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帝国海軍最後の特別善行賞

山口県出身 甲飛十三期 岸田福人

 飛行場に陽炎が立ち、焼けつくほどの猛暑だった。その日広島に新型爆弾らしきものが投下され、ほとんど全滅状態だとの情報が入り、富高基地での搭乗員兵舎は怒りをこめた殺気で湧きたっていた。

 敵の機動部隊が接近している情報もあり、全軍特攻出撃の命令で待機、午後4時出発、日向灘を南下し、串良基地に進出予定であった。九三中練(注:九三式中間練習機、いわゆる「赤とんぼ」)に250キロの爆装をし、夜間を利用して突入するのである。その訓練はすでに半年も行われ、お互いに梟(ふくろう)部隊と言われるほどに夜間飛行ばかりの連続だった。一六・〇〇、32機の編隊は富高基地を出発した。串良基地で飛行隊長、鈴木中尉を先頭に全機着陸が終わり、点呼に入る予定が突然狂ったのは5時過ぎであった。

 最後の1機が着陸姿勢に入っては、再度やり直しをするのである。飛行場の指揮所前ではその状態を不思議な気持で見つめていた。左右にバンクを振りながら降下してくると着陸の瞬間になると再上昇の姿勢に入っていくのである。

 「誰の搭乗機だ!?」

 「岸田二飛曹らしい」

 「彼は体を悪くして1ヶ月ほど休んでいたので感を悪くしたかも知れんぞ!」

 「それにしても変だ。ドンピシャリの形になっているのにやり直している。」

 地上ではみんないろいろな憶測をしながら見つめていた。


 一方、その搭乗員である岸田二飛曹は必死であった。編隊解散の合図があってすぐに気がついた機体の異状である。==操縦桿の昇降舵がきかないのだ==後席に積んだ荷物に操縦策が引っかかったのか、それにしては左右のバンクがきくので違うらしい。

 飛行場に目をやって他の友軍機が次々に着陸していくのを見ながら考えてみた。高度は千メートルあるので落下傘降下する方法もある。しかしそれでは自分の命は助かるが愛機を失ってしまう。無事に着陸するにはどうすべきか?機体の下に抱いた25番(250キロ爆弾)を考えると、一瞬頭に全身の血が昇り、目の前が真っ暗になった。重傷で血みどろの自分の姿が浮かんでくるのだった。

 海軍に入って2年間、予科練の時代から飛練にかけて受けた教育は、搭乗員になったら愛機を捨てて自分だけ助かることなどとんでもない事と教えられた。

 飛行機は搭乗員の命である。畏くも天皇陛下より拝借したものであり、多くの同胞が命がけで作ってくれた魂である。自分の命に代えても無事着陸しなければならない。今ここで愛機を失うことは敵艦に体当たりすることはおろか、今までの猛訓練が水泡に帰してしまう・・・・。

 「おちつくんだ。おちつけ!必ず無事着陸するんだ。愛機よ、たのむぞ!頼りにしているぞ。」

 大声で叫んでみた。幸いに愛機のエンジンは調子よく爆音をたてて返事をしてくれている。

 飛行場上空を大きく旋回し着陸点検を行い、エンジン操作、変更輪、フットレバー、エルロン、異常なし。燃料タンクも切り換えた。第1回目、軽いバンクを振りながら、2回目に備え高度200メートルに合わせ再離陸、3回、4回と調子をみて14回目となった。エンジンを絞ると機首が下がる。瞬間思わず操縦桿を引くが当然反応なし、エンジンを入れると機首が上る。急いで変更輪でダウンする。全身はヒヤ汗でぬれていた。右手はバンクのみの操縦、左手はエンジンレバーと変更輪の両方であった。次第にしびれてくる左手をなぜながら最後の着陸態勢に入った。15回目であった。

 8月とはいえあれから2時間半過ぎ、太陽も西の空に沈み薄暮飛行となっていた。加えて飛行場は連日の空襲で穴だらけで横幅20メートルほどの着陸地帯だけである。その両面には既にカンテラが用意され、定着板に赤青の定着指導灯が光って見える。

 長いパスに入る。今までのやり直しで悟ったものは、エンジンで少しずつ引っ張ってつり気味にねらって地上すれすれでエンジンを切れば良い事だった。機体の25番の重みで沈みが早く滑走は短いはずだ。ブレーキを踏むと頭からトンボをついてしまう。==近づく飛行場に祈るような気持であった。5メートル、4、3、2。機体はゆるやかにバルーニング(注:着陸の際の跳ね返り、機体が浮き上がる現象)して止まった。==激闘3時間。やっと飛行場エンドに止まった愛機のエンジンは焼けていた。

 「愛機よ有難う!これで心おきなくお前と共に敵艦に体当たり出来るぞ」

 停止した愛機の爆弾をなでながら思わず話しかけていた。

 自転車で走ってきた上官が、近づくなり「一体どうしたんだ!?」大声の罵声であった。

 搭乗員集合での報告は全員を驚かし、機体点検での結果は、操縦索切断にもかかわらず無事着陸の快挙と解り、直接の上司山本中尉より特別善行賞が上申されることになったが、それよりも岸田二飛曹は自分の愛機が健在なことが嬉しかった。

 飛行歴20年以上の飛行長江島大尉と岡村司令の賛辞が続いていた。

 「岸田二飛曹よくやった。お前の中練の飛行技術は神技といってよいだろう。中練でのみ長い間、黙々と訓練して来た成果である。近く出撃してきっと立派な戦果をあげてくれ、本日五航艦司令にこの件を報告し特別善行賞と恩賜賞を授けられるよう計っておく・・・。」

 1週間後、戦いが終り「幻」となった特善賞も、今は昔の物語りであるが、予科練出身者としておそらく帝国海軍最後の恩賜賞、特別善行賞となった事を一生の誉れとしている。

※ 写真は93式中間練習機、通称「赤とんぼ」 (ウィキペディアより)

(海原会機関誌「予科練」25号 昭和53年7月1日より)


 予科練の所在した陸上自衛隊土浦駐屯地にある碑には以下の碑文が残されている。

「予科練とは海軍飛行予科練習生即ち海軍少年航空兵の称である。俊秀なる大空の戦士は英才の早期教育に俟つとの観点に立ちこの制度が創設された。時に昭和五年六月、所は横須賀海軍航空隊内であったが昭和十四年三月ここ霞ケ浦の湖畔に移った。

太平洋に風雲急を告げ搭乗員の急増を要するに及び全国に十九の練習航空隊の設置を見るに至った。三沢、土浦、清水、滋賀、宝塚、西宮、三重、奈良、高野山、倉敷、岩国、美保、小松、松山、宇和島、浦戸、小富士、福岡、鹿児島がこれである。

昭和十二年八月十四日、中国本土に孤立する我が居留民団を救助するため暗夜の荒天を衝いて敢行した渡洋爆撃にその初陣を飾って以来、予科練を巣立った若人たちは幾多の偉勲を重ね、太平洋戦争に於ては名実ともに我が航空戦力の中核となり、陸上基地から或は航空母艦から或は潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが、戦局利あらず敵の我が本土に迫るや、全員特別攻撃隊員となって一機一艦必殺の体当りを決行し、名をも命をも惜しまず何のためらいもなくただ救国の一念に献身し未曾有の国難に殉じて実に卒業生の八割が散華したのである。

創設以来終戦まで予科続の歴史は僅か十五年に過ぎないが、祖国の繁栄と同胞の安泰を希う幾万の少年たちが全国から志願し選ばれてここに学びよく鉄石の訓練に耐え、祖国の将来に一片の疑心をも抱かず桜花よりも更に潔く美しく散って、無限の未来を秘めた生涯を祖国防衛のために捧げてくれたという崇高な事実を銘記し、英魂の万古に安らかならんことを祈って、ここに予科練の碑を建つ。」


昭和四十一年五月二十七日

海軍飛行予科練習生出身生存者一同

撰文    海軍教授 倉町秋次



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