慶州は母の呼び声―わが原郷 (洋泉社MC新書)
読んでいて、不覚にも涙を流してしまった。この本は生まれてから17歳まで、日本が支配していた朝鮮での生活をつづったものだ。
筆者の父は、朝鮮人の教育に理想を持っていた。そこがにらまれ、問題のある学校を転々とする。筆者も同行して生後十七年間、大邱、慶州、金泉と渡っていく。
そこで見たものは、朝鮮の伸びやかな自然だ。青々とした麦畑。そこで筆者はどこか馴染めないものを感じる。支配する者と支配される者が同居する世界で、どちらの側にいればいいのか分からなかったのだ。
学校は日本人と朝鮮人は別々だったが、そのうち共学になる。それには狙いがあった。
小中学校の制度の一端がゆるみ、 共学の学校が生まれていることだ。その数はまだわずかだが、しかし、それは、朝鮮人青少年の志願兵制度の施行と並行している。慶州中学の私立認可が公立としての発足へと移っていったのも、それは門戸の平等を願う人びとの願いとはまた別の意図が、政治・軍事的に働いた結果と思う。
つまり朝鮮人を「日本人」として戦地や、軍需工場に送る準備だった。
帰国後筆者は、故郷をなくした。
敗戦以来ずっと、いつの日かは訪問するにふさわしい日本人になっていたいと、そのことのために生きた。どうころんでも他民族を食い物にしてしまう弱肉強食の日本社会の体質がわたしにも流れていると感じられた。わたしはそのような日本ではない日本が欲しかった。そうではない日本人になりたかったし、その核を自分の中に見つけたかった。
その思いは筆者の弟も同じだったようだ。自分の高校でおこなった演説で、こう話していたという。
「諸君、我々の自由の根底には、実に大きな不動の、一つの条件があるのであります。即ち人と人との相互の信頼であります。お互ひに人は他を侵さない、他を傷つけない、他に迷惑をかけない、他人の幸福を脅かさないといふ深い信頼があって、始めて自由が認められるものであります。その信頼の程度は、その自由の高度に正比例するのであります」
本書の最後の余章は、昭和43(1968)年の春、筆者が父の教え子と再会する場面が描かれる。
教え子は、日本語で「先生はスパルタ教育だったけど、それ以上だった」と父を懐かしがった。
教え子の1人の言葉が心にしみた。
「わたしら民族にことわざがありますよ。仔牛が河向こうに渡った、というのです。すっかり消してしまうことを言います。
和江さん、あなたとわたしらとは、 共通の仔牛を持っていますよ。それを河向こうに渡らせるには、 あなたの力がわたしにいります。力を貸し合いたい、借り合いたい。それが明日はもう駄目になってもいいのです。またわたしらの後の誰かが、きっと、そう言いますよ」
支配された事実は消えない。しかし、いつか川の向こうに渡すことはできるかもしれない。それはきっと何世代もかかるだろうが、続けなければいけないことだ。
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