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なぜノートルダムの周りで人々は歌ったのか

「祈りの歌」の意味がずっと分からなかった。

無知をさらすのだけど、「祈りって収穫祭的な感じで、豊穣ありがとうと感謝している歌なのかな」などと非常に浅い考えを持っていた。でも。

「祈りの歌」の意味ってこれかもしれないと思った出来事がある。それはノートルダム大聖堂の火災がきっかけだった。


火災の当時、ノートルダム大聖堂の周りに集まった人たちが祈りの歌を歌っていたことは多くの人が知っていると思う。私もこの動画を見て知ったのだけど、炎に包まれるノートルダム大聖堂が映ったときになんともいえない不思議な気持ちになった。

その歌声は多大なる哀しみに満ちている。想像もできないほどの。
でも同時に、どこか慰められるような気がしてならないのだ。

その理由は、数え切れないほどの思いが歌に重ねられているからだと思う。

どうか嘘であってほしいという願い、なんでこんなことになってしまったんだという怒り、もう二度と昔の姿は見られないかもしれないという絶望や後悔、ずっとそこにあったものが炎に包まれている喪失感。人それぞれの思い出が蘇り、感謝と慈しみと愛を伝えたいと思っている人もいるかもしれない。大聖堂やそれが捧げられた聖母マリアへの祈りもあるのかもしれない。

こういった思いをのせて歌という形で表現することで、and/or誰かと一緒に歌って共有することで、深い哀しみが癒されるのではないだろうか。

人間は、いや人類は、こうやって家族や仲間の死に対する哀しみを癒やしてきたのかもしれない。動画を見てそう思った。鎮魂のようで、同時に自らのどうにもならない思いを深く感じ、そして昇華するような。


魂とか死後の世界とかその他も含めて、目には見えないものが本当にあるのか、それは誰にも分からない。科学的に証明できないとか、科学で証明できなければ実在しないのか?とか、そういったことは詳しくないので何も言えない。

でも祈りの歌にはこれまで書いてきたような意味があるのでは、と私は思う。

何百年(もしかしたら何千年?)前の人類と今の私たちを比べたときに、死や喪失に対する哀しみがそんなに違うとは思えない。何百年間も人々の哀しみに寄り添い慰めてきた歌が、今の私に響いても何もおかしくない。そう思います。

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