私の持ってる風船
30代の時、私はカウンセリングの事務所に勤めていた。
代表はカウンセラーの瞳さんで、
経理その他を全て抱える健二さん。
電話応対、セミナーの準備等の美也こと私。
三人だけの小さな会社で、相手を呼ぶ時は下の名前で呼ぶことがルールだった。
瞳さんも健二さんも50歳を過ぎていたので最初は名前を呼ぶことに躊躇いがあったが、直ぐに慣れた。
瞳さんのセラピーは《ゲシュタルトセラピー》というもので、このゲシュタルトという響きが“ゲシュタポ”を連想させることを気にしているようだった。
確かに物々しい名前だ。
マンションの一室を事務所兼カウンセリングルームとして使っていた。
私がこの会社で働くことになったのは、
恋人の紹介で瞳さんのカウンセリングを受けに行ったことがきっかけだった。
一番の悩みは父との関係だった。
父には泣かされ苦しめられた過去が山ほどあって私はどうしても父のことを受け入れることが出来ず、一つ屋根の下で暮らしてはいたが、なるべく顔を合わせないようにしていた。
おまけに酷い不眠症で、ストレスは溜まる一方の生活を送っていた。
そんな胸の内を専門家の人に訊いて欲しという思いが日に日に強くなっていた。
瞳さんのカウンセリングを教えてくれた武晴もまた両親との関係が上手く築くことが出来ずに悩んでいた。
ある日たまたまテレビに出ていた瞳さんを観て、この人のカウンセリングを受けてみようと思ったという。
相性が良かったのだろう。
何度か通っている内に武晴の心にあった重い鉛のような感情は軽くなっていた。
それで私に薦めたのだった。
初めて瞳さんを訪ねた時に私は自分のこと、父のことをたくさん話した。
その時の私の印象が良かったらしく、
ここで働かないかと瞳さんに誘われた。
家から遠かったが、私は瞳さんのところにお世話になることにした。
瞳さんは明るく快活な女性だった。
彼女を慕って悩みを相談しに来る人も多く、綾子さんもその内の一人である。
個人カウンセリングを受けに来た綾子さんを初めて見た時、私は衝撃を受けた。
暗い顔をして訪ねて来た綾子さんの腕、首、そして顔。
全てアザだらけだった。
一度だけで付いたものではないのは直ぐに判るくらい無数にあった。
カウンセリング中は隣りの部屋にいる私にも、訊こえないようになっている。
ただ、時折り小さく嗚咽が訊こえることがあった。
カウンセリングが終わると泣き腫らした目で綾子さんが帰って行く。
毎回、そうだった。
夫からのDV。
傷は体だけではないだろう。
綾子さんの心も傷だらけなはずだった。
なのに別れることが綾子さんは出来ずにいる。
この時の私には理解出来なかった。
年月を経た今は判ることも増えた。
決して愉しい学びではなかったが。
瞳さんは、月に一度、希望する人だけが参加するセミナーを開いていた。
やることは、その時その時で違う。
絵を描くときもあれば、演劇のようなことをすることもある。
本当にさまざまな内容だった。
あるセミナーの日
15人くらい集まっていたと思う。
始まる直前に一人の男性が急いで入ってきた。
「ギリギリになってしまい、すみません」
男性はそう云うと、大きな花束を瞳さんへ手渡した。
瞳さんは
「いつもありがとう、綺麗ねぇ。美也ちゃん花瓶に活けてきてください」
「はい」
私は花束を持って小さな給湯室に行き、
豪華な花たちを花瓶に活けて部屋に戻り、床間になっている場所に置いた。
後で訊いたところ男性は花屋さんを経営しているそうだ。
今日も無事にセミナーを終え、皆さんそれぞれに帰って行った。
誰も居なくなると瞳さんの顔つきが変わった。
怒ったようなその顔で私に云った。
「美也ちゃん、百合を捨てて来て。大嫌いなのよ百合の匂い、あーやだやだ」
えっ、は、はい。
私の中にある、瞳さんが入った風船が
パチン!と音を立てて割れた。
百合の花は確かに匂いが強い
嫌いな人がいてもおかしくは無い、だけど
私は瞳さんからさっきの言葉は訊きたくはなかった。
私の勝手な思い込み、イメージなのは知ってはいても。
〈獣医さんは皆さん優しい〉
これと同じ自分が作ったイメージ、決め付けに過ぎない。
武晴のこともーーー
彼はグループであちこち行くことが好きな人だ。
その中には女性たちも混ざっている。
けれど私と交際するようになったら
他の女性と気軽に会うことも無くなると
私は信じて疑わなかった。
けれど違ってた。
武晴は、こう云った。
「恋人は美也だよ。だけど女の子の友達とはこれからも会うし、出かけるよ」
それが嫌なら付き合うことは出来ないと。
私には考えられないことを武晴はごく普通に捉えていた。
パチンと風船がまた割れた。
〈恋人がいるのなら他の女の子と会うことはしない〉
私にとっての当たり前が入った風船が
割れた。
そして武晴とはサヨナラをした。
人はそれぞれ考え方は違う。
受け入れられるもの
受け入れられないもの
選ぶのは自分なんだと判っていなかった
当たり前のことを知るまでに私はなんて遠回りして来たのだろう。
瞳さんだって、武晴だって、聖人君子ではないということも。
もちろん私自身もそうなのだ。
嫌なものは嫌でいいんだと
好きになれないのなら、それでも構わないんだと
だから私は瞳さんのところを退職した。
「綾子さんは全くいつまで経っても変われない人なのよね」
「美也ちゃん、百合をサッサと捨てて!」
私は瞳さんを好きにはなれないだろう。
カウンセラーが入った風船を割るべきか
まだ悩んでいる。
了
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