合邦庵室・奥
2002年の地方公演は「摂州合邦辻」が出る。府中に観に行った。
「合邦」といえばNHKのテープで残っている若大夫さんの演奏がとにかく圧倒的で スケールの大きな感情のぶつかり合いの凄まじさが印象に残っている。
それもあって「合邦」は理屈を超えたとてつもない巨大な情念の奔流が特徴的な作品だと 思うのだが、実際、今回の上演でも特に奥でそうした状況が現出し、素晴らしい舞台となった ように思う。とりわけ咲大夫さん・富助さんの床があまりに素晴らしく、終演後しばらく 言葉が出なかった程だった。特に合邦の感情の激発は息を呑むばかり、「これが坊主のあらう 事かいなあ」以降は、客席も(多分)舟底も、いわゆる「入った」状態になって終結まで その緊張感が持続したように思う。
玉手御前の情熱も、合邦の怒りと後悔もより巨大な何かの比喩であるかの如く、容易に その人物をはみ出し、逆に足元からすくってしまう。見ているわれわれも、その流れに なすすべも無く巻き込まれるより他ない。その力は多分、非常に古くて根源的なもので、 我々もまた、そうした大洋に浮かぶ島に過ぎないように思える。今回特に印象的だったのは 俊徳丸の「復活」で、復活した俊徳丸の言葉は神々しくさえ感じられ、縁起譚の形をとって いることも相俟って、宗教的な浄化を思わせるものだった。
けれども今回のそうした圧倒的な感覚は、富助さんの三味線によるところが大きいのでは ないかと思う。特にこの曲は三味線の手が華やかなことで有名なようだが、富助さんの 三味線は、特に築き上げる頂点の巨大さ、推進力、局所的な感情のほとばしりの激しさ、 いずれをとっても驚異的で、終結前の最も華やかな部分などは、客席が三味線の勢いに呑まれ、 釘付けになっていたと思う。私の個人的な感覚では、富助さんの三味線の大落しは、オーケストラが 交響曲のコーダに向けて頂点を築き上げていくのに非常に近い感じがする。世話物では三味線と いう楽器が消滅し、もしかしたら音すら消えて、模様そのものである気配しか残らないのに対し、 時代物の終結部では、音がそこかしこにぎっしりと集積し膨張していくのだ。音の鳴っていない 部分にもぎっしりと音が詰まっているような質感を感じることができる。こうした感じが一本の 三味線の演奏で感じられるのは驚異的だと思う。また、三味線の演奏からこうしたほとんど物理的・ 即物的といって良い音響的な充実感を味わえるのは稀だ。(こうした聴き方が「正しい」かどうかは 良く分からない。)しかし、いずれにせよ富助さんの三味線はいわゆる「器楽」として聴くことが でき、またそのように聴いてしまうのは事実なのだ。
富助さんの三味線で最初に印象に残ったのは「彦山」の毛谷村の奥、やはりオペラかオラトリオの 終曲を聴くような壮大な盛り上がりが感動的だった。その後は「上田村」「堀川」の上の巻など、 世話物での印象が強かったが、今回は久しぶりに富助さんならではの演奏を聴くことができた ような気がする。
今後も是非、こうした味わい方のできる演目を聴いてみたいと思わずにはいられない。
(2024.10.14 noteにて公開)