#2 〜福岡県出身の亡き祖父たちが生きた戦時中から戦後の時代を軍歴を通して辿る旅を経て、本当の絆を取り戻した私の家族の記録〜
続きます。#1には、祖父たちの軍歴を取り寄せるに至るまでの人生について、かなり赤裸々に書きました。こちらからどうぞ(最初にお断りしておくと、めちゃくちゃ長いです汗)
2023年2月、ついに軍歴(陸軍)を保管している福岡県庁福祉労働部保護援護課を訪れる
3年越しの訪問がいよいよ叶う段階になりましたが、もちろん当時の福岡県庁のご担当者は移動され別の方になっていました。驚いたことに、当時の記録がきちんと引き継がれていて、メールでスムーズにご対応いただきました。
いよいよ福岡県庁福祉労働部保護援護課へ向かう日、想定外のアクシデントが発生・・・。
- アクシデント発生 訪問日を間違える・孫の私では資料請求できない
当時の微妙な親子関係については、#1(https://note.com/yokomindarise/n/n1f928545743f)に書いた通りですが、祖父の軍歴を調べることは親にはあえて伝えずに福岡県庁にアポを取っていました。
当初わたしの計画では、新幹線で博多駅に来る両親をレンタカーで迎えに行き、久留米の本家を訪問し、また翌日駅まで送り届けた後に、一人で福岡県庁に立ち寄る予定でした。
ところが、なんとアポの日を1日間違えていたことにその日に気付いたのです。全くの想定外の出来事でした(これが後に功を奏する伏線となります)。
慌てて久しぶりに博多駅で再会した両親に事情を話し、「久留米に向かう前に行くところがあるんだ。一緒に来てもいいし、駐車場で待っててもいいよ。」と伝えると、二人は一緒に行くと言います。
どうなることやら、、、特に若い頃に断絶したきりの祖父の話をするのをとことん嫌がる母が、そんな場所に同席するなんて大丈夫かな、、、内心ドキドキしながら、3人で福岡県庁へ。最上階の福岡市内が一望できるカフェで美味しいランチを食べながら、久々の再会を喜びつつ、今回の訪問の目的を出来るだけ丁寧に両親に話しました。二人は穏やかに黙って聞いてくれました。
その後、いよいよ福祉労働部保護援護課へ。
ご担当者はとても穏やかで優しい方でした。私がメールで確認した資料を提出すると、くまなく点検されていましたが、一瞬その方の表情が曇ったことに気付き、ドキドキしながら次の言葉を待っていました。
「あぁ、、、残念ながら、陽子さんがご持参いただいた戸籍謄本では、軍歴の照会は出来ません。」
えええええ。
「ご結婚の際に本籍を移されていますね。これではお祖父さんとの繋がりが分からないのです。ただ、お父さんがご請求者になられれば大丈夫です。いかがですか、お父さん?」
今思うと、父が偶然その場に居合わせたのは、もしかしたら運命だったのかもしれません。私が事前に説得を試みても面倒くさがって躊躇したかも知れない父は、その時即座に請求者になることを承諾してくれました。
- 三男である私の父が請求者になることを承諾してくれて、父方の祖父の軍歴がいよいよ明らかに
メールしていたため、事前にご用意くださっていた資料を持って現れたそのご担当者さんは、書庫からその古い軍歴簿を取り出し隅々まで読んでくださっていたので、わかりやすく祖父の辿った足跡をお話しくださいました。
軍歴は、当時のまま保管されていました。手書きでびっしりと書かれた資料は一部読みにくかったり古い漢字やカタカナで書かれていて私一人では読めない箇所も多々ありましたが、ご担当者さんが丁寧に解説してくださいました。
祖父の軍歴は、80年もの間大事に保管され、ようやく孫の手に渡ったのです。
私が最も驚いたのは、祖父が臨時召集されたすぐ後、陸軍病院に闘病のため入院中に、長男である伯父が生まれていたことでした。ちょうど祖母の妊娠が分かったであろう昭和18年2月頃に、祖父は二等兵から一等兵へと昇格しています。
その年の8月生まれの伯父に、もし祖父が出征していて生きて戻れなかったら、我が子に会えなかったかもしれない、ということが分かったのでした。
ここからは私が想像するしかないのですが、祖父が半年も入院するほどの大病を患ったのも、祖父の家族への強い想いがあってこそではないか、と思わずにいられないのです。その後、戦後に次男と三男(私の父)に命を繋いでくれた会ったことのないお祖父さんに改めて感謝の気持ちが溢れました。
- 同席していた母の心境の変化
その会話を黙って聞いていた母。私は母が何を考えその場に座っているのか知る由もありませんでしたが、内心気が気じゃなかったのです。
昔の実の父との幼い頃の忌まわしい記憶を思い出させてしまったのではないか、と説明せずに連れてきてしまったことを悔やんでいました。
県庁のご担当者さんに一家で頭を下げてその部屋を出ようとするそのタイミングで、普段シャイであまり前に出ない母が、突然そのご担当者さんに話しかけたのです。
「私も戸籍謄本を持参すれば、父の軍歴を調べて頂けますか?」
ええええ。
なんと、母自ら祖父の資料請求をお願いしているではないですか。
これまでの母の態度からは全く想像の出来ないことでした。
何が母の頑なな心を動かしたのか。
今思えば、そのご担当者さんが親身になってご対応頂いたことが、母に興味を抱かせたのではないか、と振り返って思います。
4日後にはまた福岡空港から羽田を経由してマレーシアに帰国する予定の私に残された時間はあまりありません。
「戸籍謄本の写しをメールで良いので送ってください。通常は書庫から捜索するのに3日営業日ほど頂いていますが、陽子さんはまもなく帰国されるそうですので、出来る限り対応させて頂きます。」
ここから母と私は、祖父の戸籍謄本を取り寄せるためにある行動に出ました。(「母方の祖父の本籍地を探すため母と娘は直方に向かう」に続く)
- 一家は、父方の本家のある久留米へ
県庁を後にすると、私たち3人は父方の本家のある久留米へ。
その夜、いつもお世話になっている父の兄である伯父に、祖父の辿った道のりを詳しく話すことになりました。
その会話をした本家には、いつも伯父伯母がお世話をしてくれている祖父母のお墓と仏壇があるので、仏様に手を合わせることが出来たのもとても嬉しかったです。
父方の祖父が徴兵されたのは龍兵団(第56師団)戦争を生き延びることが出来たのは、奇跡中の奇跡だった
その後、マレーシアに戻ってから私が調べた内容によると、その祖父が入隊した隊の仲間たちは、南方に出征し、中国とビルマ国境で全員亡くなった(玉砕した)ことが分かりました。
一人残らず日本には戻れなかったのです。
戦後一人生き延びた祖父が、どんな気持ちで祖母と幼い子供3人を守りながら貧困の中生き抜いたのか、想像するしかありませんが、酷く不憫に思いました。祖父は昼間からカップ酒を飲む人だった、と父から聞いたことがありましたが、そういう理由が背景にあったのだ、と今なら分かります。
貧しい農家の三男だった私の父は、15歳の時に高校に進学することなく横浜へ集団就職しました。父が30代を迎える前に、祖父は肝臓を患い、60代半ばでこの世を去りました。初孫である私が生まれる年、昭和52年のお正月のことでした。母が私を妊娠したことが分かってすぐだったそうです。
母方の祖父の本籍地を探すため母と娘は直方に向かう
- 久留米から直方へ。そこで衝撃の事実を知る・・・
運転しながら、母と話し合いました。
「本籍地がどこかも分からないの。一つだけ覚えているのは、直方駅前のすさき商店街にお祖父さんのお兄さんの家があって、そこに行けば住所が分かるはず。最後に行ったのは、そのお兄さんが亡くなった平成一桁台の頃だったから、家はもう無いかも知れないわね。」
「行くだけ行ってみない?何か手がかりがあるかも。」
私は速(はや)る心をなるべく母に悟られないように隠すのに必死だった。ずっと知りたかった祖父のことが分かる手がかりが何か見つかるかもしれない。
翌日、あたたかく迎えてくれた久留米の伯父伯母夫妻に見送られ、また車を1時間ほど走らせて直方へ向かいました。
父は駐車場に残るというので、母と二人ですさき商店街を何のアテもなく歩いてみることにました。いわゆるシャッター商店街となってしまった、昭和の雰囲気漂う閑散としたアーケードを二人で歩きました。入り口付近に唯一賑やかそうな八百屋さんがあって、そこでお買い物をしていた女性二人に声をかけました。
「この辺りに石松という家があったのですが、ご存知ないでしょうか?」
「わたしは最近ここに移ってきたばかりなので知らないけれど、少し行くと左手に三代も続く呉服屋さんがあるから、そこで聞いてみられたらいいですよ。」
その女性にお礼を告げ薄暗いシャッター商店街の中を歩いていくと、すぐにその呉服屋さんが見つかりました。
- 祖父が暮らした街の商店街で偶然立ち寄った呉服屋さんのご一家は、なんと○○だった・・・。
「ごめんください。この辺りに昔石松という家があったんですが、ご存知ないでしょうか?実は訳あって祖父の本籍地を探しているのです。」
訳ありそうな母娘を、お店の方があたたかく迎えてくださいました。松田英雄さん文子さんご夫妻で、その時わたしと同年代の娘さん直美さんも偶然店内にいらっしゃいました (直美さんの許可を得て実名で掲載させて頂きます)。
とても親身になってくださり、直美さんは「ご近所さんにちょっと聞いてきますね!」と言って店を飛び出して行かれました。
すさき商店街は昭和の香り漂う雰囲気で、平日の昼間にも関わらずほとんどのお店のシャッターがおりていましたが、そのお店だけは強いエネルギーを放っているようにわたしには感じられました。
直美さんを待っている間、文子さんは、わたしたちにお茶を出してくださいました。
その頃直美さんはご近所さんの家々の玄関の戸をたたき、中にいる高齢のお知り合いに話しを聞いてまわってくださっていたようです。
見ず知らずのわたしたちのためにここまで親切にしてくださるなんて・・・。そう思い、事情を包み隠さずお話ししようと思いました。
「実は、昔々に母と祖父は別れてしまって、わたしは祖父の生前に一度も会ったことが無いのですが、、、この度その祖父の軍歴を調べることになり、そのために本籍地の住所が必要になったんです。」
そう伝えると、英雄さんと文子さんの表情がパッと変わりました。
英雄さんは立ち上がると、分厚い冊子を持って戻ってこられました。
その冊子の表紙には、なんと
「福岡県戦没者名簿」と書かれていました。
そして迷うことなくあるページを開き、見せてくださいました。
そこには「石松清輝 ビルマで戦死」と書かれていました。
「この人はご親族ではありませんか?石松という姓は珍しいから記憶に残っていました。」
そんなに分厚い冊子なのに、まさか名前まで覚えてらっしゃるなんて、と不思議に思っていると
「わたしは直方市戦没者遺族会の会長を務めております。」
とおっしゃるではないですか・・・!!!
ご自身は2歳の時にお父さんを戦争で亡くされているそうです。
母はしばらく考えて「清輝さんという名前は父からも全く聞いた事がないので、おそらく私の父とは無関係だと思います」と話していました。
ところが、この後、また衝撃的な事実を知ることになります。(#3に続きます)
しばらくすると、娘の直美さんが満面の笑みで戻って来られました。
「見つかりましたよ!すぐ何軒か先の家が石松さんだそうですよ。」
しかも、お休み中だった隣の電器屋さんの奥様まで一緒に連れて来てくださいました。
その電器屋さんの奥様が、それは詳しく当時のことを話してくださり、祖父のこともご存知でした。今後まだ聞きたいことがあれば、と電話番号まで渡してくださいました。
住所がわかったので、市役所が閉まる前に行ってみようということで、皆様に心からの感謝を伝えて、私たちは直方市役所へ向かうことにしました。
帰り際に、直美さんが昔の「ゼンリンの地図」を持って来てくださり、この商店街の区画整理があったことを母に伝えてくださっていたそうで、母はその地図の写真を念のためスマホで撮っていたんです。これが市役所で戸籍謄本を取り寄せるときの大きな決め手となりました。
- まるで導かれるように出会った人々に助けられ、短時間で祖父の本籍地を探し当てることに成功
松田さんご一家とすさき商店街でお会いした皆様には、本当にあたたかく迎えて頂き、ご協力頂いたおかげで短時間で祖父の本籍地を探し当てることが出来ました。心からの感謝を申し上げたいと思います。
母と私がしたことと言えば、通りすがりの人に言われた通りに松田さんのお店を訪ね、理由を伝えて、促されて座って、出された美味しいお茶を頂きながら待っていただけ、、、
何もせずに祖父の本籍地が判明してしまいました。
こんな奇跡的なことがあるでしょうか。
これも全て、その地で三代もご商売を継続されている直方駅前すさき商店街の「ファッションマツダ」の松田さんご一家のおかげです。
伝統的な呉服屋さんとして着物や反物を扱うだけでなく、美しく上品でおしゃれで気さくな人柄の文子さんが集められたお洋服やファッション小物なども取り扱っておらます。後継者である娘の直美さんは昭和期に作られた高級反物を、モダンで実用的なアイテムに生まれ変わらせるブランドMOTTETEを立ち上げられ、SNSで情報発信もされています。
MOTTETEインスタグラム
https://www.instagram.com/mottete.royaljsilk?igsh=Zmc3bmVnbmU5NHF2
まるで導かれるようにお会いすることになった松田さんご一家とのご縁は、その後もずっと続いており、帰省の際には立ち寄らせて頂いています。
直美さんがデザインされた反物のサコッシュは、クアラルンプールでイベントの司会や通訳のお仕事の際に愛用させて頂いてます。(筆者の本業は日英通訳やイベントの司会です)。
元々このサコッシュは、御朱印帳入れとして製作されていたそうですが、シンプルでありつつ反物のシルクの光沢が華やかで、洋装のドレスに合わせて身に付けてもしっくり馴染むので、イベント会場でペンやメモ帳、司会台本、スマホなどの必需品を入れて持ち歩く時に大活躍しています。
生前一度も会ったことのなかった祖父が暮らした街直方に、こうして「訪れる理由」が出来ました。松田さんご一家にまた会いたくて、わたしは直方に立ち寄るようになったからです。
天国の祖父から「また直方に遊びに来んね」と誘われているかのようです。
この年の10月、英雄さんが闘病の末、天国へと旅立たれました。
訃報に接しメッセージを送ると、直美さんからこんなメッセージが届きました。
「父が、あの時、陽子ちゃんご家族のお役に立てて本当に喜んでいました。居合わせて良かったなとつくづく思い返しています。今日の葬儀では、戦死したおじいちゃんも一緒に見送りたいと思います。」
英雄さんと戦死されたお父さん、私の祖父が天国から見守ってくれている。そう思うといつの時も頑張ろう、そう思えます。
わたしたち家族の物語は、ここからさらに思いがけない方向へと進んでいきます。まだまだ続きます。(ここまでお付き合いありがとうございます!)