宙(そら)のオト 23 紗希 2024年8月16日 06:36 〈昼休みなんか、いらない〉僕は小学校の時から、そう思って来たし、社会人になった今でもそれは変わらない。猛暑が続く今の時期は、行き掛けにコンビニで調達した食料を、会社のデスクで食べている。けれど真夏以外は、よほどの悪天候でもなければ、真冬でもコートとマフラーを身に付けて、公園のベンチで昼休みを過ごす。会社に会話する同僚はいない。学生時代に友達が1人もいなかったのと同じに。親父とお袋が変だったんだよ。毎晩2人で呑んだくれて。真夜中だろうが、大声で歌いながら帰って来るし、呑み仲間の八百屋の店に行き、とっくに閉まっているシャッターを、ガンガン叩いて「なに寝てんだよ。呑みに行こうぜ」などと騒ぐ。八百屋はもちろん、近所迷惑も甚だはなはだしい。当然だけど、呑み仲間だった八百屋の店主からも避けられるようになった。警察に通報されたこともある。親父が、暑いからって外で真っ裸になったからだ。親父とお袋で、小さなクリーニング店をやっている。閉店時間になれば、酒好きの2人で、カラオケスナックに行く。毎晩、泥酔するまで呑み、喉が枯れるまで歌う。お陰で僕は、近所の人たちや、同級生にからかわれてばかりになった。だから下を向き、早足で家に向かう。声をかけられないように。顔を見られないように。中でも、1番ショックだったのは、中学時代に担任の先生が、廊下で僕を見た時に、堪え切れずに吹き出したのを、目にした時だ。綺麗な女の先生で、僕は密かに憧れていた。もう駄目だ。僕は絶望した。過度の人見知り。コミュ症。それらはまるで、影のように、24時間僕にピタッと張りついたのを感じた。(谷口、声が小さ過ぎて何を云ってるのか聴こえないぞ)(下を見るな、上を向け)(お前を見てるだけで、こっちのテンションまで落ちるよ)散々云われてきた。だからって慣れることなど、ない。云われる度に傷付く……。「ようやく帰宅時間だ。夕飯はどうしよう。あんまり腹が減ってない。ストックしてあるインスタント食品でいいや」僕は10年前に実家を出て、一人暮らしをしている。マンションのドアを開けて、僕は「しまった!」と声に出した。エアコンのタイマーをかけ忘れて出社してしまった。部屋の中は亜熱帯のジャングルと化していた。巨大蛇がいてもおかしく無いくらい暑い。靴を脱ぐと、急いでエアコンのスイッチを入れた。早く冷えてくれ!このままじゃ室内熱中症になる。服と下着を脱ぎ、急いでシャワーで水を浴びた。「ふぅ。気持ち良かった。部屋も、いくらか涼しくなって来たな」トランクスだけ履いて、ビーズクッションに埋もれた。何となくで買ってみたが、これが中々、心地よい。「おっと、水分補給しないと」僕はキッチンに行き、冷蔵庫に手をかけた。 コンコン「ん?誰かドアをノックした?」 シーン……「気のせいか。用があればインターフォンを押すよな」スポーツ飲料のキャップを捻ると、体に染み込ませた。「うまい」 コンコンまただ。用があるなら、何故インターフォンを押さない。時計に目をやると、8時半になるところだ。人の家を訪ねるギリギリの時間か?!僕は人との接触は、よほどのことがない限り、避けて生きている。誰なんだ、いったい。ドアスコープから覗いた。そこには、若い女の子が立っていた。知らない人物だ。ただ、このままだと、帰りそうもない。そう感じた。仕方なくシャツと、膝丈のズボンを履いて、ドアを開けた。女の子が、フワ〜ッと笑顔になるのを、一瞬だけ目にした。人の顔を、ほとんど見れない僕が、女性のことを、見れるはずがない。免疫力が皆無だからだ。「何のご用ですか。なんで、インターフォンを押さないんですか」下を向いて、やっとの思いで、そう云った。……。何も云わない。それなら帰ってもらおうと、ドアを閉める為に顔を上げた。すると目の前に居たはずの、女の子が居ない。帰ったのか?足音が聴こえなかったが。だいたい何しに来たんだ。その瞬間、嫌な想像をしてしまった。まさか……ね。僕は振り返り、部屋を見た。「どういうことだよ」女の子は、ビーズクッションに、収まっている。僕は過呼吸になりながら、女の子に近づき云った。「か、か、帰れ」すると女の子は立ち上がり、僕に近づいて来る。焦った僕は、後退りしてベットに座ってしまった。何を考えてるのか、女の子は僕の隣に座って来た。近い。その上、話しかけてくる。「やっとオトに会えた。ずっと見ていた」ずっと見ていた?怖いことを云わないでくれ。オトって何だ?僕は航平こうへいだ。谷口航平が僕の名前だぞ。僕は恐る恐る、その子の顔をチラッと見た。なんだか知らないが、嬉しそうに笑っている。直ぐに見るのを辞めた。どうすればいい?警察だろうか。「オト、ご飯を食べないの?それは良くないよ」「え、どうして知ってるんだ」「ずっと見て来たから、オトのこと。オトは料理が上手なのに、ここで暮らすようになってから、作らなくなったね」「自分一人の分だけ作るのが、面倒くさいし、だから」ちょっと待て。何で、そこまで詳しいんだ。お袋も呑んだくれてるわけだから、当然、僕や弟の優まさるの、夕飯なんて作らない。最初の頃は、カップ麺やレトルトのカレーを食べていた。だけどこのままで、いいはずがない。僕もまだ小学生だったけど、優が不憫に思えて来たんだ。だから夕飯を、僕が作ることにした。最初は、目玉焼きも出来ずに、ぐちゃぐちゃになった。でも勝は、「航平兄ちゃん、美味しいね」そう云ったんだ。そしてニコニコして食べていた。僕は本気を出すと決めた。テレビの料理番組を観たり、給食を、ゆっくり味わって食べることにして、自分の舌に覚えさせた。元来、料理を作るのに向いてたのかもしれない。日に日に腕を上げていく自分。優の笑顔を見ると僕は嬉しかった。優が中学になると、僕は自分と優の弁当を、作るようになった。毎朝、眠かったけど早起きして作っていた。隣の部屋から、お袋の鼾いびきが聴こえて来ると、蹴飛ばしたくなることも、何度かあった。けれど諦めることを覚えていったんだ。高校生になった勝は、自分でおにぎりを握るようになり、それを学校に、持って行った。「航平兄ちゃん、今までありがとう」そう云われた時、不覚にも涙が出てしまった。「オトが作る、夕ご飯も、お弁当も、とっても美味しそうに出来てたよ。きっと食べても、美味しかったはずよ」僕は彼女の顔を、まじまじと見た。「オト、わたしの顔を、ちゃんと見れてる」「えっ?あ、ホントだ」「お母さんが、ご飯を作らなかったから、オトは料理が人一倍、上手になったね。オトは優しいから、優くんの為に、頑張ったのも良かったね」「キミはいったい」「わたしは宙そらよ。ずっとずっとオトと会いたいって神様に祈ってた」宙は、そう云うと玄関に行き、靴を履いた。「オト、わたし帰るね。神様と約束した時間になったから」「宙はどこから来たの。どこに住んでるの」「分かる時は、きっと来るよ。そう遠くない未来に。それから、緊張してて、インターフォンに気付かなかったの」おやすみなさい。それだけ云うと、宙はどこかに帰って行った。その日から5年。僕はあの日、宙と出会ってから、会社を辞めた。しっかりと料理を学ぼうと、学校に入り、3年間実際の和食の店で見習いもさせて貰ったんだ。そして今日、自分の店をオープンさせる。午後5時。僕はスタッフに、「宜しくお願いします」そう云って頭を下げた。3名のスタッフたちも、「宜しくお願いします!」そう云うと、深々とお辞儀をした。暖簾のれんを出そうと入り口を開けた。そこには女性が2人、店が開くのを待っていてくれた。 宙だ!だが彼女は、僕を見ても初対面の様子だった。そうか。あの日のことは、忘れてしまったのか。でもいい。また出会えてすごく嬉しいよ。「いらっしゃいませ。どうぞ中へ」2人は笑顔で、店に入って行った。宙、あの日キミの顔を見て話せてから、僕の症状は、徐々に回復していったんだよ。遂に店を持つまでに、なれたんだ。ありがとう。「でね、姉が義兄のことを、夫って呼ぶのを訊いてる内に、2歳の姪が『夫』と『お父さん』が混ざって、オトって呼ぶのよ。可愛いでしょ」「うん、可愛い」「だから私も結婚したら、夫のことオトって呼ぶんだ」「えっ」 了 ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する この記事が参加している募集 #スキしてみて 582,874件 #スキしてみて #短編小説 #読んでくれてありがとうございます 23