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1月17日に寄せて「生きなきゃね」

素人時代の備忘録です。
文章が稚拙なのはどうかご容赦を。
原稿用紙30枚程度。


生きなきゃね

 書きとめておきたい事がある。
 いや、本当は何も残さず、自分とともに風化させるつもりであった。
 たいした体験ではない。「被災地」と呼ばれる場所で、「ボランティア」と言われる行為を、一週間かそこいらやっただけの話だ。それも、他のボランティアに引け目を感じるほど、何もしていない。
 つまり、資料や記録に残すほどの事ではない。いやそれどころか、書き記す事により、自分の無知無能をさらけ出し、まわりに迷惑ばかりかけていた事実が浮かんでくる可能性がある。書く事を避けていたのは、そんな自己満足野郎に出会いたくなかったからだろう。
 しかし最近、あの特殊な状況下で、自分が戸惑い、悩み、感じた事を残したくなってきた。
 というのは数カ月前、長年勤めていた会社を辞めたのだが、どうもその始まりは、あの「被災地」にあったような気がするのだ。それを確かめたい。
 それと、いまだに自分の取った行動の中に理解できない部分があり、正否の判断がつかない箇所がある。これを、書く事により整理し決着をつけたい。その為には、やはり、あの「俺」と向き合わなければならない。
 思い切って振り返ると、すすけた顔の男がニヤリと笑いこちらを向いた。
 そして一歩一歩、確かな足取りで歩き始めたのだ。 
 青空とガレキの間を。
 
 1995年1月17日、それは起こった。
 阪神淡路大震災。
 大変な事が起きたという気持は皆と同じくあったが、ただそれだけだった。テレビに映る、まるで戦争映画のような場面を見ても、どこか異国の事のような感じがした。どうせ、今に画面のハジから人がいっぱい出てきてなんとかしてくれる。映画のようにヒーローが現れ解決するはず。
 そちらに知人がいないせいか、とにかく他人事だった。
 数日後、バイク仲間と一緒に飲んでいる時にもその話題は当然出た。情報が錯綜し、報道される死者の数、不明者の数も刻々と変わっていた。そして、その時はじめて「ボランティア」なる存在が、被災地で活動している事を知った。偉いなあとは思ったが、やはりそれ以上の感慨はない。俺には、目の前にあるビールの冷え具合の方がよほど気になった。
 次の夜、NHKの報道特別番組を観ていた。たしか松平定知アナウンサーだったと思うが、氏が各避難所の状況を淡々と伝えていた。
 映し出される人々は、不足している救援物資を伝え、心境を語った。皆、強かった。ある女性は夫をなくし、子供をなくし、何もかもなくしたのに「生きなきゃね」と笑っていた。その時だった。松平アナウンサーが、突然泣き出したのだ。 
 俺は驚いた。普段の冷静にニュースを読む氏の姿はそこにはなかった。なんの言葉も出せず、下を向き嗚咽している。
 生放送のその番組はそのまま続き、画面の中で氏の泣く姿がしばらく続いた。ようやく氏が泣くのをこらえ、クシャクシャの顔を上げた時、今度は俺が泣き出していた。
 何かが、俺の背中をドンと押した。
 
 次の日、俺は会社に休暇願いを出した。神戸に行くためだ。しかし、会社側は渋った。ボランティアとしての休暇は前例がないというのだ。上部と相談するから二、三日待て、と。何を言っているのだ? 俺は呆れたが、夕べまでの俺だってそういう奴だった。
 俺は会社を無視する事に決め、帰宅後、準備に取りかかった。
 自分が被災地の荷物になってはいけない。野営道具一式と食料を用意し、現地を見てきたという大阪のバイク仲間I氏に連絡を取った。かなりひどいという。交通も寸断されていた。ともかく横浜から大阪まで新幹線で行き、そこから車で現地に送ってもらう事にする。準備ができ次第出発だ。会社など、もうどうでもよい。
 支度ができ、急いで新幹線に飛び乗る。そこでハッとした。変だ。体が数歩先を行き、その背中を心が追いかけているという感じだ。何かが強引に体を動かしている。引っ張っているのではなく、押している。この力はいったいなんなのだろう。だいたい俺は、何をしようとしているのだろう。
 車窓に映る自分の姿を、俺は戸惑いながら見つめていた。
 
 新大阪に着き、I氏の車で神戸に向かう。大阪は、なんでもない。行き交う人達は皆笑顔で、近隣が被災しているという感じはまるでない。眩しいほどのネオンだ。ホントにここから先の街が、テレビにあるように壊滅しているのだろうか?
 しかし、車で進むうちに、車窓の様相が変わってきた。交通が規制され、両側の家屋が徐々に傾きだした。半壊した家屋が現れた頃には、ガレキが道を覆い、灯りが途絶え、ヘッドライトの脇を闇が固めた。
 倒れた樹木、崩れたブロック塀、潰れた車、家だった木材……。
「こんなもんじゃ、ないで」
 I氏が言う。その通りだった。まるで映画で観るような光景が次々と目の前に現れた。ビジネス街だったのだろうか、ケーキのように潰れたビルが並ぶ。鉛筆のように折れたコンクリート柱が続く。真直ぐや平行がない。これは、空襲の跡ではないのか?
 街らしきものを抜け、古い住宅地らしきものの中に入る。木材の焦げたニオイ、排便のニオイ、肉の焦げたニオイ……。これまでブラウン管のこっち側で寝転がって見ていたものが、強烈な臭気を伴い、よく見ろよ、と俺の襟首を掴んできた。
 車が、西宮市に着いた。事前の情報で、ボランティア活動をすると決めていた地だ。国道沿いの、ボランティア詰所らしき建物に着き、ボランティアについての説明をひと通り聞く。するとI氏が、不服そうに俺を見た。ここが楽そうやからやろ、と俺に言う。
「そんな、カッコだけしたかったんなら止めとき。駅まで送り返したるわ」
 俺は、ムッとした。しかし反論できなかった。俺は、「被災地で奉仕する」という行為に酔おうとしているだけかもしれなかった。だから、どこでもいいけど、どうせなら入り口付近の方が人も集まるし帰りも楽だろう、という気持でここ西宮市に決めたのかもしれないのだ。現地で奉仕したという事実を作り、帰って会社や仲間達に特別視されたかっただけなのかもしれない。それが証拠に、この先の街の事には、何の興味も持っていなかった。
 I氏が言う。
「どうせ来たんやから、もっと必要とされるトコに行くべきや」
 恥ずかしかった。俺さえも気付かぬ心の澱を、見事にすくって見せつけられたような気分だった。
 俺は、I氏の意見に従う事にした。I氏の集めた情報では、今もっとも混乱し、ボランティアを必要としているのは、もっと奥の長田区だということだった。
 たしかに西宮市も被害は大きいし、東灘区などは絶望的なほどだ。しかし援助はそちらから始まっており、端の街ほど手が届いていないのが現状らしい。
 俺達は、さらに奥に進んだ。光はどこにも無く、くずれた街は不気味に沈黙していた。時折、焚火を囲む人達を見かけたが、皆一様にうつむいているだけだった。
 
 長田区の半壊した区役所に夜遅くたどり着き、そこでI氏と別れる。「いつでも迎えに来るで」と言われたが、それがいつになるのかは見当がつかなかった。
 ボランティアの受付を済ますと、早速ミーティングになり、震災直後に東京からバイクでやって来たというS氏を紹介される。ここ、長田区ボランティアセンターのリーダーだ。かなり疲労の色が見える。俺には、早速明日から常盤避難所に行ってもらいたいと言う。今、この区でもっとも人手が不足している避難所らしい。どうやら俺は、今いちばん混乱した区の、いちばん人手が足りない避難所に行く事になったようだ。
 仮眠を取る為にロビーに段ボールを敷き、持参したシュラフにくるまり、初めてこの地の寒さに気がついた。
 緊張もありよく眠れぬままに朝を迎え、六時に起こされる。数日前からその避難所を担当していたボランティアに連れられ、崩れた街を三十分ほど歩き、常盤避難所に着く。
 何をどうしたらよいのかわからない。まず、泊まり込みでここの世話をしてきたボランティアリーダーと住民リーダーを紹介される。今にも倒れそうなボランティアリーダーは、代わりが出来たと喜んだ。結局、俺が後任のリーダーとなり、ボランティアリーダーは療養の為、引き継ぎしだい、帰宅する事になった。
 まずは、日課となる作業の内容と流れを説明される。マニュアルなどはない。ひとつひとつメモに取り、頭に叩き込む。こんなにあるのかと驚く。問題はいくらでも起こるはずだから、常に頭と体は柔らかくしておき、決して騒がず慌てないように、と言われる。
 そして最後に、この避難所の特殊さを教えられた。
 食料その他の救援物資は区から配給されるのだが、どういうわけかこの避難所が閉鎖されたという情報が区に伝わり、一切の供給が止まった事があったらしい。
 この避難所にはまだ病人や避難住民がたくさんいるんだと伝えても、まったく通じず、食料や水の配給が止まり、巡回の医師も来ず、老人がひとり死んでしまったという。
 結局、ラジオ局を通じて民間物資を募り、区側も誤報に気付き撤回したが、もうその時には、この避難所のリーダーや住民達は役所を信じなくなっていた。物資の供給が再開された時にも、また停止した場合の事を考え、ある程度備蓄するようになったのだ。
 住民リーダーのM氏は、男気のある親分肌の男性だった。昼間は住民の為、安否確認や役所との対応に飛びまわり、夜は住民の悩みを聞いてまわっていた。自身も家を失っているがおかまいなしだ。人情家で涙もろく、判断力、決断力がとても素晴らしい、リーダー以前に人間として尊敬できる人物であった。

 ここの避難住民は全部で四十二人。もとは公民館だった建物に、家族数にあわせ段ボールで間仕切りして住んでいた。といっても間仕切りは、1メートル程の高さだ。立ち上がればすべての「家」が覗ける。プライバシーなどはない。
 一日のおおよその流れは、こうだ。
 朝六時、区役所にて起き、常盤避難所に歩いて向かう。着いたらまず、深夜に届いた食料と、民間物資の中の食料を朝食として住民に用意する。終わると避難所内の飲料水を補給し、ゴミ出しをする。十時ごろ区から昼夜の食料と希望していた物資が届く。この時、今必要な物資を伝える。入れ替わりくらいに自衛隊の給水車が来るので、広げてある食料と物資をすばやく整理し、何十個というポリ容器を用意する。給水してもらったポリ容器は、飲料水用、手洗い用、食器洗い用と分ける。昼までには終わらせ、昼食時に利用できるようにしておかなければならない。午後は民間からの援助物資が届く。それも細かく分類して整理し、夕方六時ごろ夕食を用意する。その間に、ゴミの整理、病人の看護、面会者や医師や自衛隊との対応、配給する物資の整え、トイレの清掃と消毒、役所との定時連絡、他のボランティアグループや避難所との連絡、住民からの相談事の処理と、やる事はいくらでもある。これを、俺を含めた数人のボランティアで行う。かなりハードだ。自分たちボランティアの食事は、届いた物資の中からのあまり物を、住民に断って空いた時間に食べていた。
 ひと通り終わり区役所に戻るのは夜十時近くになり、それから明日の打ち合わせや報告、連絡事項を確認し、寝るのは午前零時頃になった。しかし、神経がたかぶっていてなかなか寝つけない。二日目以降は酒の力で無理やり眠った。区役所までの通り道に半壊した酒屋があり、その前に自動販売機があったのだ。どうやら電気は通っているらしく、そしてたぶん店主の心意気なのだろう、酒類の値段が安く設定されていたのだった。そこで「ブルーリボン」という聞きなれぬウイスキーのポケットビンを買い、水のように飲み干し、力づくで眠る毎日だった。

 トラブルは、いくつもあった。
 というより、トラブルの中に日常があった。避難所という性格からか、そのほとんどは対人で、住民同士はもちろん、住民とボランティア、ボランティア同士という場合もあった。
 住民に配る食料や衣料などは、基本的に建物の外の屋根のある場所に広げ、直接取りに来てもらっていた。楽をしようというのではない。手元まで配らないのは、自主性を持ってもらい、自立を促す為だ。自分達だっていつまでもここにいるわけではない。それに、少しでも動く事によって見えるものが変わり、気分が晴れるように、との願いもある。食料だけではない。ゴミ出しなどの簡単な作業は、住民にも協力してもらった。これらは前リーダーからの申し送りでもあったが、俺は全面的に同意し、受け継いだ。少しだが「ボランティア」というものが見えてきたような気がした。
 しかし、応援に来た他のボランティアの中には、これを理解してくれない者もいた。
 たしかに他の避難所の中には、それこそ上げ膳据え膳、完全看護で住民に「尽くす」所もあると聞く。そして、ここのような自主性を促す所も。つまり、どこも手探りなのでバラバラなのだ。応援に来た彼は、何から何までやってあげようとした。何度も話し合ったが、それが、何から何までやってもらう人を生むのではないか、という俺の疑問を受け入れてくれない。まるで、奉仕する事に陶酔しているかのようだった。
 住民の手前もあり、備蓄物資の陰で口論していると、それでもボランティアかよ、と彼に言われた。俺は、思わずそいつの胸倉を掴んでしまった。
「違うかもな。でも、お前はどうなんだよ」
 自分が正しいとは思っていない。なにしろ「ボランティアとはなにか」を説明できないのだ。だいたい、衝動だけでこの地に飛び込んで来た。何の基礎知識も経験も持ち合わせていない。彼のように「尽くす」事の方が、絶望の淵に立つ住民の心を癒し、自立を促す事になるのかもしれない。でも、それが正しいとは俺にはどうしても思えないのだ。だったら、自分が最善と考えるやり方を信じるしかないだろう。 
 結局、彼はその場を去り、次の日から来なくなった。
 ここの住民にも、とんだ誤解を受けた事がある。俺達が、区から給料を貰ってやっていると思われたのだ。
 それは、ボランティアの一人が急用で来られなくなり、少ない人数で物資を運んでいる時の事だった。ひとりのおばさんが来て、「あら、今日はあの子お休み貰ったの?」と言ったのだ。怪訝に思い話してみると、なんと俺達に給与システムを聞いてきた。とんでもない勘違いである。これにはボランティアのみんながショックを受けた。
 俺達は、金で動いているのではない。「金とは違うなにか」で動いているのが我々であり、それこそがこの地に集まるボランティアといわれる人達のアイディンティティだと思うのだ。だからこの誤解は許せない。というより虚しい。
 俺達の「ヤル気」はいっぺんに萎えた。とはいっても、仕事は山のようにある。不思議なもので、それまで難無くやってきた事すべてが「苦」に感じられた。あきらかに能率が落ち、ミスが出る。しかし、こんな事でこんなにまでなるとは。人間は、やはり感情でできているのだろう。そして俺達は、やはりビギナーなのだ。
 結局この問題は、住民リーダーM氏によりおばさんがきつく注意され、誤解は解かれた。おばさんとしては「ここまでやってくれるのだから、当然なにか見返りがあってのこと」と思ったらしい。逆に言えば、認められ、褒められたのかもしれない。すると俺達の「ヤル気」は復活した。この単純さも「ボランティアビギナー」ならではなのだろう。

 つらい事もあった。
 避難所は、基本的に家が倒壊して住めなくなった人達の住居だ。だから、その人数分の物資が届く。しかし、半壊程度でどうにか家に住める人のところには物資は届かない。食料も衣料も、区役所か近所の配給所まで行かなければ受け取れない。その役目を担うボランティアも当然いるが、それとて外に出て捜してくるか、ボランティアセンターに出向かなければならない。
 だから、様々な都合で配給所まで行けない近所の人達が、この避難所に食料や物資を貰いに来る。しかし、あげられないのだ。区からの食料は、住民の人数分しか届かない。もちろん、ボランティアの分も入っていない。これをあげてしまっては、食べられない人が出てしまうのだ。民間物資の中には、保存のきく食料がたくさん送られてくる。しかし、これもあげられないのだ。一度あげて、あそこには物資がいくらでもあると思われ、昼間暴動のように食料を奪われたり、夜中にごっそり衣類を持っていかれたりしたことがあったのだ。なので配給物資に関わる、付近住民とのトラブルはいくらでもあった。自分が悪者になればそれで済むのだから、どんなに罵声をあびても我慢し、付近の人にはひきとってもらった。しかしある日、小さな女の子が俺の前に現れ、住民の昼食を指差し、ちょうだい、と俺に言ってきた。ここの避難所の子ではない。本当に腹が空いているのは見てわかる。
 つらかった。住民に断れば工面できないこともない。それどころか、ビスケットだってチョコレートだってスカートだってあげられると思う。しかし、前回の暴動もこんな事が引き金だったのだ。
「困っているのはここだけではない」
「腹が減っているのはここの住民だけではないだろう」
「物資を送ってくれた人だって『より多くの人に』という想いからだ」
「それでもボランティアか!」
 今まで追い返した人達から言われた言葉を思い出す。
 そんなことはわかっているのだ。
 女の子に半べそをかかせ何も持たさずに帰して、俺はいったい何をしにここまで来たのかがわからなくなってしまった。
 俺は、女の子を追いかけた。そして、ポケットの中にあった自分の食事分であるアメとクッキーとカンパンを全部あげた。ごめんな、と謝りながら。

 ボランティアとはいったいなんだろう。
 世界中から続々と届く物資を整理していて、いつも自問していた。ぼんやりとは見えてきたが、それを言葉で表すまでには至らなかった。その答えこそが、ここまで俺を突き動かしたもののように思える。そして、それはこの物資を送ってくれた人達の動機にもなっているものだと感じる。
 しかし、そんな人々の想いのこもったはずの物資に腹を立てることもあった。ほどこしのつもりなのか、使用済みの下着や汚れた衣服の類がけっこう送られてくるのだ。それに、とっくに期限の切れた食料。まるで、家の中の不用品をそのまま送ってきた感じだ。何の冗談のつもりか、スケスケのネグリジェや、どう見ても仮装にしか使えぬ衣装も混じっていた。こんな人達でも、今頃は「善い事をした」と思っているのだろうか。捨てた。全部捨てた。
 
 衣料関係の物資は、住民の希望者に渡される。サイズが合えば好みなど聞いてはいられない。時には取り合いになったりもするが、こういう調整役もボランティアの仕事だった。抽選などをして双方が納得する形に持ってゆく。無用な仲たがいはさせたくない。
 しかしある時、どう見ても着られないだろうというワンピースを取り合う二人がいた。まわりに聞くと、もともと近所同士で仲が悪かったという。見ればこの二人の居住スペースには、使わない物、着られない物がたくさんあった。はじめの頃こそおとなしくしていたのだが、最近は違っていた。互いに見栄をはり、反目しだしたのだ。虚栄だ。
 話し合いで解決する事など毛頭考えていないこの二人の間には、誰も入れなかった。
 そのワンピースもしまいに引っ張り合いとなり、とうとう破れてしまった。 
 俺は叱ろうとしたが、ハッとしてやめた。
 ここにいる人達は、この二人を含めて他人などにはわからぬ大事な物をたくさんなくしてしまった人達だ。その上に、こんな電気も水もガスもプライバシーもない、寒々とした建物に押し込まれている。補償の話は噂ばかりで、その度にぬか喜びさせられていた。落ち込み、やりきれなくなるのは当然だし、体力も気力も失せ、生きる事さえも、どこかで放棄してしまいそうになる。いや、半壊の家屋の中でじっと座り、食べ物を口にしようとしない老人がいる事をこないだ聞いた。これはもう、緩やかな自殺ではないのか。
 俺は、ここに来る引き金となったあの報道番組を思い出した。
「生きなきゃね」
 そうだ、俺達がやらなければならないのは、その「生きなきゃね」を引っ張り出す手助けなのだ。そして、その「生きなきゃね」のシッポは、人によって形が違うと思うのだ。
 ここは、修行の場でもセミナーでもない。自分の運命とは直面しているが、望んだ事ではない。困難を前にすれば人は強くなると思うが、しかし、聖人や人格者になる必要はないだろう。引っ込んだ「地」さえ出してくれればよいのだ。すべてはそこからではないのだろうか。この二人の場合は、乱暴だか「物欲」こそが再生への足がかりであり、そう、「生きなきゃね」ではないのか。
 いさめるのは簡単だ。この二人は、遠くから届いたひとつの想いをムダにしてしまった。どう見ても、エゴだ。しかし、このワンピースは、破かれる事で別の役目を果たしたのではないだろうか。
 二人は、自分のした事に気付き、しゅんとはしたが、もう「生きなきゃね」に火が着いている。破れた布片を二人で分け「ハンカチにエエヤン」と持っていってしまった。そしてさらに分割し「使い!」と付近に配ったのだ。
 このしたたかさというか厚かましさは、もう充分放っておいていいだろう。あとはまわりに「飛び火」する事を願いたい。ボランティアは大変だが。
 俺は、己の無知さゆえにとんだ勘違いをし、あらぬ方向を見て納得しているのかもしれない。しかし、俺にはこの二人の「始動」が感じられたし、この避難所の「起動」の予感がしたのだ。
 
 避難所の世話にも慣れ、住民の顔と名前が一致し出した頃、ふと会社の事を思い出した。たしか受理されないままに休暇願いを出し、勝手にこちらに飛んで来ていたのだ。
 区役所前の無料電話から職場に掛けると、いつまでいるつもりだ、一度帰って来い、と言われた。腕時計を見ると一週間が経っている。なんと濃い一週間だったのだろう。
 避難所の住民の数も徐々に減っていた。後を任せられるボランティアも現れ、そろそろ潮時のような気がした。
 個人で出来る事には、体力的にも金銭的にも限界がある。燃え尽きてしまい、逆に世話になるようだったらいない方がましだ。しかし、まだやれそうな気がするし、必要とされている。昨夜聞いた情報では、外国人の避難所が混乱しているということだった。ここで区切りをつけ、そちらに行きたいという気持が起こる。I氏に相談すると、続ける為にも一度帰るべきだ、と言われた。その通りだろう。俺は迎えを頼み、常盤避難所に別れを告げた。そして、あらためて長田区の様子を見てまわった。
 来た時よりは落ち着いた空気を感じるが、街はそのままだ。ガレキには花がそえられ、道は割れ、家々が倒壊している。思い出であろう数々が、ゴミとしてそこここに積み上げられている。空が異様に広い。
 いつもウイスキーを買っていた自動販売機があった。最後にもう一度飲みたくなり、一本買った。
 I氏が迎えに来るまでまだ間がある。俺は、近くの公園のベンチで休む事にした。ふと手を見ると、傷だらけである。髪もボサボサでフケだらけ。そういえば、こちらに来て一度も風呂に入っていない。入りようがなかったが。
 目の前を野良犬の群れが行く。飼い主を探しているのだ。自分のいた避難所にもやってきた。とても怯えていて絶対に鳴かない。動物なりにかなりショックを受けているらしく、まるで失語症のようだった。建物の中を覗き、主のニオイが無いと、次の避難所に向かうのかトボトボと姿を消してゆく。動物でさえこうなのだ。あらためて被害の深さを知った。
 公園の外れでは、ボランティアが住民に物資を配給していた。とても忙しそうだが、どの顔も頼もしく、キラキラ輝いている。そうだ、俺もあの中の一人だったのだ。 
 しかし、俺はなぜ、ここにいるのだろうか。
 会社や、ともすれば社会からさえ異端視されがちなタイプの自分が、ボランティアなどという社会奉仕をする側の人間だったとは、今まで思ってもいなかった。
 そう。「人を助ける」などと面と向かって考えた事もなければ、優先席を譲るのだって億劫なほうの人間だった。そんな奴が、何か出来ないかとここまで来てしまった。やはり、背中をドンと押したものがあったに違いない。
 そして、それは人間の「性(さが)」のひとつではないのだろうかと感じる。 
 たかだか一週間で何を偉そうな、とは自分でも思うのだが、俺は「生きなきゃね」を少しでも出してもらおうとして、逆に自分の方から何か引っ張り出されたような気がするのだ。
 それは「照れ」や「はにかみ」や「はじらい」というものの影にあって、いつの間にか「大きなお世話」とか「無関心」とか「クール」とか「売名」とかいう言葉によりどこかに少しずつ隠してしまった、口に出すのはなんとも恥ずかしく、でも普通で普遍で当たり前な心。
 善意。
 あっけない答えだと思う。あっけなさすぎて、他のもっと難しいものだろうと否定したくなる。でも、これなのだろう。
 そして、すべての行動の引き金となり、善意という存在に気付かせてくれた「生きなきゃね」という言葉をもう一度考えてみる。それは、元気を出して困難を乗りきろうという自他への励ましの言葉であろうが、よりよく生きる、より強く生きる、より逞しく生きる、という意味をも内包しているのではないだろうか。だとしたら、これから戻る何の不自由もない街で、なじめぬ組織に組み込まれ、不満も疑問も押さえつけて生きようとする俺への「それでいいのかよ」という、突きつけられた言葉にも思えてくる。
 俺は、歩き出した。もう、押されている感じはない。
 青空とガレキ。この風景は、この歩みとともに生涯忘れないだろう。
 緊急な事態はほぼ脱したと思う。これからは復興だ。ボランティアはまだまだ必要だが、乱暴を承知で言えば、旅人は長く留まってはいけないのだ。そして「してはいけない」事を知るのがボランティアだとも思う。
 いや、正直に言えば、ボランティアが何かなんて全然わからなかった。でも、それでいい。宿題が出ないと勉強しない方だから。
 俺は先ほど買ったウイスキーを取り出し、ビンの背中に今日の日付をマジック書きした。
 1995・2・1
 これの蓋を開けるのは、またにしておこう。そう、いつになるかわからないが、完全に復興されたこの地に立ち、これがあの街か、と驚きながら開けることにしよう。
 俺は、はるか先の空を仰いだ。
 それまでは。
「生きなきゃね」
                                   記1999
 


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