2.
「狭き門」における音楽の役割に留意しておこう。リュシル・ビュコランの弾くショパンのマズルカ。
ブルジョワの子女に相応しく、ピアノを弾く習慣はリュシルからアリサとジュリエットの姉妹にも引き継がれる。以下でピアノを弾いているのはジュリエットだ。
ついでクリスマスの場面、ジュリエットがテシエールとの婚約をする場面でプランティエの伯母とジュリエットが話をしている場面で、家具調度の 一つとしてピアノが描写される。
引き続き、ジュリエットに関する記述。今度はジュリエットがエドゥアール・テシエールと婚約した後、彼の趣味に合わせて、読書とピアノを 止めてしまったことを告げるアリサの手紙の一節。まずジュリエットが夫に合わせて音楽を放棄することが告げられる。アリサはそれを悲しんでいる。
だが、アリサ自身、理由は異なるのだが、ジェロームとの再会に合わせるように、修理を口実にピアノを片付けてしまう。ジェロームはピアノがなくなったことに驚くが、実はそれは 読書も含めた、ジェロームとの精神的な圏から身を引き離すことによる自己否定の最初の徴候である。ここでアリサの父もまた、自らは弾かないまでもアリサの弾くピアノを 聴いていたこともまた記される。娘の心の動きに対する(ジェロームと同様の、というべきだろうか?)父の察しの悪さの証言として。そしてアリサの行動が、ジェロームの意に反するだけでなく、 ジェロームとの結婚を当然のことのように思っている父親の意にも反するものであることもまた、告げられているのだ。
最後はアリサの日記で、ピアノを弾くこと、というより練習することがアリサにとってどういう意味合いを持つものであったのかが記され、ついでにそれが 外国語の書物を読むこととパラレルであったことが告げられる。アリサのプロテスタント的な完全への志向、絶えざる向上心といった性向の証言ともなっている。
「狭き門」において音楽がほぼピアノという楽器によって象徴されているのは、社会学的な視点からそれなりに分析が可能であろう。だがここで、音楽が彼女にとって、 放棄の対象となっていることに注目すべきだろう。プロテスタントではカルヴィニズムでの礼拝における音楽の排除というのはあったが、アリサがジェロームと共有していた 精神的な空間においては、音楽は寧ろ必要欠くべからざるもの、価値あるものと認識されていたようだ。
ショパンはリュシルの側に振り当てられ、ジュリエットはテシエールの趣味に合わせて音楽を放棄し、アリサも最終的にはピアノを拒絶する。 最後には音楽のかわりに沈黙が、寂静が支配するだろうか?音楽の拒否ではなく、音楽上のジャンセニズム、静寂主義を考えることが できるだろうか?他方で、ジャンケレヴィッチのように沈黙に向かう音楽というのを考える可能性も存在するかも知れない。ただし、具体的な 作品としては、ジャンケレヴィッチの圏にはほとんど接点を見出しえないだろう。寧ろ、ジャンケレヴィッチが追求した存在論的な領域、 「何だかわからないもの」「ほとんど無」を、デリダの幽霊についての思考、「憑依論」、今は亡き「灰」についての思考に引き寄せるとき、 アリサの日記の存在領域を画定することが可能なのではないだろうか。デリダに関連しては、その「郵便効果」に関する思考に対して、 「狭き門」が手紙という形式をその構造上の一つの核に据えている点に接点を見出すこともできるだろう。総じて、「散種論」から「幽霊論」 へのデリダの思考の推移の過程を通じて「狭き門」を読むことができるように思われる。
具体的な音楽としては、例えば、時代は異なるが、アルヴォ・ペルトのような音楽 がアリサには相応しいのかも知れない。ブレンターノの詩につけた「何年も前のことだった」のことを思いうかべてもいいだろう。あるいは ピアノ曲としては、「アリーナのために」のような作品を思いうかべてもいいだろう。ベンヤミンが見抜いた「エデンの園」に相応しい音楽という意味でも、 沈黙と語りの(もしかしたら欺瞞をそこに認めうるかも知れない)弁証法を見出しうるという意味でも、ペルトの音楽は、「狭き門」という作品に 相応しい質を備えているように感じられる。 狭義では宗教的なものであるか、典礼的な意味合いでの祈祷の音楽であるかは問題にならない。寧ろペルトが選び取った貧しさ (ティンティナブリ)による祈りの形をした音楽の産出(それは本当に無名性を目指しているだろうかと疑問を呈する人がいても不思議はない。)よりも、 日記で「うまく書けた」と感じた部分を破棄するアリサのパスカルの雄弁に対する拒絶の方が、ペルトが会ったというあの修道僧の言葉 (「祈りの言葉は用意されているのだから、新たに作る必要などない」)に忠実ではなかったかと思えるのだ。 だが、もしそうであるとするならば、一見すると表面的な雰囲気こそペルトの方がより相応しく見えながら、実は、三輪眞弘のモノローグ・オペラ 「新しい時代」が提起する問題圏の方が、一層アリサには相応しく、「新しい時代」の少年こそが21世紀のアリサであり、彼の参入する儀式こそ、 アリサが辿った過程の純化・抽象化なのかも知れない。その危うさも含めて。
もう一人、ジッドのほぼ同時代で生活環境等にも共通点があり、かつ、フランシス・ジャム(ちなみに彼はアリサを評価する立場に立って「狭き門」を絶賛する 評を書いている)が友人であるという点で共通点のあった作曲家、アンリ・デュパルクを思いうかべることができるかも知れない。デュパルクは数百曲あったとも 言われる歌曲の大半を回心の経験とともに破棄し、わずかに遺すことを認めた十数曲の歌曲(それはまた、「狭き門」の物語の少なくとも前半部分の雰囲気には 相応しく、プリュドム、ルコント・ド・リールといった高踏派の詩人やボードレールの詩に付曲したものである)をもってフランス音楽の中に確固たる地位を占めているが、 そうした彼の生の軌跡をアリサのそれを重ね合わせ、かつ上述のペルトについても触れつつ、私はかつて以下の様な文章を記したことがある。
そうした「エデンの園」の音楽を、より身近なところで見出そうとするならば、再び三輪眞弘の「新しい時代」の系列の一連の作品(ここでは 「言葉の影、またはアレルヤ」もそこに含めることにする)を考えてみるべきだろう。