アゴタ・クリストフの詩「昨日」―きみが伸ばした手には太陽
アゴタ・クリストフ(1935-2011)の小説『昨日』の内容についてはほとんど記憶に残っていないが、エピグラフとして冒頭に置かれた詩は気に入っている。
題名はないのだが、何かと不便なので仮に「昨日」としておく。
■アゴタ・クリストフ「昨日」(堀茂樹訳)
■解釈
◆コメント
これだけだ。実になんてことのない詩だ。わからないところはどこにもない。
「昨日は、すべてがもっと美しかった」――このノスタルジックなところがいい。僕はノスタルジーに弱いのだ。
そして続く4行の、単純で、平凡といえば平凡だが、透明感のあるイメージ。ちょっとアニメの一場面のようでもある。
でも、あまりにも単純で、誰かに詩として紹介するのは少し恥ずかしい気がする。
◆気になる部分
ところで、久しぶりにこれを読んでみたら、気になるところがある。「ぼくの髪に風」と「きみが伸ばした手には」だ。
「ジェンダー」という言葉がまだ存在しない時代に育った僕には、「わたしの髪に風」「あなたが伸ばした手には」じゃないか、と思えてしまう。髪をなびかせるのは女性で、手を高く伸ばすのは男性のように思ってしまう。
そういえば、原詩はフランス語だ。フランス語なら「ぼく」「わたし」の区別はないはず。どうして堀茂樹はこう訳したのだろう? 作者のアゴタ・クリストフは女性でもある。「ぼく」ではなく「わたし」と訳すのが普通なのではないか。
と思って、『昨日』をちらちら見ていたら、主人公が男性だった。そのせいか。ただ、物語で使われているのは「ぼく」ではなく、「私」だ。主人公が大人の男性だからだ。
◆『文盲』では?
ネットで検索してみたところ、アゴタ・クリストフの自伝『文盲』にこの詩のことが書かれていることがわかる。「詩」という章だ。「わたしが寄宿舎に入ったのは十四歳のときだ」から始まる。章末は次のようになっている。
『昨日』のエピグラフの詩と比べて句読点が異なるが、それ以外は同じだ。ただ、ここではアゴタ・クリストフは自分のことを書いていると思われるので、「わたし」じゃないかな、と思ってしまう。
おそらく堀茂樹は最初に『昨日』で「ぼく」と訳したので、ここでも「ぼく」にしたのだろう。日本語はやっかいだ。
◆フランス語の原詩
ネットでフランス語の原詩を探してみる。
これは『文盲』に載った詩だ。う~む、ネットは便利だ。ついでにDeepLで英訳してみる。
う~む、ほんとに便利な世の中になったものだ。それにしてもフランス語と英語じゃあ、ほとんど単語を置き換えるだけですんでしまう。うらやましいことだ。
原語を見ると「わたし」でも「ぼく」でも、また「きみ」でも「あなた」でもいいことがわかる。好きなように訳していいのだ。
それとは別に、新たな発見がある。原詩では、「きみが伸ばした手」の「手」が複数形なのだ。日本語訳を読んだときは単数かと思っていた。つまり、片手を伸ばしている姿を思い描いていた。
「きみが伸ばした手には/太陽」はつまり、両手の指の間から太陽の光が漏れ出てくるイメージなのだろう。木々の間を音楽が通り抜け、両手からは光がすり抜けてくるのだ。
フランス語では"dans(英語の"in")が三度も使われている。表現が稚拙にも思えるが、「木々を流れる音楽」「髪をなびかせる風」などとカッコをつけようとすると逆に平凡になってしまう。だから、堀茂樹が訳しているように「木々の間に音楽」「ぼくの髪に風」「きみが伸ばした手には太陽」でいいのだ。
◆「きみ」とは?
今回『文盲』を読んで、詩「昨日」の「きみ」とはアゴタの兄弟ヤノとティラのこと、特にヤノのことではないかと思った。ヤノは一つ年上、ティラは三つ年下だ。
第二次大戦後の貧窮の中でアゴタの家族はばらばらになる。ヤノとアゴタは別々の町の寄宿舎に入れられる。会いに行く自由はない。弟のティラは母親といるが、やはりまもなく寄宿舎に入れられることになっている。父親は刑務所。母親はいろんな町を転々としながら働いている。「少数の特権階級を除けば、わたしたちの国では誰もが貧しかった。そのなかでも、一部の者たちは特別に貧しかった」(『文盲』31頁)のだ。
「詩」の章の末尾には次のような文章がある。
アニメのワンシーンのような詩「昨日」の背後にある現実は重い。
■おわりに
アゴタ・クリストフ(1935-2011)はハンガリー生まれだ。1956年のハンガリー動乱で、夫と4か月の赤ん坊とともに難民としてオーストリアに逃れた。21歳のときのことだ。スイスに移され、時計工場で働いた。1986年、フランス語で書いた『悪童日記』で一躍世界的に有名になった。50歳頃のことだ。
『文盲』には次のような一節があった。
寄宿者で「秘密の表記法」で日記を綴っているのは、誰にも読まれないためだ。若い頃に書いた詩はハンガリーに残してきたと言っている。だから「昨日」は、記憶に残っているものを再現したものなのだろう。
「わたしは兄と弟を、両親を残してきた。何も告げず、さようならとも、また会いましょうとも言うことなしに」――ここで『悪童日記』の冷徹な文体と衝撃的な結末を思い出す。
生きるために封殺せざるを得なかった人間性、愛する者を犠牲にして生き延びる心の痛み、家族との永遠の別離、そして決定的に引き裂かれてしまった自己、そういったことをあの物語は表現していたのだ。
■参考文献
アゴタ・クリストフ『悪童日記』堀茂樹訳、ハヤカワepi文庫、2001
アゴタ・クリストフ『昨日』堀茂樹訳、ハヤカワepi文庫、2006
アゴタ・クリストフ『文盲』堀茂樹訳、白水社、2006