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魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む(33)

33.

そして幽霊の、他者の歓待の問題(ソフォクレスの 「コロノスのオイディプス」についてのデリダの読解、ちなみにまたしても能の「景清」との対照を考えることができるだろう)。 超越論的思考と供犠的思考(デリダの「盲者の記憶」)。寧ろ供犠の瞬間において視覚が奪われること。モーセが神と言葉を交わすとき、 モーセは神を見ない。見ることができない。「オイディプス」神話における過剰の代償としての視覚の剥奪ではない。 ここでは視覚は最初から奪われていて、寧ろ与えられるがゆえに、聖杯伝説に構造的には近接する。「パルジファル」の陰惨なネガとしての「田園交響楽」。 すでにジュリアン・グラックが、「パルジファル」の変奏である「アルゴールの城」の中でベートーヴェンの「田園交響曲」を参照していることを思い起こすこと。ワグナーの「パルジファル」との 比較においても、ありとあらゆるものが置換され、移動されているが、しかし構造は保たれている。「漁夫王」アムフォルタスが沐浴に向かう冒頭の湖。名もない無知の若者。 パルジファルが迷い込む花の乙女達のいる「魔法の園」は、クリングゾルの仕組んだ幻影である。クプファー演出ではTVモニターに写されていたが、「田園交響楽」を今日に 置き換えるのであれば、三輪眞弘が「仮想現実」の技術(「魔法の鏡」という比喩を用いていたが、これはまさにクリングゾルが第二幕で操る道具の一つである)による 「あの世」、「テーマパーク」がジェルトリュードの描出する架空の楽園の「書物」の代替となるのであろうか?聖餐とその拒絶。聖餐を巡っての父と子の対立。 聖金曜日の洗礼。水に浸すこと。だがジェルトリュードは溺れてしまうのだ。不毛と欠乏から、一気に過剰、氾濫への反転。そしてその後の再度の不毛と枯渇。 ジェルトリュードの「喉が渇いた」が暗示するもの。供犠の犠牲としての、贖罪の子羊としてのジェルトリュード。ジェルトリュードと老いたオイディプス。彼はだが、 娘に導かれて、コロノスの神の森に到達する。それに対してジェルトリュードは視覚を獲たにも関わらず、溺れてしまう。アムフォルタスと牧師。クンドリーと ジェルトリュード。パルジファルとジャックという対応を考えること。そしてここでのMitleidの欠如。もう一つの失敗した聖杯探索の物語として「田園交響楽」を読むこと。

ワグナーの「パルジファル」への連想は、実はジュリアン・グラックの「アルゴールの城にて」(Au Château d'Argol )を経由しても可能である。「アルゴールの城」の「遊歩道」(L'allée)の章には、 ベートーヴェンの田園交響楽の第2楽章への暗示があるのだ。そしてこの作品は、著者自身によって「そしてもしこの薄い一冊の物語が、あの傑作(ワグナーの「パルジファル」のこと。 引用者注)の悪魔的な書き換え、- それだからこそ完全に正当な書き換え - にほかならないと受け取られるようなら、それだけですでに、いまだに物を見ようとしない目にも何らかの光がさして来るものと 期待してよかろう。」(Et si ce mince récit pouvait passer pour n'être qu'une version démoniaque - et par là parfaitement autorisée - du chef-d'oeuvre, on pourrait espérer que de cela seul il jaillît quelque lumière même pour les yeux qui ne veulent pas encore voir.) と「はしがき」(L'avi au lecteur)で述べられている(訳文は白水Uブックス版の安藤訳によった)のである。そしてここでのグラックの言葉がまさに 「視覚」に言及しているというのは単なる偶然と見做すべきではなかろう。

Parfois, un ruisseau traversait la route, reconnaissable de loin à la singulières allégresse, à la musicalité entièrement gratuite du murmure de ses eaux transparentes, alors Albert, avec une grâce fraternelle, déchaussait les pieds fatigués de Heide, et s'improvisait une scène comparable, par son excessif retentissement sur l'âme abandonnée à ces lieux perdus, à celle que le commentateur des symphonies a désignée du titre entièrement étrange - parce qu'il suggère et veut suggérer que certains rapports humains perdus dans une animalité pure et fluente comme la pensée sont complètement réductibles à un élément pour la première fois envisagé du l'intérieur - de « scène au bord du ruisseau ».

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