司馬遼太郎の人生は、日本の失敗の原因を探ることだった。「司馬遼太郎」で学ぶ日本史 (NHK出版新書 517)
この本の冒頭には
「やはりそうか」
と思うことがさらりと書いてあった。
司馬が、ただの歴史小説家ではなく「歴史をつくる歴史家」(磯田)ということだ。
歴史の資料を克明に読み込んでできるかぎり再現するタイプではなく、大つかみに時代をとらえ、のびのびと再構成していく。そして、新たな歴史観を産み出す。そんなタイプだという。それは司馬への批判ではなく、歴史家としてのスタイルはそれぞれだと、評価しているのだ。
歴史に影響を与えた主要な歴史家は、実は3人しかいないと磯田は言う。
約200年前に「日本外史』を著した頼山陽、作家・ジャーナリストとして長く活躍した徳富蘇峰だ。
頼山陽は、日本は本来天皇が治めていたもので、武家の世とは一種の「借り物」のようなものであることを日本人に認識させた。徳富蘇峰は、国民国家日本の成り立ちの歴史を、豊富な史料を駆使して日本人に認識させた最初の人だった。
司馬は、高度成長期の日本に自信を与える作品を発表し続けた。司馬が日本人に与えたのが、どんな歴史観なのか。
私は司馬の作品には、日本への再評価があったと思う。江戸から明治にかけて壮大な志を持った若者が多く登場し、日本を作り上げた。日本は素晴らしい国だ、司馬の作品を読んで鼓舞された人が多かったはずだ。
しかし、磯田は司馬の歴史観は、そんな素朴なものではなく、背景には昭和の時代への疑いがあったと指摘している。
その部分を引用しよう。
戦争体験を持つ司馬さんは、「なぜ日本は失敗したのか」「なぜ日本陸軍は異常な組織になってしまったのか」という疑問から、その原因を歴史のなかに探りました。明治近代国家は、王政復古を掲げて徳川幕府を倒して成立しましたが、では徳川幕府の成立に目を向けるとどうだったか。司馬さんは、それが濃尾平野から生まれた天下人である織田信長、豊臣秀吉、徳川家康(家康は厳密に言えば岡崎平野ですが)という、いわゆる三英傑がつくり上げた、後に「公儀」と呼ばれる権力体を受け継いだものだと気づきます。
この三英傑を、外からの視線で描くことからはじめ、歴史の脇役、敗者を通して日本が戦争に駆り立てられていく過程を追っていったという。
明治時代に欧米列強に肩を並べるまで飛躍した日本は、昭和に入って多様性を失い、暴走していく。人々は自分を失い、日本は、さまざまなくびきから解き放たれた圧搾空気状態になって膨張を続けた。
司馬は晩年「二十一世紀に生きる君たちへ」という短い文章を書いている。本書にも紹介されているが、ここに司馬が伝えたかったメッセージがあると磯田は言う。
それは
司馬が「自己の確立」が大事だと述べている部分だ。中世の鎌倉武士を例に挙げて、「たのもしい人格を持たねばならない」と言います。若き日の司馬さんが目にしたのは、国家が命令を下してみんなが「一億玉砕」を叫んで戦争に行く、付和雷同してついていく日本人の姿でした。しかし、自分の考えをしっかり持って行動する人間が日本の歴史を励かしてきたという事実を、司馬さんは小説に描き出したわけです。
空気に流されない、しっかりした自分を持つこと。それが司馬作品の、隠されたメッセージなのだろう。
作品を深く読み込んだ、磯田だからこその洞察だと思った。