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【元交通事故加害者がかんがえる】加害者が喪失するものとは?

加害者も失った哀しみを抱えている

交通事故において、加害者は奪った側であり、被害者とは違ってなにも失っていないと思われがちです。私も最近までそう思っていました。そしてその認識に随分と苦しめられました。

でも、加害者だって、目には見えなくとも失うものがたくさんあるのです。だから「辛い」と感じて当然ですし、それを公に言うのは難しいかもしれないけれど、辛い思いをしている自分を否定せず、優しく受け止めてあげなくてはなりません。加害者の心を癒すことは悪い事ではありません。自分の起こしたことや被害者ときちんと向き合うための一歩に繋がっていきます。

今回は、グリーフケアの勉強で学んだことと、私の実体験とを織り交ぜながら、交通事故加害者が抱えるグリーフについて考えていきたいと思います。

グリーフとは


「グリーフ」とは、喪失体験による悲嘆やそれに伴う反応のことを指します。

身近な人を亡くした遺族の哀しみを癒す「グリーフケア」が一般的に知らているので、グリーフは死別をテーマにしたものと思われがちですが、より広い捉え方をすることが大切です。ペットを失うこと、災害などで家財を失うこともグリーフです。また目に見えるものだけでなく、居場所や安心感といった心理的な喪失も対象となります。病気や怪我でこれまであった体の機能を失ったり、老いによって身体機能や記憶を失う事もグリーフです。

これら物理的・心理的な「なにか」を失うことで、哀しいと思ったり、鬱状態になったり、体調が悪くなるなどの反応があらわれることがあります。これがグリーフなのです。

グリーフを抱えて辛いのは被害者だけではない


交通事故のグリーフケアの対象は「被害者」だけだと思われがちです。被害者は健康な体や命など、失ったものがはっきりと見えることが多いです。また、報道でも被害者が失ったものを取り上げられることがほとんどです。
おそらく、多くの人は報道などから被害者が失うものや、それによってどんな苦しみを経験しているかを知識として、なんとなくでも知っていると思いますし、想像もつくかと思います。(かといってわかった気になるのはいけません!)

ですがその逆に、多くの人が加害者が失ったものを知らないし想像すらできないのではないでしょうか。当事者ですら「失った」と認識している人は少ないと思います。わたしもそうでした。でも、事故直後から心にぽっかりと穴があいたような違和感はありました。ずっと、それが何なのかわからず、どう対処したらいいのかわからず苦しんできました。

最近、「これってグリーフで説明ができるんじゃないの?」と思ったので、紹介したいと思います。

加害者の抱えるグリーフ

私が考える、加害者の経験するグリーフについて、一部私の経験も織り交ぜながら紹介します。

アイデンティティの喪失


事故が起こるまでの私は「ふつうの人」であり、「親切」「誠実」であることを理想としていました。善い人か悪い人かで言ったら、前者だと思っていました。ですが、事故が起こった日には警察から「被疑者(容疑者)」と呼ばれ「加害者」になりました。

「被疑者」「加害者」という新たなアイデンティティは、それまでの善い人であるわたしを全て打ち消せるだけの力を持っていました。また、取り調べや裁判で自分を守るためにたくさんウソもついてしまいました。これまで持っていた、「わたし=善い人」というアイデンティティを完全に失い、

「こんなの私じゃない。でも私なんだ。私なのか?私っていったい何者なんだろう」

と、なんともいえませんが、なにも信じられないといった不安に襲われました。これまで自分で築いてきたもの、これが私だと思っていたものが一気に崩れるのは非常に恐ろしく、いきなり地面が無くなって、底の無い穴に落ちたような不安に陥りました。

安心感の喪失


「人を殺してしまった」「大ケガをさせてしまった」「これから一生、遺族に恨まれ続けるんだろうか」「ネットやTVで誹謗中傷されたらどうしよう」「これから幸せになれないのではないか」などと常に不安が頭をよぎり、安心感が失われました。

将来の人生設計の喪失


死亡事故を起こした人がどうなるのかわからず、先の見えない不安が押し寄せました。ネットで「加害者」と調べると、たいてい弁護士のページで、逮捕されたり刑務所行になるという話ばかりが紹介されていたので、「わたしも刑務所に行くんだろうか」「仕事は辞めないといけないのかな」「保険金が下りなかったら、賠償金で借金地獄に陥るんだろうか。そうなったら自分のために生きることはできない。離婚も考えないといけないな」などの考えが浮かび、将来の人生設計に不安を感じました。当時、社会人になって3年目、仕事が楽しくなってきたころで、結婚もして明るい未来しかなかったわたしですが、突然その未来は失われたように思われ絶望しました。

日常の喪失


私は事故直後に逮捕されず、刑務所に収監されるまでは日常生活を送ることができていました。一見日常は失われていないように思われるかもしれません。ですが、これまでの仕事と家庭という平凡な日常に、「警察の取り調べ」「弁護士や保険会社との相談」「裁判」「被害者への謝罪(これは試みましたが一度も実現できないまま今日にいたります)」などが組み込まれました。わたしの場合、これが2年以上続きました。この間、なにをしている時でも、常に事故のことが頭にありました。

仕事の喪失


仕事の喪失は、アイデンティティや生活の困窮に関わる非常に深刻な問題だと思います。

トラックドライバーやタクシー運転手など、車の運転が必須の仕事に就いている人は、交通事故を起こすことで行政処分を受けたり、トラウマから車に乗れなったりして離職に繋がることもあります。また、車を使わない人でも、メンタル不調により休職や離職せざるを得ない人も多いと思います。

職を失うということは経済的な喪失にもつながり、生活の困窮にも関わってきます。

また、加害者となった自分が公に出ることが怖くて、表に出る仕事ができなくなってしまったり、前科が付くことで就けない仕事もでてきて、夢を実現するという希望を失う事もあります。

仕事を通して実現したかった夢の喪失にも繋がる人もいるかもしれません。わたしも、新卒採用からずっと同じ、車が必要な仕事をしていました。刑務所を出てから、以前の会社に戻れることになりましたが、もう車に乗るのが怖いので、同じ仕事をすることは断念せざるをえませんでした。また一からのスタートです。人の役に立ちたいと以前の仕事に就いていたので、これからはまた別の形で人に貢献できることがしたいと別の道を模索中です。

仕事で得られる役割は、「わたしはこういう人間だ」というアイデンティティにも大きく影響を及ぼします。特に仕事中心に生活していた人が仕事を失ってしまうと「わたしは何者なんだろう」と思ったり、「私にできる事は何もないのではないか」という大きな無力感に繋がることもあり、とても深刻な喪失ではないでしょうか。

離別による喪失


交通事故を起こして、人間関係が悪くなるというのもよくあります。一家離散というケースもあるようです。

実際、わたしも一番近くで支えてくれて、なんでも相談していた夫でさえ、事故に関する事では言えないことがたくさんありました。事故の話なんて夫はしたくないのではないか、話題にするたびに辛い気持ちにさせるのではないかと思うと申し訳なくて話題にだせないこともありました。ですが、先ほども書いた通り、頭の中はつねに事故の不安でいっぱいなので、それを思ったまま言えないことにストレスを感じました。また、勇気を出して言ってみても、やはり当事者(加害者)になったことのない人に理解はできないことが多く、欲しい返事が返ってくることはほとんどありませんでした。

話を聞いてもらえてスッキリすることは少なく、代わりに「人を殺したこともないのにわかったように言わないでよ」「この人に相談したって無駄だ」という否定的な気持ちになりました。話をするたび、互いに傷つくのなら、距離を置いた方がいいのではないかと、自分から事故の話をしないなど距離を置くようになりました。そうなると、2人でいるときには口数が少なくなり、わたしの中ではどんどん距離ができてしまったように思います。

このように相手に対する見方や、相手との心理的距離が変化する人は少なくないと思います。

また、ある本では、被害者対応や被害者に対する考え方をめぐって、加害者と家族で対立してしまい、離別してしまった家庭も紹介されていました。加害者だけでなく、家族も「加害者家族」として肩身の狭い思いをします。加害者の関係者とうことで誹謗中傷されるケースもあるそうです。また、加害者が逮捕されてしまった場合、自由に身動きを取れなくなるので、加害者家族が被害者への謝罪対応などを請け負わなければなりません。家族の負担も大きくなり、加害者本人と距離を取るということもありえるのです。

交通事故加害者は経済的な喪失も大きく、生活が立ち行かなくなり、家族の離別を選択せざるをえないケースもあります。

ケガ


交通事故により自身もケガをしてしまった場合、身体が動かなくなることで夢や仕事を失います。

「辛い」と言えない加害者


被害者に比べ、加害者はグリーフにより受けた哀しみを表に出しづらいです。なぜでしょうか。

「喪失=被害者」が抱えるものだと思いこんでいて、加害者である自分がなにかを失って哀しんでいるなんて思ってもみないから。(わたしがそうでした)また、物理的な喪失を経験している被害者に比べると、心理的な喪失だけの加害者はなにも失っていないか、失ったものが小さく見えるため認識しずらいからというのもあるのではないでしょうか。

グリーフという形で認識はしていなくとも、心はモヤモヤと、そわそわとして、「いま、哀しいんだよ」とメッセージを送っているかもしれません。

私はずっと原因はわからないけど、事故が起きて「辛いなぁ」と思い続けてきました。でも、それを公に言うことは、そう簡単にはできませんでした。

わたしが加害者であるという立場上、「辛い」というと、「被害者の方がもっと辛い!」「誰のせいでこんなことが起こったと思ってるんだ!」と非難されそうで、自分を否定されるのが怖かったからです。そして、自分の中でもそのような非難めいた声は常にありました。だから、「自分が迷惑をかけておいて、辛いなんて思ってはいけないんだ!本当に辛いのは被害者なんだ!」と、自分の心の叫びを押し付けて、なかったことにしようとしていました。

加害者が癒されることは、被害者に向き合うことに繋がるのではないか

「被害者が辛い思いをしているのに、加害者の気持ちが癒されるなんてあってはならない」「もっと苦しまねばならない」という処罰感情があった当時のわたし。「私が苦しめば苦しむほど、被害者や遺族は救われるのではないか」という考えすらありました。

ですが、そもそも被害者の苦しみと、加害者の苦しみは別問題。被害者と加害者は別の人間であり、それぞれ違う問題に直面しているのです。だから、加害者は加害者の問題に取り組めばいいのです。

そして、自分に余裕のない人は、人のことを考える余裕なんてありません。だから、被害者に向き合うためには、まず加害者自身が心の余裕を取り戻すことが大切だと思います。そのためには、まず、自身の心の傷をそのままきちんと受け止めてあげて、適切にケアしてあげることが大切です。


今日の記事を読んで、「加害者でも哀しんで当たり前なんだ!」「辛いって思ってもいいんだ!」と思っていただけたら嬉しいです。


※今回の内容はあくまで個人の考察・見解です。専門家の発信する情報ではない事をご理解・ご了承ください。



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