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理知を作る標準語と、感情を操る関西弁と

いいのか悪いのか、は分からないけれど。

最初に私が書くものを読んで、それからリアルの私に会った人はみな「思ってたより...」と言う。ここnoteでもそうだし、それ以外の媒体で書くものも情緒を練り込ませた文章であることが多い。そしてカラッとした明るさはなく、どちらかというと静かな雨の朝、のような雰囲気を持っている(らしい)。


それが実際に顔を合わせてみると、なかなか陽気な表情をしているし、よく話すしよく笑うので、驚くらしいのだ。極めつけは、隠しきれない関西弁。「知らんけど」とか言うんですね〜〜! と目を丸くして言われたこともある。なんだか恥ずかしかった。



標準語は私にとって、洋服のようなもの。裸のままでは外を歩けないので、着る洋服のようなものだ。この言葉を使っているときは、TPOもわきまえられるし、賢いことも理知的なことも言える。

だけど母語である関西弁を使っちゃうと、あぁウソをつくのが下手になる。裸の私が出てきてしまう。なので、関西以外の場所で関西の人に出会うと、ちょっとドキドキする。そしてその人が真っ裸のコテコテの関西弁で私になれなれしく話しかけて来たりすりゃ、もう嬉しくなって私もすっぽんぽんで応戦しちゃう。



使う言語は、人のパーソナリティを大きく変えると思う。

幼いころ、私を作ってきた言語。初恋をして失恋をして、甘いと苦いを教えてくれた言葉は関西弁だ。

理知を作る標準語と、感情を操る関西弁を行ったり来たりしながら暮らしている。日本語のバイリンガルで今は良かったなぁと思う(ちなみに関西弁の中でも、私は丹波弁と京都弁を話すので、正確に言うとトリンガルだ)。


さぁ、今日はどれを話して、生きていこうね?


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