですな。澤口さん。下のお名前は?」
「あっ、澤口文香です。宜しくお願いします」
するとまた新宮司は大げさに今度は目を輝かせて喜んだ。
「おぉ。文香さんですね。宜しくお願いします。あっ、晃一君。こちら文香さんね。仲良くしてね」
そう言って斜め向かいの私が気になっていた子供を紹介してくれた。
その子、晃一君は話すととても気さくで快活だった。
「僕は昨日ここに来たんだ。お姉ちゃんも死んだ人なんだよね?」
あまりに明るく話すので私も自然に話してしまう。
「うん。そう、みたいね。晃一君今いくつなの?」
晃一君はお吸い物を勢いよく飲んで答える。
「僕9才だよ。4年生なの」
私は一瞬その年齢で死んでしまったという現実を思ってぞっとした。
何を言ってあげたらいいのか分からなくなってしまって、しばらくお互いに箸を進めた。
「お姉ちゃんはなんで死んじゃったの?」
私はありのまま答えた。
「そっか。かわいそうだね。僕はね、分からないんだ。死んじゃった事はツネ婆から聞いてなんとなく分かった。だけど、最後なんで死んじゃったか分からないんだ」
明るく笑って話す晃一君を見ていて私は泣きそうになってしまった。
「そうなんだ。けど、私もそうだけど、死んじゃったから、なんで死んじゃったのかは思い出せないなら、もういいんじゃないかな」
晃一君は頷いた。
「そうだね。いいよね。お姉ちゃんご飯食べ終わったら僕がここを案内するよ。いい?」
私は頑張って笑顔を作ってみた。
「うん。ありがとう。宜しくお願いします」
晃一君。
ここに来て、私に出来た初めての友達だった。
それから私達は食事の後旅館の中を歩き回った。
売店やランドリールーム、ツネ婆のいるカウンター。不思議な事に出口らしい扉はロビーの先の大きな玄関以外にはどこにもなかった。
しかし出る必要もないのだろうと思いあまり気にならなかった。
ロビーの奥には広く吹き抜けになっている空間があって、その壁には案内板が貼ってある。ここに例の船の乗船者の名前が書かれていた。つまりここに名前があったら生まれ変わりの船出という事なのだと晃一君が教えてくれた。
それからの私は毎日のんびりと温泉に浸かり。
晃一君が部屋に遊びにきてトランプなんかをして遊んだり、他にも何人かお話しする人も出来て、
この黄泉の国の時間を満喫していた。
気がつけば日々は過ぎていって、充足感に満たされた時間だった。
初めに来た日にみたあの死ぬ瞬間の夢もあれからはみる事はなく、次第にその記憶自体が消えていった。
ツネ婆と晃一君と藤椅子が並べられた談話室で三人でお茶を飲んでいた時にそれをツネ婆に尋ねてみた。
「ツネ婆。私なんだか死んだ時の記憶が段々となくなっていく気がしてて、今日起きてから温泉に入っていた時にね。考えていたのだけど、自分がなんで死んじゃったのか思い出せないの」
ツネ婆は両手で持った湯呑み茶碗に顔を近づけてふーふーと息を吹きかけながら、
「いいんだよ。みんなそうなの。ここへ来るとみんな前の、死んだ時の事を忘れていく。文香ちゃんも二週間かね、晃一君はもう一日前からだったね。前に過ごした事全部少しずつ忘れていく。そういうものなのよ」
晃一君はお煎餅をぱりっと口に含んで興奮気味に聞いていて、
「そうそう。僕なんて今はもう前の事なんにも覚えてないよ。お母さんとかお父さんとかの事も全く分からないくらいだもん」
文香は驚くが、少し考えて、
「あったしかに、私はまだ両親の顔くらいは覚えているけど、しごと?とか、んー、もう分からないわ」
ツネ婆が眼に涙を浮かべていた。
文香と晃一は驚いて尋ねた。
「ツネ婆?」
ツネ婆は涙をそっと手の甲で拭いて、
「ごめんね。いや、えっと、まあいつもの事なんだけど、なんだか寂しくて、生前の記憶がなくなる頃にあの掲示板に名前が出て、船出になるんだよ。文香ちゃんと晃一君は特に私にはかわいくて、寂しいね」
そして翌日の朝。
それはここに来て15日目の朝だった。
ツネ子に呼ばれて晃一君の見送りに出た。
旅館を出るのは始めてだった。
厳かな広い玄関を私とツネ婆は出ていき、小さなロータリーの脇の駐車場を抜けると湖畔に船着場はあった。
いつも部屋やお風呂からみている大きな観光船のような船。
その甲板に晃一君の姿がみえた。
その姿をみて私は急に悲しくなった。
多分もう悲しい、寂しい、苦しい、そういった感情は浄化され始めているんだろう。
何も考えないでここまで歩いてきたのだ。
しかし、ここで共に過ごした晃一君との別れの瞬間、私は泣いていた。
涙が溢れて、止める事が出来なかった。
「晃一君!ありがとう!楽しかったよ!」
甲板に立つ晃一もそれを聞いて小学生らしく、表情を崩して泣き出してしまう。
「文香姉、ありがとう!僕こそ、最後に一緒にいれたのが文香姉で幸せだった!僕、僕ね、もう何も覚えてないけど、けど分かるんだ!ここで過ごした時間が僕にとっては一番幸せな時間だったって、僕なんとなく分かるんだ!本当に楽しかった!ありがとう!」
ツネ婆は手で顔を覆い泣いていた。
それから懸命に手を振った。
出航して先に向かい小さくなっていく船を二人は見届けて、ハンカチで涙を拭いた。
「ねえツネ婆、晃一君は、みんなはあの向こう岸からどこに行くの?」
ツネ婆もまだ眼を潤ませながら、
「それは私達にも分からないの、ただ、あの岸の奥にある洞窟に入り、輪廻転生、新しい人生が始まる。それ以外は何も分からないの、何年後の世界なのか、どこなのか、本当に人間に生まれ変わるのかさえも、分からないの」
旅館へ向かって歩いている時にツネ婆は晃一君の話しを聞かせてくれた。
それは初めて聞く話しだった。
晃一君には元々両親はいなくて、施設で育った事。里親からも虐待を受けていて、最後にはある発砲事件によって、それに巻き込まれてしまって命を落とした事。
最後にツネ婆はこう話した。
「そういった恵まれなかった子は必ず天国側の、つまりここに来るんだよ。それで衝撃や悲しみが大きい場合はここに着いた時点で悲しい記憶は消えているんだ。晃一君は初めから何も覚えてなかったんだよ。文香ちゃんはしばらく前の記憶があったね、それは幸せな人生だった証拠なんだよ」
-白い空間に木製の簡素な椅子が2つ-
晃一と向かい合わせに座っているのは神宮寺。
普段のウェイターの格好とは全く印象が異なっている。白地の法衣の様な服を纏っていて力強い威厳を感じる。
二人は会話していた。
晃一は眼を瞑っている。
どこからか秒針の様な音が響いている。
「晃一君。最後に聞かせてくれ。あの男が銃を持って教室に入ってきた時、まず先生が撃たれた。そして逃げる様にみんな教室の端に集まった。そこへ猟銃を向けられた時の事。君は一人で前に歩み出たそうだね。それはどうしてだったのかね?」
その事件は精神に異常をきたした男が校内に猟銃を持って、白昼に教室へ入り込み、教師一名生徒一名、つまり担任の先生と晃一君へ発砲し、その直後に他の先生達が後ろから取り押さえておさまった。そんな事件だった。
「僕ね。先生が撃たれて、みんなと一緒に端に逃げた時にね、振り向いたらあの人が弾を込め直していたんだ。一回ずつ弾を入れる拳銃なんだって思ったの、それで眼をみたらまた撃つのも分かった。それでその人の後ろに教室の外に他の先生達がみえたんだ。隙が出来れば入ってきて助けてくれるんだろうって。だから多分あと一人だけが死ぬんだと思った。それで僕は、この中で死んでも一番悲しまれない僕が前に出ればいいんだって、そう思って僕は前に出たんだよ」
神宮寺は険しい顔で話しを聞いていた。
「そうか。晃一君。話してくれてありがとう。君のこれから始まる新しい人生は皆に光を与える、そんな存在となる。世界を照らす人物になるんだよ。そういう使命を持って、そして幸せな生を全うするんだ」
そういって神宮寺は晃一の額にそっと手を当てた。
晃一は眼を開けて、左手にみえる光に向かって歩きだした。
最後に振り返り、にこりと笑った。
「あなたが神様だったんだね。文香姉と会わせてくれてありがとう」
そう言って晃一は光の中に消えていった。
その二日後。
私も船に乗った。
ツネ婆や何人か、見送りに来てくれて私は精一杯手を振った。
甲板から前を向くと向こう岸がみえる。
良く晴れた船出だった。
青い空と太陽に反射した湖。
その反射で水面から光の柱がいくつも立ち昇っていた。
穏やかな風が頬を流れていく。
とても気持ちが良かった。
凛として、清々しく、少し高揚していて。
またこれから始まるんだ。
至福の時間だった。
天上で出逢った友と過ごした時間。
優しさに触れて、私も優しくなれた。
そろそろ前を向いてまた歩きだそう。
晃一君。この素晴らしい場所。
そして、今までの私。
さよなら。