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「古代」村落の想像的根拠から「極東の架空の島」へ:第5章 社会集団の構造と成員の心の構造の関係(3):祭祀と神歌における心の社会性


1.狩俣の神歌の体系内に層を見出すことができるか?

既述のように、狩俣の神歌の中で最初に注目されたのは、男役の唄う「狩俣祖神のニーリ」であった。そしてこれの成立年代は、その内容の最も歴史的に新しい部分(与那覇原戦ないし平良の目黒盛の軍勢の狩俣襲撃とそれと戦った真屋のマブコイの武勇伝)から、仲宗根豊見親による宮古島の統一期を遡ることはないと考えられる。狩俣の神歌の採集を試みる研究者がまずアクセスするのは、その当時の部落会の会長を初めとする村落の指導者達であり、彼らはしばしば神事において男の神役の経験者でもあったから、ニーリに関しては自分自身が継承者であったのだ。そうした指導者が自ら、村落の歴史や習俗、神歌をまとめた書籍を刊行することもあり、その例として『南島歌謡大成III宮古篇』の外間守善のあとがきや、『宮古の歌謡』の新里幸昭のあとがきでも言及される上地太郎が著した『狩俣民俗史』があげられる。

今日ではそこに記述されている伝承はしばしば誤りを含むものであることや、彼等男役からの情報に基づいて調査を行った記録が同じように誤りを含むものであることは、その後、神女たちに直接聞き取りを行うことのできた女性研究者たちによって、例えば以下のように指摘されるところではある。

「1966年から1975年まで狩俣自治会長をつとめた上地太郎さんは、その著『狩俣民俗史』において、狩俣創世の女神を「テラヌブズ」と記している。女神「テラヌブズ」が大蛇と交わり、「マヤーマツメガ」を生み、それから幾世か経た後、「ウプグスクマダマ」という人が七人の子を生んだ、と〔上地 刊行年不詳:9〕。

一方、神歌のよみ手であるアブンマは、「テラヌブズ」は男の子で、狩俣創世の女神ンマヌカンの子供だと語る。フサやタービでそうよんでいるという。「テラヌブズ」が狩俣創世の女神であるなど、フサやタービという神歌のよみ手であるアブンマにとっては、ありえない話なのである。フサやタービがよまれている場には、男性は立ち会うことができない。上地太郎さんのように、狩俣の民俗伝承を熱心に勉強した人であっても、狩俣で生まれ育った男性であるからには、村の創世に関わる神歌がよまれる場に立ち会うことは許されなかった。神歌によまれている世界は、すべて村人に平等に開かれているのではないのである。」

(内田『宮古島狩俣の神歌』, p.55-6)

しかし、一方で私のような外部観察者の視点からすれば、村落の伝承知識のシステムというのは、それが様々な禁忌を含むものであるが故に、後で取り上げるように、超越的な視点の不在と展望主義的な歴史意識によって特徴づけられるもので、それ自体が共時的にも幾つかのレイヤによって構成されており、さしづめ男の神役の知識についていうならば、その周縁的なレイヤを形成しているに過ぎないようにも見える。より中核的な神女達のレイヤ自体、その神役の重要度に応じた情報アクセスの制限に応じて更に複数のレイヤに分かれており、それぞれがアクセス可能な知識が限定されており、全体として各レイヤの内部では、限定された情報の範囲内で整合性が取れるように合理化が行われた結果として、異なるレイヤの間では逆に、情報はしばしば矛盾を含むものとなったのであろう。

そうした狩俣の村落内の成員間での情報の偏在を踏まえた時に、狩俣の神歌の体系内に層を見出すことができるかということが問いとして立てられるだろう。そして最初に述べたように、それは内容的にも、より始原的な層とより新しい層に分かれるであろうし、例えばより始原的な層に属する神歌は、語彙や統語、あるいは節回しや所作といった非言語的な側面も含めて、より古い層の特徴を留めているということが観察できないか、ということが問いとして浮かび上がってくるように思われるのである。それは藤井貞和が『<うた>起源考』あとがきで言及する以下の『古事記』に関する指摘に並行するものとして考えられるだろう。

「朝日古典全書『古事記』上・下(神田秀夫・太田善麿、1962)を産んだ、神田の『古事記の構造』(明治書院, 1959)には、六世紀代の「古層」、七世紀代の「飛鳥層」、そして(現行の)「白鳳層」を分けており、私にとっては取り組むに値する起点となった。「構造」と言い、層的な視野と言い、私にはぞくぞくされられる内容ばかりで、いつかそのあとをフォローしたいと思いつつ、いまに至る。 」

(藤井『<うた>起源考』あとがき, p.454)

だが本章では直ちに神歌そのもの中に体系内の層別の手掛りを求めることはせず、まずは儀礼において神歌に対して当事者たる神役達がどのような姿勢・態度で向き合っているかという、主観的な姿勢を確認するところから出発したい。そこで注目されるのは、儀礼の遂行においては内容よりも行為遂行的な側面の重視であり、継承においては神歌の意味よりも、神歌の部分部分が祭祀において果たす機能の直観的な把握の重視である。その上で神歌と神役の関わりに注目し、儀礼におけるパフォーマンス(よむ/うたう)の区別に着目して神歌の分類を行うことを通して、神歌そのものというよりは儀礼や祭祀組織も含めた横断的なレイヤの存在を浮かび上がらせることを試みる。その上で狩俣の祭祀の特性としての空間性に言及した後、最後に改めて狩俣の祭祀を<二分心>との関わりで眺め、その構造がジェインズの言う<二分心>の一般的パラダイムに一致するとともに、三輪眞弘の「逆シミュレーション音楽」の構造とも一致していることを示すことで、未来へと通じる可能性を孕んでいることを示したい。

2.儀礼における行為遂行的側面の重視

儀礼は行為遂行的一回性を持つが、それと同時に、仮構された起源の想起として、反復して遂行されることを要請されていて、「形式」を与え、様式化を行うことが求められるのはそのためである。憑依による神託を一時的な神がかりの神託と捉え、それに対して伝承の結果としての様式化との単純に対立させた内田の以下の言及は、その限りで勇み足であろう。

「ウヤーンの祭儀でよまれるフサ<祓い声>は、憑依との関連から多くの言及がなされてきた。それらの先行研究が教えるところは以下である。<祓い声>は、神が一人称で自身の来歴を叙事するものである。ここには、巫者の祈願のなかに神があらわれ、のりうってくるという、神託・神話の古い形式がのこされている〔小野1977:69/藤井 1980:78〕。しかし<祓い声>は、憑依による神託には直結できない。なぜなら<祓い声>は、一時的な神がかりの神託ではなく、共同体の整えられた祭儀のなかで伝承されているものであり、すでにそのものとして様式化されているものだからである。<祓い声>が神託のように見えるのは、それが神自身のことばのように生み出されたからである〔真下1995:22-25〕。神歌は、神のことばを装う様式を持つ必要があったのだ〔居駒 1996:39〕。」

ここでは2つのことが見過ごされているように思われる。一つには、様式、形式が持つ機能的な側面で、それが形式を持ち、様式化されているからこそ、憑依の契機になりうる、寧ろ、<二分心>崩壊後の祭祀にとって、形式や様式は、遡行のための通路ではなかったか(たとえばマントラ・呪の如きもの、或いはその行為遂行のされ方、即ち反復による身体への記銘とそれと表裏をなす意識の希薄化)という観点であり、もう一つには、憑依現象として想定されているのがデルフォイの神託の如き「内容」に関わるもののようだが、それは<二分心>時代の「近い神」からの悪しき類推であり、ここで本永のいう神話・儀礼・神歌間の構造連関があり、歴史意識に媒介されている限りにおいて、参照対象として適切ではないという側面である。

特に前者は内田自身の「かたち」の分析の枠組み自体に跳ね返ってきかねず、少なくとも藤井がまさに引用した著作の冒頭において「詩がなんらかのかたち(鋳型)を要求することと、詩は外から付着するようにして個人をおとずれる」という現代日本語の経験を起点に、古代詩の問題として「前者は定型を詩が必要としていったのは何故か、という問題へつらなり、後者は、宗教的欲求が詩的能力を育成していった次第を端的に説明する」(藤井貞和『古日本文学発生論』, p.14)と述べた問題設定からすれば筋違いに思われる。最近でも、懸け詞を例に「詩は技巧か、それとも技巧によってもう一つ高めた位置から自由に出入りできる精神的な行為であるか」(藤井貞和『<うた>起源考』,p.20)と述べる立ち位置にいることを思えば、寧ろ内田は自分の探求の理論的フレームとして藤井に依拠する立場にあったのではないかと問いたくなる程である。

寧ろこの点については、以下の真下の伝承という垂直の時間的方向と、祭祀を共同で行う神役たちの間の相互作用という水平の集団的方向の両面の伝達・共有が、形式を生み、それを洗練させていったという指摘の方が妥当であろう。

「狩俣の女性神役たちの場合、こうしたものと同様に神そのものとして振舞うのであるが、彼女たちは深いトランス状態にあるわけではない。その神事に朗誦される呪詞と演じられる舞踊とは長年にわたって人から人へと伝承されたものである。したがって、これらは型を備えたものとなるのである。しかも、彼女たちの舞踊は集団的なものであるから、聴衆はいなくとも、互いの視線が意識の上で、または無意識のうちにはたらいて洗練されてゆくのであろう。」

(真下『声の神話』p.237

それでは記憶の継承の具体的な様相はどのようなものだろうか。この点に関して近年の研究が明かした興味深い事実として、基本的には口承性が重視される狩俣の神歌の継承においてさえ、文字記録がメディアとして活用できることがある。居駒は大正時代、神歌の継承に文字記録を利用されるようになった事実について、以下のように記している。

「アーグヌシュに選ばれると、287行(狩俣昌喜さんのノートによる)のニーラーグを覚えなければならない。その重圧は大変なものだと3人とも口をそろえて語った。平良さんの場合は手紙のような小型のノートに書いて、毎朝家族が起きる前に誰もいないところで覚えたという。その努力は並大抵のことではない。狩俣さんもノートを持っている。(…)ノートはすべて片仮名で書かれている。平良さんは前任の久貝さんのノートを写して教わったが、最初はまったく意味が分らず。音だけで覚えたという。(…)ノートの起源は昭和の初め頃の前里太郎と、その名前まではっきりと記録されている。狩俣さんの祖父の世代からの明確な伝承なのであろう。しかし、池宮正治が紹介した前掲の狩俣新茂ノートが大正年間にすでにあったことは、狩俣では知られていない。」

(居駒永幸『歌の原初へ』,p.122-4)

もっとも文字記録になっても、記録され継承されるのは意味ではなく音韻である。何世代もの間の継承によって、かつては自明であったであろう意味はわからなくなっている。また節回しが記譜されることはなく、口承されることに注意。いわゆる「歌」としての記譜法のシステムはない。口承性の重視というのは、謡本が存在し、伝書が存在する能楽においても、特にその継承のフェーズにおいて永らく重視されてきた。結果としていわゆる能役者の家柄に生まれ育った子供が、古語で書かれた謡の意味を理解することなく、或いは誤解したまま、謡を覚えて身体化するというようなことは起きているようである。一方、文楽における床本のように、上演時に文字記録媒体を利用する芸能もあるものの、能がそれを上演時に用いることがないという点においては狩俣の儀礼は能楽により近いと言えるだろう。

「(…)村落の祭祀を担当する神役が保持する神話は、その祭祀の根幹に関わる神聖なものとして、次の神役に厳しく伝えられてゆくものである。その伝承のかたちは当然、声を主としたものである。しかし、韻律をもつ神話は神事のなかで誦みあやまることが不都合であるため、文字によって伝えている場合もある。宮古島狩俣の場合、高梨一美氏が報告されたように、神話内容を含んでいるフサやタービと呼ばれる呪詞は就任時に前任者である神役のノートを借り受けて書写するのだという。フサを朗誦する役のフサヌヌスの一人は研究者のまとめた書物から書写したことを前任者のフサヌヌスからとがめられたことがあったと語っておられる。必ず前任者の神役でなければならないというのであって、伝承への厳格な意識がうかがわれる。(…)

 しかし、先にも述べたように、これらの呪詞は文字から受け取られることばだけのものではなく、その抑揚・旋律が学ばれねばならない。フサヌヌスの場合、ノートから書写したあと、その前任者から教授されるのだという。その詞章の意味については、内田氏によれば、それを考えることなくことばを記憶するのだという。これは、これらの呪詞の詞章のほとんどが神話としてのストーリー性を持つものであるため、それが朗誦されることによって朗誦者の感情が移入され、詞章が改変されやすいということを避けようとしているのだと思われる。」

(真下『声の神話』, p.6)

この最後の意味を考えないことの理由は余計であり、感情移入による改変という何ら認知的な裏付けもない説明を持ちだすのは却って問題の所在をわかりにくくするだけのように思われる。

ただし、感情移入を持ち出すようなことをしなければ、上記の真下の指摘自体は正鵠を射ていると言える。つまりそれは、神歌が儀礼の場で機能する限りにおいて、意味内容ではなく、正確さが権利上優越するということであって、正確さを担保するために形式化、様式化が要請されていると考えるべきである。実際、神歌の意味内容である神話は、別の形態で、例えば昔話や伝説の類として、独立に伝承され、伝播されうるが、その過程で意図的に、或いは無意識的に改変や構造上の変換、他の説話との融合などといった多様な変容を蒙りうる。同じ内容を扱っている筈の男性神役のニーリが既に、女性神役の担う神歌との間でずれを起こしていることを、真下は別の所で以下の通り指摘しているが、これは裏返せば、儀礼においては、意味内容というのが副次的なものであって、その神歌がどの場面で、どのように歌われて、どのような機能を果たすのか(従って、同じ内容が、別の場面で、別の目的で歌われることもまた、ある訳である)の方が第一義的に問題とされていることを物語っていると思われる。

「狩俣の祭祀集団ウプグフムトゥの始祖神話は、祖神祭り第二回のイダスウプナーでの第四日の山下り、および第五回トゥティアギでの第五日の山下りの際にのみアブンマが主唱して朗誦されるものであるが、男性たちが果たす役割はこの場にはない。したがって、彼らはこの神話を耳にすることがないのである。
 (…)この呪詞はアブンマが主唱するものであるが、その詞章の順序は間違えてはならないもののようである。あるとき、間違えたことに気づいて朗誦し直されたことがあった。こうしたことから考えると、泉巡行の順序なども変わってはならないことであろう。
 しかるに、男性長老たちの伝承ではカナギガーとクルギガーの順序が入れ替わっているのである。彼らは村落の祭祀を中心とする民俗について書物として刊行しておられるような知識人である。(…)」

(真下、同書, p.v)

またしても、ここでの真下の解釈はちぐはぐである。言ってみれば、抽象化されたゲシュタルトが問題なのではなく、細部のあり方こそが問題なのだ。概念化を過剰に行ってしまう現代的な意識を備えた人間よりも、動物の認知に近いとの指摘のある(例えばグランディン『動物感覚』での考察や、オリヴァー・サックスの『火星の人類学者』に収められた例を参照のこと)自閉症患者の認知に適したような、細部が問題になるということであり、それを思えば、知識人でさえ間違えるのではなく、知識人「だから」間違えるというべきところの筈である。

意味よりも行為遂行性の優位ということでは、神歌の内容についての了解が流動的であることを傍証として挙げるべきかも知れない。神歌は狩俣方言の古語によっており、一般的な宮古方言では勿論、現代の狩俣方言でその意味を了解することさえ困難であるとされる。最も近年の例では、フサの内容に関して、狩俣吉正『沖縄・宮古島狩俣民俗誌』において、従来の解釈、例えば以下のような記述の前提となる解釈に対して、全く異なる意味内容を持つという解釈を提示しているのである。

「(…)谷川健一『南島文学発生論』はフサの内容に不条理性と指摘しています。毒殺する話とか、墓地を争って殺してしまうとか、とても残酷なフサもあるとしています。
 例えば、このようなフサです。夫がウヤーンをつとめる妻の神衣装を隠し、箱に入れて海に流してしまいました。妻が探したら、幸いにもその箱は木に引っかかっていました。それを開けると、神衣装の腰の紐が蛇に変わり、神事の邪魔をした夫を大木の幹に巻き付けて殺したとするのです。これはトーナジのフサです。また、女中が主人の子供を産んで本妻を追い出してしまうイソドゥヌぬフサ、雇い主の子供を死なせておいて、下男がやってきたら骨を見せるなど強迫するギザ(下男)のフサ、親戚同士が墓地を奪い合うミャームギのフサなどがあります。非常に残酷だったり、悲劇的であったり、そういうフサがよまれます。」

(居駒『歌の原初へ』, p.274)

これ対して、狩俣吉正は以下のように述べる。

「これらのフサの内容について、これまで解説紹介されてきた内容と狩俣方言で読み解いた内容に大きな違いがある。これまで狩俣の神フサは恐ろしい内容が多いと聞かされてきた人が多いのはこうした解釈ミスによるものと思われる。これから紹介するフサをお読み頂ければお解りのとおり、どれを取ってもすばらしい内容の詩である。前に説明したとおり「フサ」というのは神様が現世の人々に語り教える歌だから、怖い話で現世の人々を脅かすような詩であるはすがない。」

(狩俣吉正『沖縄・宮古島狩俣民俗誌』, p.199)

一つだけ具体的に狩俣吉正の解釈を例示しよう。居駒の言う「イソドゥヌヌフサ」について、狩俣吉正は以下のように述べる。

「このフサは「磯殿」が側室を娶って本妻を追い出す歌だと紹介されているが、狩俣方言でよみ解くと内容は逆になる。磯殿が伊良部島へ渡り、そこの女性を娶るにあたって家の者に青く輝いた宝玉を贈り婚姻を許される。夫婦になったことを平良の豊見親に報告して狩俣に住むようになるが、伊良部島から嫁いだ女は海が大好きで、解任しても毎日海に出ていた。やがて激しい腹痛に見舞われ流産騒ぎになった。予定日の月に入っていたので激痛を耐えて待っていると元気な子を授ることが出来た。これは神様の神力と御加護によるものだと大喜びの磯殿は、我が子を抱いて村中を歩き廻った、という内容である。夫婦和合、嫁を取る時の礼儀(結納品)、子の誕生を通じて神様の御加護の重要性を教えている歌である。」

(同上, p.215)

ここでは狩俣吉正の解釈の当否を問うことはしない。寧ろそれよりもここで注目したいのは、仮に狩俣吉正の解釈が正しかったとしても、当事者である筈の神役達自身の認識として、従来の解釈が受容されたという事実である。それは例えば、以下の内田の記述から窺うことができるだろう。

「(…)注目されるのは、狩俣のフサという神歌は、そうしたネガティブ世界について、きわめて饒舌にかたる神歌だということ。神役をつとめたけれど、神様なんて実感しなかったと語った女性は、フサについて次のように、口ごもりながら語った。「神様の歌というけれど、あんまりいい歌とはいえないものもあるよ。」狩俣においては、神役になるという経験によって、神の世界のネガティブな側面を知る場合もあるということを示している。」

(内田, 前掲書, p.51)

少し前には、恐らくは上とは別人と思われる神役の経験者が、神役をフサをよむかどうかで区別したという証言があるが、少なくとも内田は、フサが上記のような内容を含むという了解が神役に存在するということを前提に、そうした区別の意味合いを理解していると読み取ることができるし、それは内田個人の主観であるというより、内田が聞き取りを行った当事者である神役経験者の了解の前提であったことを強く示唆する。

ここから言えることは、それが間違いであったとしても、そうした間違った了解の下で祭祀は実施され、継承されうるということであり、勿論、その限りで意味内容は一定の効果を祭祀の実施に及ぼす可能性はあるものの、実のところ祭祀の遂行という観点からは、意味内容の理解は控え目に言って副次的なものに過ぎないということであろう。価値判断基準に照らして正反対の了解の下であっても、祭祀は継承され、継続してきたのである。寧ろ狩俣吉正の解釈が提示された時には、既に祭祀は停止し、その継承は途絶えてしまっていたことを思えば、仮にその解釈が正しいとしても、その水準での解釈の正しさは、祭祀の実体に対しては無関係であることになるだろう。

実際以下に見る通り、神歌の伝承の現場では意味内容の継承は行われていない。どういう場面で、どの神歌を、どういう順序で、どういう所作で歌うかのみが問題であって、歌の意味内容の詮索は、神役の能くするところではないということは強調してもし過ぎということはないだろう。

この証言で注目すべきもう一つの点は、「意味」の発生のありようというのを極めて正確に記述している点である。ここで語られているのは、AIや認知科学、構成主義的ロボティクスの基本問題の一つである記号接地(シンボル・グラウンディング)そのものなのだ。そして同時にここでの価値づけの基準となっているのは、概念レベルにおけるカテゴリカルな意味合いでの妥当性ではなく、より形式的で、或る意味では表面的な同一性であり、それはグランディンの指摘に拠れば、高次の意識を備えた人間の認知よりも寧ろ動物の認知に近いとされる自閉症的な認識の水準に近接するという見方さえ可能であろう。そしてそれは同時に、<二分心>的な心性に接近するための手掛りとなる可能性さえ秘めているように思われる

「狩俣においては、神歌は変えてはならないものとされ、前任者から教えられたものを、そのままおぼえてよみあげる。だから、神歌の「順序」というのは、サスになりたてのころであっても、十年たっても、変わるものではない。教えられた順序のまま、その通りよみあげるだけである。ただ、十年もサスをつとめていると、神歌をよみあげつつ、「こっちはこうだ、あっちはこうだ」というようなこと、すなわち「意味」がわかってくるのだという。よみあげる順序自体は変わっていないのだが、それから意味をうけとれるようになるのである。与えらえていることばそのものは変わっていない。神歌をよむ人は、与えられていることばに順序を見いだし、意味をうけとるのである。それができるようになるまでには十年を要する。なぜなら、誰も教えてくれないからだという。
サス経験者のTさんは、「むかしのおばあたちは、ぜったい無言だったのに」と語る。神歌をならったときには、詞章については「話も聞いていない」と。だから、「ことばじたいがわからない」と語る。
 別のサス経験者Mさんもまた、「意味はいちいちは聞いていない。モンクだけサーサーサーっといって、意味はわからない」と語った。
 アブンマも次のように語ったことがある。「私なんかはいちいち意味を聞いていないさねえ。昔のエイゴだから」と。昔のエイゴのように、意味不明のことばがあるというのだ。
(…)
神歌の継承者にとって、神歌の意味というのは、先輩からならうようなものでもなく、神歌を継承する人が、自分でみつけだしてゆくものという一面を持っていることが指摘できる。神歌のモンクはすでに決まっている。フシも決まっている。声の出し方、所作、よみあげる場等々もすべて決まっている。先輩からならうのは、第一にそうした決まりであり、神歌の継承においては、意味は第二のものである。」

(内田, 前掲書, p.67-8)

神歌の継承において内田が要約した最後の点、つまり、祭祀という場面においては、言語の持つ意味的な側面は副次的なものであり、言語の行為遂行的な側面とそれを支える様式こそが優越しているという指摘は、単に継承の側面においてのみ当て嵌まるわけではなく、まずなによりも儀礼の遂行そのものの場面においても当て嵌まる。総じて様式化は、儀礼における行為遂行と分ち難く結びついており、儀礼の遂行の正確さを担保し、同期・引き込みにより儀礼に参加する個人の集団への参与を容易にし、新たな継承者による習得、身体化を容易にするにあたって本質的な役割を果たしていることに留意すべきであろう。

結果として、以下の内田の指摘こそ、狩俣の祭祀における言葉の在り方を端的に要約しているものと考えたい。

「(…)私たちは、日常生活を営むとき、意味を伝えるものとしてことばを使っている。ひとつのことばは、ある意味と、言語共同体の成員が共有している「記号体系=コード」によってしっかりと結びつけられているので、私たちはその結びつきにしたがってことばを用いれば、その結びつきを共有するものどうし、意味を伝えあえると信じて疑わない。
だから私たちは、通常は、ことば意味を伝えるものとして用いている。コミュニケーションの道具として使っている。意味のないことばというものを、ふつうは考えない。神歌の歌詞がわからないということが、神歌をよむ人たちによってしばしば強調されるということそれ自体が、狩俣においても、通常は、ことばが意味を伝えるものとして考えられていることを示している。
意味がはぎ取られた状態で与えられることば。それが神歌のことばである。(…)」

(内田, 前掲書, p.68)

3.神歌の意味内容と祭祀における機能、文脈による分節作用

だが、だからといって、神歌が全く無意味な音の羅列として唱えられるだけというわけではない。神歌のある箇所の単語の意味、そこで語られている内容がわからないとしても、神歌のその箇所は、それが或る所作や応答を引き起こすという点で、祭祀の文脈における機能を担っていることが、以下の内田の報告からわかる。

「ところで、神様のことばで名前を呼ばれたときに返事をするという動作は、おそらく、神様のことばがなにをさししるしているのか、意味との結びつきを学習していくのに役立っていると考えられる。
たとえば、「あまてらすおおみかみ かんがなしぃ みょーぶぎ」とよまれた時に、ヤマトゥンマがある所作をする。そのことばが、ヤマトゥンマのある動きを導くものとしてはたらいたということである。その動きを、神役たちは「返事」ととる。あることばがよまれたら、ある神役が返事をするのである。それによって、そのことばは、ある神の名前としてはたらくことになる。神歌がよまれる場では、ことばとその意味との結びつきを、このように学んでゆくことができる。
ここで述べている「意味を学ぶ」というのは、「あまてらすおおみかみ かんがなしぃ みょーぶぎ」ということばそれ自体の意味を学ぶということではない。そのようによまれたら、ひとりのサスがある動きをするということを学ぶということである。そして、その動作が「返事」であることを学ぶのである。」

(内田『宮古島狩俣の神歌』第3章 神の名 4 返事する)

だが、ここで論じられているプロセスこそが、「ことばの前のことば」の次元で、音のつながりが、それが発せられた文脈においてある役割を持ち、行為を誘発するという、意味の発生の現場そのものではないのか。順序が逆になるが、内田が上記に先行して報告している「神の名」に関する神役たちの反応もまた、音の繋がりの分節と、その音がその文脈において持つ意味の分節が生じる場面を書きとめたものと考えることができる。

「カミフツの世界では、狩俣は、ニシシブ、ナカシブ、ヒガシシブと大きく3つに区切られている。(…)祭儀を行っている場所が、ニシ・ナカ・ヒガシのどこであるかによって、A4でよみあげる神の名は違ってくるのである。(…)
カミフツをよまない人の耳には、カミフツは、変わりばえのしない神様の名前が連綿とうち続いてゆくだけの単調な響きにすぎない。けれど、カミフツをよむ人は、それを部分として認識している。そうでなければ、ここではこの神、あちらではこの神というふうに、「取るのは取るし、入らすのは入らす」ことはできない。どこまでがひとりの神の名前になっているのかがわからなければ、取ったり入れたりはできない。」

(内田『宮古島狩俣の神歌』第3章 神の名 4 返事する)

4.狩俣の神役の位置づけ

ところで内田は狩俣の神役の位置づけについて、著書の最初で、一般的な了解として良く知れられている神役と神の対応づけについて以下のように述べる。

「(…)狩俣には、多くの神々と、それをまつるサスと呼ばれる神役とがある。ここで強調しておきたいのは、ひとりのサスは、ひとりの神の司祭として存在している、ということ。集落の人たちは、サスを通じでなければ、それぞれの神を拝むことはできない。」

(内田『宮古島狩俣の神歌』第1章 神をまつる人たち、1.神の司祭=サスたち, p.35)

だが、実際の祭祀における神歌とそれが駆動する所作から言えるのは、神役は単なる担当司祭というのではなく、文字通り、その神の役を演じる存在であり、憑依しているわけでなくても、祭祀においては神の代りの役割を果たしていると見做すのが適当そうだということである。そして狩俣の神は性別を持っているが、その性差に依らず、神役はすべて女性でなくてはならない。例えば、史実におけるクバラパアズの神格化である、クバラパーギィは狩俣までの道を整備した神とされ、性別は当然男だが、クバラパーギィを担当するサスであるスマヌヌス(島の主)は女性である。

一般に、狩俣の祭祀が女性だけで行われるということは狩俣の祭祀の個別研究をするような場合には、寧ろ前提に属することであるせいか、祭祀における男役の役割についての記述は乏しいが、男性神役の中で、神歌に関わりの深いアーグ主(ヌシュ)への聞き取りの記録である居駒『歌の原初へ』第1章神話と神歌 4 ニーラーグとアーグヌシュ を除けば、例えば以下のような記述を拾い上げることができるだろう。

「なお、神謡は男性が詠むものではない。また、儀礼で謡う男性も、神謠(ふさ)を詠むとは言わない。男性集団は、集落立ての創成神や勇者としての神のことを節に乗せた「祖神のニーリ」を<粟ブーイ(夏の収穫祭)>、<正月祈願>、<里大宴>などで謡った。」

(奥濱『祖神物語』第5章昔の霊力のままに p.)

『南島歌謡大成III宮古篇』の外間の解説 狩俣部落の神祭りと年中行事では、以下のように「狩俣の男の神職」が整理されている。(p.510)

日取り主(一人) 神行事の日を選ぶ役目をする。神の使いであり、神の命によって百日を選ぶ。狩俣では毎月朔にその月の行事日程を大城元でアブンマに報告する。この報告をアブンマは各元の責任者である神女ウヤバーに報告し、氏子に伝えられる。最高神女のアブンマと並んで位の高い男の神職であり、敬われる。原則的には大城元と志立元の人がその役につくことができる。
アーグ主(二人) 神行事の時、男性側の神歌(ニーリ、ビャーシなど)の音頭をとったり、謡ったりする役目をする。二人のうち先輩を兄主と呼び、後輩を弟主と呼ぶ。日取り主も加えて、これを三役という。
佐事の主(二人)
ニウ(柄杓)の親(一人) 接待係で、柄杓を扱い神酒を注ぐ役。
ボーザの主(一人) 賄いの係。給事をする。
水ブー(一人) 水の係である。お茶を入れる時やその他給事に必要な水を準備する。

上記の2つの引用で注意が必要なのは、奥濱が神謠ということで、振ってあるルビが示すようにフサを示しており、それを女性が「詠む」ものとして扱われており、それに対して男性が「謡う」ものとしてはニーリが挙げられているのに対し、外間の解説の神歌は、神事に関わる歌謡全般を示しており、その中でも男役が謡うものとして、ニーリとビャーシが挙げられているという点である。

上地太郎『狩俣民俗史』で詳しく説明している通り、元の建物も女性用の上の屋、男性用の南の屋というような双分的な構造を備えており、男役も祭祀において対等と言わないまでも、それなりの役割を担っているように見える。

だが奥濱が指摘する通り、男役も祭祀に参加するが、全てではない。祭祀に参加する場合でも、神女が行うように神の役を演じることはない。神職ではあっても神役ではない、という言い方もできる。

男性神職で最も位が高いビューヌシュ(日取り主)は神事暦を司る役割であり、祭祀が生活の中で大きな比重を占める村落の生活の年間予定を実質的に決定する権限を持っており、外交でいけばロジスティックスの責任者の立場。ビューヌシュは神の使いであり、神の命によって暦を決定すると言われるが、その「神」がどんなものであるか、神とビューヌシュがどのようにして関わりを持つのかについての記述は見かけない。

ビューヌシュ、アーグヌシュは大城元か志立元から選出されることになっており、政治的・経済的な現実の村落運営の体制とは必ずしも一致するわけではないにせよ、祭祀における役割を考えれば、まず祭祀の運営の現実面を担い、現実の村落運営の中での祭祀の遂行に関して、実質的な権限を持っていること、一方で、祭祀そのものに内部においては、その周縁に位置づけられ、神女が行う祭礼の遂行を見守る「傍観者」(但し祭祀に文字通り、立ち会い、その過程を観察できるわけではないのだが)の立場であると考えられる。男役も一部の祭礼において、ニーリを謡うなどによって神事に参与しているという見方もあるだろうが、ニーリを謡うことは、実質的に祭祀の本体部分である神女が遂行する儀礼には全く関与していない。いわばそれは並行して、独立に周縁で行われるものなのであり、後述の通り、真下が芸能との比較の文脈で述べているように(真下『声の神話』)、寧ろ観客の立場に近いとさえ言いうるように思われる。そしてそうした男役が祭祀において占める位相について、奥濱が「詠む」と「謡う」を峻別している点は、そうした構造的な区分が神歌の内在的な形式に反映している可能性を示しており、これについては別途検討したい。

5.宮古の歌謡の分類における狩俣の神歌

ここでは狩俣の神歌としてビャーシ、タービ、フサ、ニーリを取り上げる。だがこの4つを取り上げることは、従来宮古島の歌謡の分類として立てられた説からすれば自明の選択とは言い難い。

『南島歌謡大成III宮古篇』の外間の分類では、上記4つは呪禱的歌謡に分類されて、叙事的歌謡、抒情的歌謡と対比される。なお呪禱的歌謡には、ニガリ、マジナイゴト、トゥクルフンも含まれている。一方、新里の『宮古島の神歌』では、外間の分類への批判として、嘉味田の説を取り上げているが(同書 序にかえて, p.21)、そこでは、となえごと(誦詠)としてのニガリ、マジナイゴトに対して、謡(あーぐ)(歌謡・うた)を立て、その下位区分の一つに宣り謡(あーぐ)=ニーラーグとして、ビャーシ、タービ、フサ、ニーリ、トゥクルフンを含めている。新里の見解は、再び外間とほぼ同じ大分類の呪詞・呪禱的歌謡にニガリ、ヂーユンとともにここで扱う4種を収めるものの、呪詞・呪禱的歌謡は嘉味田の説を容れたかたちで、呪詞であるニガリ、ヂーユンと呪禱的歌謡である残り4種類に下位分類されるので、ここで取り上げるものは新里では「旋律化した謡いもの」(同書 p.26)としての呪禱的歌謡の分類と一致することになる。だが、新里は奥濱の指摘する「詠む/謡う」の区別には無頓着であり、全てを謡いものとして一括してしまう。その証拠にフサについても「謡われる」というように書いている。だが、これは奥濱の聞き取りによれば、少なくとも当事者である狩俣の神役の主観的な認識とは隔たったものである。だがここでは、当事者の意識として存在する「詠む/謡う」の区別を出発点として、宮古の歌謡全体を俯瞰した場合には「呪禱的歌謡」として一括されてしまうジャンル間の内部構造に注目したい。

その理由の一つは、外間や新里が、宮古島および宮古諸島(多良間島も含む)全体の歌謡を包括する視点をとったのに対して、ここでは狩俣以外では、「狩俣圏」とここで仮に呼ぶ、大神、島尻までを範囲とし、しかもいわゆる神行事で用いられる歌に限定した検討を行うからである。しかし実は、外間・新里の言うところの「宮古の歌謡」なるものに、狩俣の神歌が単純な仕方で帰属するかどうかにたいして疑念なしとしないというのがもう一つの理由である。見方を変えれば、宮古島および宮古諸島で採集された歌謡のジャンルの全てを無差別に単一の空間において、それらに対して外部からの観察による分類をあてがうことの妥当性について疑念なしとしないというのが本論の立場である。

勿論、地域的には狩俣にせよ、狩俣・大神・島尻の「狩俣圏」にせよ、宮古島や宮古諸島の一部を為すわけだから、「宮古の歌謡」というものを考えた時に狩俣の神歌がその一部として帰属するのは一見したところ自明に見えるかも知れない。しかしながら、ここで取り上げる4種類の歌謡についてのみ言えば、まずフサについてはそれが採集されたのは、専ら狩俣においてのみであり、島尻ではスサと呼ばれて、同じものが存在したであろうことが推測されるのみ(新里、前掲書、p.29)だし、タービについても「タービは狩俣のものが記録されるだけであり、他の部落の記録はない。おそらく、大神島や島尻でも謡われていたものと推測されるが未詳である」(p.28)と記載されており、従って、それは「狩俣圏」固有のものである可能性が高いようなのである。

残るビャーシとニーリはいずれも宮古諸島の他の場所でも記録があるようだが、ビャーシについては狩俣でのその機能は、祭祀の形態の特殊性を反映して他と異なる点もあるようだし、ニーリは多良間や砂川でも謡われるものであるが、狩俣の祭祀の中でのその位置づけは、フサやタービに比べると周辺的なものと見做すのが適当に思われる。そしてこの事情は、狩俣の祭祀のうちその中核をなすウヤーン(祖神祭)が狩俣圏独自のものであるのに対し、ビャーシやニーリが謡われる祭祀は、他の地域との共通性を備えたものであることに寧ろ由来すると見るのが適当のように思われる。一方、「狩俣圏」の内部を見た時、祖神祭の中核となすフサが島尻でも伝承されていたことが確実視され、またビャーシについても島尻で採集されたものが幾つか知られているのに対して、ニーリが狩俣独自のものである点は、前の章で述べた、「狩俣圏」内部における狩俣の特性を踏まえた時、特に注目される点であり、この後、少し詳しく見ていくことにしたい。

控え目に言っても、祖神祭を中核とする神行事は一連のシステムを形成していると考えるべきであり、そうだとしたら、狩俣圏独自のフサやタービは勿論、ビャーシとニーリについても、その機能や構造上の位置づけは異なったものと考える方が自然であろう。つまり祭祀のシステム自体、宮古島の祭祀一般があり、その一部として狩俣があるわけではないという事情と並行して、歌謡についても、宮古島の歌謡一般の一部として狩俣のそれがあるというより、狩俣固有の祭祀・歌謡と、宮古の他の地域と共通の祭祀・歌謡があるという見方の方が、採集された資料の総体の在り方に対して忠実ではないかと思われるのである。

そこで本論では、奄美・沖縄、或いは宮古の歌謡の中で狩俣の歌謡を検討することを敢えて行わずに、狩俣の祭祀の体系の中で、祭祀で用いられる4種類の歌謡について検討するアプローチをとることにする。そしてその時に注目すべきは、神歌の間にある差異の構造であるという立場をとりたい。

真下は、こちらは更に広く、奄美・沖縄の全体を俯瞰する視点から、『声の神話』の冒頭において、まず神話を、「声によってのみ生成・伝承される神話」と「文字によって書き記されて今日の我々の目の前にある、いわゆる文献神話」と対比させる(真下『声の神話』, p.5)。そして更に前者である「声の神話」の形態として、「日常の会話のかたちで話されるもの(説話としての神話)と特別の韻律と抑揚・旋律とを有した言語表現のかたちで発せられるもの(呪詞としての神話)とがあることはよく知られている。」(p.6)と述べる。狩俣は『声の神話』で参照される具体的な事例の主要なものの一つであるが、狩俣について言及する際に、「呪詞フサ」(同上)と呼び、内田の研究を紹介しつつ、フサのよみ方に注目し「神役たちがこうした韻律あることばの神話を生み出す際の意識やその発し方についての彼女たちの解釈については、このような神話が厳しいタブーを伴っているためなかなか明らかにしがたいが、声の表現方法とその意識というテーマは重要である」(p.7)と述べており、本論と観点の一部を共有する。だが、ここでは、真下が注目する声の表現方法と意識については後に検討することとして一旦措いて、そうした問題意識の下で、一旦、全てが「呪詞」と把握されているかに見える真下の議論において、神歌のジャンルの違いがどのように扱われているかを見てみることにしたい。とりあえず、各ジャンルの神歌が参照される箇所での真下の表現に注目すると、以下の通りである。なお、網羅的な検討は主旨に照らして不要なので、以下は幾つかをピックアップしたものであるが、一見してわかる通り、真下は神歌のジャンルの内部での区別についてはそれを重視していないように見受けられる。

「(…)ニーリという呪詞を朗誦する」(p.8)

「フサと呼ばれる数多くの呪詞が朗誦されている。」(p.21)

「「ハライグイ」という呪詞」(p.21)

「この夏の祭りに女性の神役によって朗誦される呪詞がタービやビャーシである。」(p.21)

勿論ここでの目的は、奥濱が指摘する神歌のジャンルの区別に対する神役たちの認識に対して、真下が無頓着であることを批判することではない。既に記した通り、真下においては「声の神話」の中で説話と呪詞とを対立させるという視点があり、その限りでは呪詞の細部の区別は重要ではないということに違いなく、その限りでは呪詞の内部を更に細分化しないことを批判するのは筋違いということになるであろう。だが一方で、真下が「韻律あることばの神話を生み出す際の意識やその発し方についての彼女たちの解釈」を重視するのであれば、それらを呪詞として一括して、内部の差異に立ち入らないことが、その意図に対して制約となっていないかについては検討が必要ではなかろうか。

新里が、外間の呪禱的歌謡を、呪詞・呪禱的歌謡と捉えなおし、狭義の呪詞と呪禱的歌謡とを区別していることからすれば、寧ろ外間の分類に近いということになり、叙事的・抒情的に対立する「呪禱的」という特徴づけがここでは内容的な観点で「神話」として把握されていると見ることができるだろう。

目的や方法からすれば妥当と思われる真下の捉え方は、だが、本論の目的からすると不十分な感を免れない。新里が呪詞・呪禱的歌謡と区分する後半4種類の神歌の内部ですら、神役の意識のレベルでは、その表現方法について看過できない差異が認められるし、狭い意味での呪詞というのは、その機能は第一義的には祭祀における神への呼び掛けという言語遂行的側面にあるのであって、必ずしも「神話」を含むことはその条件ではないと考えられるからである。

ここでも恐らく、真下が、奄美・沖縄という極めて広大な領域を俯瞰する視点を持っていることが原因の一つとして考えられるだろう。外間・新里においては宮古島・宮古諸島という範囲において、フサやタービが狩俣ないし狩俣圏固有のものである可能性は少なくとも意識はされているのに対し、真下の視点はより広大であるが故に、狩俣の祭祀のシステム、神謠のシステムの特殊性よりも、それを広い意味での「声の神話」の中の呪詞の一例として扱うことで比較対照が可能となると事情があるのであろう。だがそれにしても狩俣の祭祀や神歌の特徴が、そのシステムの構造にあるのだとしたら、やはり呪詞として捉えられた神歌内部のジャンルに対する神役の意識や表現方法の差異を無視したとき、無視されてしまう点が検討上の制約とならないかという懸念は残る。

ともあれ繰り返し述べるように、本論ではあくまでも狩俣ないし狩俣圏に範囲を限定し、その祭祀のシステムの中での神歌のあり方を構造的に把握するという視点を維持することにしたい。

そうした観点からは、真下と同じく奄美・沖縄の全体を領域に収めながらも、神歌の表現方法から分類についての問題提起を行った、藤井貞和の「おもいまつがねは歌う歌か」(藤井貞和『おもいまつがねは歌う歌か』所収、p.26以降)の指摘は、それが狩俣のニーリを取り上げているという事情も相俟って、ここでの検討にとって、一つの根拠としての重要性を持つ。それはまさに、奥濱が現地の聞き取りによって取り出した、神役の側の、いわば主観的な詠む/謡うの対立に対して、客観的に外部からのアプローチを試みたものと捉えることができる。実際、ここで行われているのは、タイトルで参照されている「おもいまつがね」を初めとする奄美のユタの記録、狩俣のニーリの記録、『おもろさうし』の記録の3つの「声」の記録に対して、「歌う/歌わない」という区分との関わりを論じているのである。そして藤井は、それまで自分が<歌>の原型として想定してきた「おもいまつがね」のような歌は、「歌う歌」ではなく、寧ろ「歌わない歌」であり、「演劇的には「唱え」ると言い、「うたう」とも言うように「呪詞」はまさにそのどちらでもあるような状態にあろう。」(p.29)として、山下欣一による「呪詞」という規定を受け入れるべきではないかと述べる。そしてこの文章では結局論じられず、次章に持ち越される「おもろ」についてはこちらは明確に歌謡であるとしている。そうした中で狩俣のニーリについては、以下のように述べる。

「演唱の仕方はまあ単調と言っていい節回しの繰り返しにつぐ繰り返しである。まさに『唱える』といった感じであるが、これを「歌う」ジャンルの演唱であるとは容易に認めにくい。だが「おもいまつがね」とはまたずいぶん印象が違う。かれはシャーマンの神懸りのもの、これは村落の祭祀における合唱によるもので、特に後者はあたかもカムイユーカルの「サケヘ」のように折り返し句を有していてすこぶる興味をかきたてられる。
 おそらくジャンルをあえて問うことがおかしいのであろう。これは<うた>であるよりまえに<にーり>なのだ、と素直に承認することが正しい。<ふさ><びゃーし><あーぐ>などこまやかに区別を持つ宮古島の伝承の実態をこそ大切にすべきなのであって、あれも<うた>これも<うた>と一緒くたにしてしまっては、微妙なそれらのあいだの違いを無視したことになる。自戒しなければならないことであった。」

(p.38-9)

まさに本論とその視点を共有している、というよりも正確には、本論はこの藤井の認識を出発点にしているというのが正しく実態を表しているのだが、更にここの問いは、その差異から構造を読み取ることができないかということに存する。なお藤井の『唱える』「歌う」の区別は、勿論直接に「歌わない」/「歌う」という、この論のモチーフとなる対立を背景にしているのであるが、ここで注目すべきは、一旦、ニーリを「歌わない」側に分類しているように見え、それを『唱える』ということばでピン止めしながら、そこで立ち止まることなく、「歌わない」/「歌う」という区別自体の問い直しに向かう点である。一見すると論理的には「歌わない」に分類されておしまいであって、そこから「歌わない」/「歌う」の対立自体を疑問に付すような要素は見当たらないように見えるかも知れないが、後に奥濱が、神役たち自身の認識としては、ニーリを「謡う」(うたう)もの、フサを「詠む」(よむ)ものという対立を自覚していることを知ってしまうと、ここでの藤井の直観の鋭さが冴え渡る感じを禁じ得ない。

更に藤井がこのニーリについて、上の引用箇所に先行して、「このニーリは「ふさ」などのように神話の伝承を主題とするというよりは、神話から歴史へと意図して構成された感じの<作品性>が見て取れるようだ。」(p.35)と指摘している点も重要で、これが祭祀の中では周辺的な位置づけであることや、通時的には後補され、当時の狩俣支配層の歴史意識が反映されていると見做すべきという本論は、この藤井の認識を根拠にしたものと言って良い。

内田の『宮古島狩俣の神歌』は、神歌の形式に着目した分析に主眼があり、神歌のジャンルの区分についても一節を割いており(同書, 第7章神歌のかたち 6.ジャンルの区分)更に、上で参照した藤井の検討についても参照しており、それについて「(…)藤井が、「歌う歌」と「唱える歌」を区分しようとしていることがわかる。」(同書, p.193)といった了解を示した上でそれをsyllabic/melismaという、演唱の様式上の区別の試みと見做した上で、藤井が「彼はこの考えを取りさげているのだが」と断りつつ、それをそれがうまくいかないことを示している。

「(…)ひとつのジャンルの中に、シラビックなものもメリスマ様式のものもある場合もあって、狩俣の神歌では、声をどれだけ引き延ばすかが、ジャンル区分の決めてとはなっていると考えられる。」

(同書, p.133-4)

内田の上記の指摘の正しさを認めた上で、しかし、藤井は必ずしも内田の了解の水準での区分を問題にしていたとは言い難く、藤井がこの考えを取り下げたのは、その水準では捉えきれないものを直観していたことがほぼ確実であることもまた既に述べた通りであって、問題は藤井が直観したものを一部であっても探り当てることに存する筈である。既に述べたように、藤井は古橋の所説の「国家成立以前的段階から以後へという展開が、意識の次元でとらえられているという決定的な弱点」を指摘しているのであれば、内田が聞き取りによって確認した、神役の主体的な区別についても、権利上、それを他に優越する決定的な論拠とすることには慎重であるべきで、寧ろ、分析の素材の一つとして捉えるべきだと考えられる。

そうしたことを念頭に置きつつ、以下では改めて、狩俣の神歌の構造上の位置づけの整理を試みたい。

6.狩俣の神歌の構造上の位置づけ

神歌の名称を、(A)それが用いられる場の区別などの機能的な区別(客観的区別)、(B)歌に伴う所作のような祭儀上の歌自体に内在する要素以外の外的・付加的要素による形式上の区別(客観的)、(C) 歌自体に内在的な形式構造上の区別(客観的)、(D)神役自身の詠む/謡うの区別(当事者の主観的区別)という観点で整理してみる。

まず、居駒『歌の原初へ』第1章 神歌と神話 1.狩俣の祭祀と神歌群の関係のp.19 の表から逆に、神歌の種類と行事の対応を整理してみると以下のようになる。(A)それが用いられる場の区別などの機能的な区別に相当する。

  • フサ(女性神役):ウヤガン(祖神祭:ジーグバナ・イダスカン・マトガヤー・アーブガー・トゥディアギ)

  • タービ(女性神役):年ヌバン・片口祭り・東山・麦穂祭り・夏穂祭り・我解き祭り・ウトゥガウプナー

  • ビャーシ(記載なし。他の文献によれば、男性神役・女性神役とも):年ヌバン・麦穂祭り・大世鎮め・御風鎮め・夏穂祭り・我解き祭り・ウプユーグミ・ウカジダミ

  • ニーラーグ(ニーリ)(男性神役):正月願い・ムトゥ御願・夏穂祭り・里祭り

居駒はビャーシについての説明をしていないが、フサ、ビャーシおよびタービの区分については内田の以下の記述が明解である。

「では狩俣の女性神役たちは、どのようにして神歌のジャンルを区別しているのであろうか。
例えばアブンマは、「ウヤーンでよむのは、みんなフサだよ」と説明する。フサというジャンルの神歌は、音楽的にゆたかなかたちを持っており、その性質は一様ではない。一方で、詞章や旋律が、他のジャンルの神歌と共通するものもある。したがって、フサをほかの神歌から区別する際、アブンマは、歌詞や旋律などの歌そのものの特徴からなるよりも、「ウヤーンでよむ」ということをフサというジャンルを規定するものと考えているようである。
またタービの場合、アブンマは、「私がこうやってよんだらタービだよ」と説明してくださるが、そのときには、神衣を額のあたりにかざす所作をして見せる。その所作によってタービというジャンルを他から区別していることがわかる。
ビャーシの場合も同様で、アブンマが「私がこれをやる」と語りながら手拍子をして見せれば、それはビャーシをよむということだ。祭儀の種類や所作の特徴が、神歌のジャンルを規定しているのである。」

(内田、前掲書、第7章神歌のかたち 6 ジャンルの区分, p.194)

ここで注意したいのは、内田は「祭儀の種類や所作の特徴」というように区別していないが、本論が上に掲げた分類方法によるならば、神歌のジャンルの区分というのはタービとビャーシについては(B) 歌に伴う所作のような祭儀上の歌以外の要素による形式上の区別から来るものであって、(A)それが用いられる場の区別などの機能的な区別には関わらない可能性が高い。一方でフサとニーリは(A) それが用いられる場の区別などの機能的な区別として考えられていることがわかる。そしてそれが(D)神役自身の詠む/謡うの区別の根拠となっていることがわかる。少なくともこの界面においては(C) 歌自体に内在的な形式構造上の区別というのは、仮に客観的には実在したとしても(もっとも内田のsyllabic/melismaの対立の検討の結果はそれに対して否定的だったが)、少なくとも主観的には意識されていないようであることが確認できる。ここまでで結果として言えるのは、神歌の区別の観点は複数の側面からなる重層的な構造となっており、単一面で何種類に分類されたり、単一視点での細分化による階層構造を持つというものではないということである。

更に上の引用からも窺うことのできる、奥濱が指摘する謡うニーリ/詠むフサの対立が内田においてはどのように把握されているかを確認してみると、以下のようになる。

「例えばアブンマは、「ウヤーンでよむのは、みんなフサだよ」と説明する。」(内田、前掲書, p.134)

「(…)アブンマは「私がこうやってよんだらタービだよ」と説明してくださるが(…)」(同上)

「(…)それはビャーシをよむということだ。」(同上)

「サスが先唱するフサの中には、「祓い声」「ナービ声」「ヤーキャー声」という三種の旋律を用いて、ウヤーン祭儀の次第を叙事する長大な曲がある。先唱するサスは、ジーと呼ばれる神の杖で地面を突きながらよみあげてゆくが、旋律が変わると杖の突き方も変わる。」(同, p,135)

内田が、神役の主観的な区分を、本人の語りとして明示的に引用しているだけではなく、一貫して「よむ」を用いて、その区別を踏襲していること、辛うじて「先唱」という言い方で、ここでの「よむ」が「唱える」こととして内田に把握されていることが窺える。結果として、奥濱の指摘する区別は、内田の研究によっても裏付けられ、また内田の所説においては分析の前提として受け入れられていることがわかる。ただし内田が対象としているのは、女性神役のよむフサ、ビャーシ、タービのみでありニーリが主題的に取り上げられることはない。とはいえ例えば、冒頭の狩俣の神歌の採集の歴史を述べるくだりでは

「稲村の仕事に触発された外間守善は、1964年から狩俣調査に入り、男性の歌うニーラアーグの研究を行った」

(同書, p,8)

と記しており、唱える・よむ/歌う の対立について自覚的であることが窺える。

狩俣の神歌の特徴は、男女が一緒に歌う(交唱含む)ことがなく、性差による双分制が厳密に守られていることであろう。それはジャンルによって、女性のみ、或いは男性のみによって歌唱されることがある点に表れている。だが、性差による双分制は更に、女性神役のみが詠むタービの中でも、祭儀において歌われる神歌が違い、参加できる神役が違うという点にまで徹底していることが、内田の以下の記述により確認できる。

「タービがよまれる代表的な祭儀は、旧暦三月のムギブゥーイ〔麦まつり〕と旧暦六月のナツブゥーイ〔夏まつり〕である。この、「夏」のタービのほかに、「冬のタービ」というのがあり、その時には、男の神様のタービはよまないのだという。(…)なにを入れ、なにを抜くのかということに、男と女という神の性別が関わっていることがわかる。
冬には男のタービを抜く。この原則は、神歌だけの問題ではない。冬の祭儀、すなわち、ウヤーンと呼ばれる祖先の神の祭儀には、男の神のサスは参加することが出来ない。」

(内田、前掲書、第7章神歌のかたち 5 男と女, p.191~2)

そしてそれが祭儀の季節に重ね合わされる。これまで述べてきたことを整理し、季節の双分制、性差の双分制、神歌の表現に基づく双分制を考慮してまとめると、以下のような構造になっているのである。

図3:狩俣の祭祀の構造

ウトゥガウプナーは、夏の祭祀の掉尾をなす儀礼であり、夏の終わり・冬の初めに行われることで季節の変化点を示しており、双分制の対立における中間点として両義的な性格を持っている。ただし、三分観におけるミヤークのような集積的な中心としての性格はなく、孤立的な境界としての性格を持っていると見做すことができると思われる。

祖先祭祀はそれ自体、冬季の数か月にわたり5回に分けて行われるもので、固有の内部構造を持っているが、それは暦の持つ季節循環の時間性とは異質の時間性に基づくものであり、外部から見た場合には無時間と捉えるのが適当であろう。

狩俣の祭祀における性差の区分は極めて非対称性の強いもので、単純に冬の祖先祭祀がブナリ、夏の農耕儀礼がビキリといった二項的な把握は、構造を正しく捉えたものとは言えず、あくまでも祭祀においては女性が優位であり、だがその祭祀のロジスティクスを支え、村落の活動千躰の中で適切に機能するように調整する、祭祀からみればあくまでも裏方的な役目を通じて、村落の活動の全体を統制するのは村落の指導者層である男性であるという構造上のパランスによって村落の統制が行われていたと捉えるべきではなかろうか。

かくして、男性が農耕儀礼においてうたうニーリの祭祀および神歌における構造的な周縁性は明らかなものとなる。

7.システムの「外」を包含する儀礼:傍観者

この場合、儀礼の広義での参加者全員が<二分心>の様態に逆行するわけではないだろう。儀礼の「傍観者」は通常の意識の様態であろうし、神女にしても祭祀に参加する全員が全て<二分心>的様態になっているというわけではあるまい。是非は別として「形だけ」の参加というのは、意識の発生以降、可能性としては常に起こり得るし(極端なケースとして口承での継承が途絶えた祭祀で、過去に録音されたテープを流して替わりとするとか、法事等において読経をテープの再生で済ませてしまうようなことも現実に起きているわけだし)、寧ろ、こちらの方が普通なのかも知れず、その割合が増えるに従って、祭祀の継続が困難になる、という構造があるように見受けられる。更にはこうした補助的なメディアの利用自体が「形だけ」の参加を可能にするという、まさにそのこと自体によって祭祀を停止へと導くに寄与しているのではないかという問いを立てることすら可能のように思われる。そしてもしそうした事態が傍観者的な立場において起きることはさして問題ではないが、<二分心>的心性への逆行が要請される神女においては起きないのであれば、それはそれで儀礼の継続についてある種の機能不全を引き起こすということにはならないだろうか?(実はこれは全く異なる文脈における「音楽」の上演についても言いうることかも知れない。つまり例えばこれは、世俗化した「コンサート」についても言いうることのように思われる。)一般には神役に対して<二分心>的心性が要求されることはない。もちろん稀に起きることはあるし、それは価値としては特権的なものとして顕揚されるという構造にはなっているであるが。否、逆にそれは「隠れたる神」を求めることに構造的に並行して、実は常に希求されており、逆に「傍観者」「悪魔」は求められていないのか?(もう一度、他の音楽のジャンルに目配せするならば、上演に参与するのではなく、批評をして、ランク付けをするような聴取はどこに位置づけられるのだろうか?しかし、この最後のケースは更にまた別であり、「傍観者」でも「悪魔」でもないのではなかろうか?)

翻って三輪の「逆シミュレーション音楽」においてはこのあたりについてはどのようになっているだろうか?そこではしばしば「悪魔」や「傍観者」の役割が明示的に指定されるのだが、もしかしたら「悪魔」「傍観者」の存在の要請というのは、<二分心>的心性と意識的な心性の共存の要請というように理解すればいいのかも知れない。その時これは、狩俣的な儀礼の規範とは異なる意識の水準を、「隠れたる神」のエポックの儀礼として要請しているということになるのだろうか?それは世俗化したコンサートの上記のような構造に対する批判として機能するのだろうか?

少なくとも確実に言いうるのは、「悪魔」「傍観者」を同じ舞台の上に乗せることが、「他者」を内側に取り込み、再帰的に埋め込むことであり、内部に外部を穿つことである。これはまさに意識の自己言及的な成り立ちと並行していると考えられる。そしてそのことによって「逆シミュレーション音楽」における「悪魔」は、軌道が逸脱して別の系列に入り込んだ結果、演奏が終わらなくなる(逆にあっという間に終わってしまうかも知れないが)ことを防ぐという、現実的・実用的な機能を担うことが可能になる。それは上演の内部に巣食う外部の視線である。

なお真下が、宮古島狩俣祖神祭りにおける芸能的要素として指摘している以下の点は、まさに「傍観者」、外部の視線の存在の指摘と見てよいだろう。

「もっとも、この神事は、「ウプヤマビキリャ」のなかで叙述されているように、かつては男性集団が祖神たちを遠くから拝むものであったのかもしれない。現代の祭祀においても、ウプグフムトゥの庭に現れて舞踊する祖神たちをバイヌヤーに籠もる男性集団が三十三拝をしながら拝む場面がみられる。そうであれば、そうした視線を受けていっそう洗練されることになろう。もちろん、男性集団にとって、また彼女たち自身においても、女性神役たちは神そのものとして受け止められているのであるから、芸能のように観衆の批評を呼び込むものではあり得ない。しかし、他人の視線が存在することが無意識のうちに彼女たちの所作を整えることにはたらいてゆくのだと考えられる。」

(真下『声の神話』,p.237)

そしてこの外部を狩俣の祭祀は、祭祀の外部としてではなく、まさに祭祀の一部として包摂していることに留意すべきではなかろうか。しかもその部分、男役の唄う「狩俣祖神のニーリ」は既に見たように、恐らく歴史的には最も新しい層であり、まさにビキリ・ブナリ構造における女性優位の宗教が村落の統制原理であった時代から、宮古島統一の中で、その一部として狩俣が包摂され、男性優位の軍事的・政治的支配の時代へとの移行のタイミングで、支配層の視線からの起源の物語の整備といった文脈で整備されたものと考えられるからである。「狩俣祖神のニーリ」の発見は、狩俣に「亡滅」の前段階を垣間見ることを可能にし、ひいては文学の起源と垣間見ることを可能にした、画期的なものであったが、実際にはそれ自体、既に外からの視線を狩俣の祭祀が取り込んだものであったのだ。これは仮定になるが、大神や島尻は、狩俣の「祖神のニーリ」に相当するレイヤを持っていなかった/持っていないのではなかろうか?この要素は、狩俣が、大神・島尻との関係において、息子という立場であることと恐らく間違いなく関係している。そして狩俣のみが、その祭祀と神歌を外部に公開し、記録することを許容したことも恐らくは偶然ではない。

この点は、真下が狩俣の男性について述べる以下のような指摘と軌を一にするものである。

「狩俣の男役は、女性に比して、こうした神事のなかで神を祀る重要な役割を担うことが少なく、したがって神話からも遠いということになる。ただ、夏季の豊年祭ナツプーズでは聖所ウプグフムトゥの庭で祖神たちの系譜に沿ったニーリという呪詞を朗誦する。こうしたニーリを朗誦する役割の年齢層を退き、その責務を果たした長老たちは村落行政の責任者ともなって、その指導者的地位についてゆく。そうした人間は村落社会の知識人ともみることができよう。しかしこのような人物であっても、神話についての知識は確かなものではないのである。」

(真下『声の神話』, p.8-9)

ここで注目すべきは、直接狩俣の社会の構造に関わる側面では、男役が村落行政の責任者、指導者的地位についてゆく点が第一義的であり、真下の強調する彼等の知識人として側面ではないし、後者については、それが更に外部の研究者とのインタフェースとなり、女性の神役たちの「声の神話」を文字記録するための通路となっている点にこそ注目すべきだと思われるが、それでも男役の祭祀のおける役割の従属性、周縁性の指摘としては重要なものと言える。

その意味で「狩俣祖神のニーリ」は、確かに「亡滅」の前段階の通路であったが、厳密には、それ自体は前段階そのものなのではなく、文字通り媒介・通路であった。実際、男役が祭祀の傍観者として存在するという構造は、そうした傍観者が神女たちに対して神歌を(学問研究の目的で)公開することを説得して、禁忌の侵犯を引き起こしたという点で、まさに内部に穿たれた外部であったとも言える。その意味で、狩俣は純然たる古代性を有していたのではなく、寧ろ、古代以降の要素を取り込んだ、より後の複合的な形態であることにより、その裡に含みもつ古代的な部分に外部からアクセスすることが可能になったのであり、そのことは、少なくとも研究にとっては大きな幸運であったと言って良いだろう。

だがしかし、ここでの論点からすれば、それは単なる幸運と捉えるに留まるのは、不十分に感じられる。実は、傍観者が後から追加されたことは、<二分心>から意識への移行と対応しており、祭祀の構造と意識の構造の間には同型性が存在すると見るべきなのではないか?そして、意識を備えた構造であったからこそ、事後的に、意識の時代から<二分心>の時代を垣間見ようとした時に、その入り口になりうるのではないか。

そしてこの狩俣における「傍観者」の機能を「逆シミュレーション音楽」の側に送り返すことも考えられるだろう。傍観者を含む祭祀のシステムは、心のシステムにおいては、まさに自伝的自己を備え、<物語化>をすることができる意識のそれと同型なのだ。いわば「逆シミュレーション音楽」に対して、傍観者を加えた一連の作品は。「逆シミュレーション音楽」と異なる推論のレベルに属し、それは「自覚的システム」であると言えるのではなかろうか。

8. 神役の機能分化がもたらす超越的視点の欠如

以下では、狩俣の祭祀における神役の機能分化がもたらす超越的視点の欠如についてトピック的に書き留めて置きたい。まずは継承機能の儀礼システムへの内在化について、真下の証言を出発点に取ることにしよう。

「イダスウプナーにおいて新しく祖神に就任した女性神役は、先にも述べたように、祖神を引退した先輩の老女から行列の際の足の踏み方について指導を受けていた。」

(真下『声の神話』, p.236)

ここで継承ということを考慮する必要があるように思われる。一方で、狩俣の祭祀の場合にも、世代間の継承というのは伝統の存続のために極めて重要な課題であって、少しでも継承を容易にする工夫が凝らされているとしても不思議はない。神女には役割分担があり、ある個人についてみた場合、役割を交替しつつ、徐々に経験を重ねていくライフステージのようなものが存在する。一般にこうした次元は「音楽」外のものとなっており、「逆シミュレーション音楽」でも、自伝的自己を備えた奏者の自伝的自己における「音楽」の埋め込まれ方自体を構造化しているわけではないけれど、少なくとも「音楽外」ではなく、それを由来の形で包摂する可能性を「命名」の次元で残している。

「狩俣においては、神歌は、ある役の先輩から、その役の後輩へと継承されるのが基本だが、それがどうしてもできない場合は、他の神役の協力を得たり、もっと前の代の先輩からならうこともある。狩俣では生前に神役の交代がなされるので、同じ役の経験者が複数存命する場合もあり、こうしたことも可能なのである。
 ひとりからひとりへという神歌の継承方法は、その神役にしかわからない独自の部分を生む。先輩の死亡・病気などの非常事態には、この継承方法では神歌の消失をまねきやすくなる。しかし神歌には、各サスが共有する部分があり、その部分については、別の神役が教えることも可能である。また、生前に神役を譲るというありかたが、先輩のさらに先輩からならうことを可能にしている。非常事態にあっても、複数の神役経験者によって、ひとりのサスの神歌を再構成することができるのである。狩俣の神役継承のありかたは、前任者の急死や急病という非常事態が生じても、神歌が、変容・消失する危険をより少なくしているといえる。」

(内田『宮古島狩俣の神歌』, p.64)

結果として狩俣の歴史に関する超越的な視点が不在となり、その結果と歴史意識は展望主義的で、全体は様々な視点からの展望の複合によってホログラム的に浮かび上がるものでしかない。

「(…)タービによまれる「歴史」にどのように接触できるのかは、男であるか女であるか、神役であるかそうでないか、元のどこにすわるのか、どれほどの関心をもってタービを聞いているのか等々に応じて異なってくるのである。
 神歌の世界が、村の人々すべてに対し、平等に開かれてはいないということについては、次のような証言もある。
サスの経験者のJさんは、「狩俣の歴史は、おばあたちになってからだけわかるようになっている」(…)神歌のよみ手としての責任を負った人のみに開かれる「民話」「歴史」というものが、狩俣にはある。」(…)

(内田『宮古島狩俣の神歌』p.59)

「歴史」は或る意味では集合意識ではない。それは「平等に開かれてはいない」。世代間で継承されるという点はあるものの、役割に応じた視点の違いがあり、それぞれの歴史的了解は一致しないし、必ずしも整合性さえ保障されない可能性がある。神役ですら、全ての知っている(それが権利上であれ)特権的な誰かが存在するわけではない。するとここから導かれるのは、ある種の展望主義ということになるのだろうか?

これを更に拡張して、「ありえたかも知れない音楽」の伝承について、情報の部分性を意識した設定をすることが考えられる。それは「規則の生成」の相において全てを知っている/一部しか知らない/規則自体は知らず、実現された特定の系列しか知らない、という区別を、同様に解釈においても、更には由来においても、同様の区別を、上演に関わる複数の奏者に対して設定することを意味する。(これについては「村松ギヤ・エンジンによるボレロ」のようにパート譜と相対的な音高の変更規則のみが与えられるケースを、類似例として挙げることができるかも知れない。)場合によっては、離ればなれの各奏者は、自分が演奏しているパートしか知らず、全体がどのような音響の実現になっているのかを知らないような条件の設定も考えられる。(これについてはオートポイエティックな複数の部分システムの社会により、高次の次元の秩序が創発することのアナロジーに類比して考えることもできるだろう。)そして、継承においても同様の部分性を考えることができるだろう。但し、その条件としては、或る水準で口承性を意図的に組み込む必要があるかも知れない。

超越的な視点の不在は、祭祀の遂行そのものについても言える。神役には序列はあるが、だからといって、序列の頂点にいるアブンマが祭祀の全体を見渡し、統括しているわけではない。傍観者たる男役の動きも含め、祭祀は重層的に幾つものステップが同時並行的に進行し、複数の時間の流れが存在し、その間で緩やかに同期が図られる。全体を統括し、単一の時間の流れに統合するような中心は存在せず、儀礼の進行の正しさについても、当事者間の相互チェックによるしかない。

「神歌は、ジャンルによって、よまれる場や時、よみ手が厳密に規定されている。その場に参加する資格を有していなければ、神歌がよまれている場に立ち会うことはできない。狩俣において、神歌は誰でも聞くことができるものとしては存在していない。どのような神歌のよみ手であるのかということとともに、どのような神歌の聞き手であるのかというところから、狩俣の人たちは、さまざまな規定をうけているのである。」

(内田『宮古島狩俣の神歌』 p.35)

これは演奏者のコミュニケーションのあり方として極めて興味深い。しかしこれも、能楽におけるシテ・ワキ・囃子方・アイ方の役割分担と、その伝承の独立性に、非常に近いものがある。能楽の場合には流儀により章句や奏法に違いがあり、また、これも同様に流儀によって異なる小書きによるヴァリエーションがそれに加わるが、その組み合わせがもたらす多様性にも関わらず、いわゆるリハーサルは「申し合わせ」と呼ばれるゲネプロに相当する一回のみであり、稽古は個別に独立に行われる。アブンマに相当するのがシテであり、外部に独立した演出家やプロデューサーが居るわけではない点も能楽と一致する。三輪眞弘の音楽でこれに近い形態が実現できる可能性のある作品の一つとしては、「59049カウンター」のような複合的な作品を挙げることができるだろう。もっとも相違点もまたあることを見過ごしてはならない。所謂楽譜は手順書に過ぎず、部分の組み合わせで成立する音響像が提示されることがない点は共通だが、各パート毎に他のパートに対して未公開ということはないし、実演にあたっては、理念的には超越神かラプラスのデモンのような立場にいる「悪魔」が全体の成り行きを監視しエラー時には介入する点で、奏者の相互チェックしか手段のない狩俣の儀礼とは大きく異なる。

9.神話の上演の場としてのリアルな「場所」:移動性を持った場所の記憶としての巡礼

狩俣の祭祀に限らず、多くの祭祀はその儀礼の手順の中で場所の移動を伴う。狭義での礼拝や奉納の儀式は拝所で行われるものであっても、まず最初に定められた順路に沿って、拝所への参拝の道行があり、礼拝や奉納が済めば、今度は拝所からの退出の道行が定められている。この構造で直ちに連想されるのは、またしても能楽を引き合いにだすことになるが、能舞台の橋掛かりであろう。

この点において狩俣の祭祀が興味深いのは、拝所が一箇所に定まっておらず、村落の各所に分散した拝所を、いわば巡幸するようにして祭祀が営まれる点であり、敢て能舞台に対応を求めるならば、橋掛かりが単なる通路ではなく、舞台の一部として使用されることに通じる側面を見出すことができるだろうか。比嘉康雄が、その『神々の古層』シリーズ中のウヤガン祭を取り上げた巻のタイトルを「巡幸する祖霊神」としているのはそうした特徴を的確に踏まえたものと思われる。

そうした文脈で儀礼と神歌の関係を眺めると、儀礼自体が神話の上演であり神歌も神話の叙述であることと、移動を伴うという祭祀の特徴に関わりがあることに直ちに気付くことになる。

何か祈願する目的が決まっている祭祀の場合には、祈願の成就を促すパフォーマティブとしての言葉という位置づけになるだろうが、狩俣の神歌は寧ろ神話的な出来事の想起と反復として、過去の出来事の反復として「由来」語りを含む夢幻能のような芸能の原基的形態であるかのようだ。だが能舞台とは異なって「場所」は「舞台」として様式化されておらず、前後の道行も、拝所への「参入」「退出」として抽象化されてるわけではない。まさに野外の「現実の」空間を利用し、具体的な「場所の記憶」の想起がここでは問題になっているのである(一方で薪能のような能楽の上演形態は、一見したところそうした由緒への回帰に見えて、実際には流儀毎の「礼拝所」たる能舞台を離れて、例えば「六浦」をその作品自体の固有の場所である称名寺で奉納するような例外を除けば、何らの記憶も持たない屋外で、それらしき雰囲気を演出し、情緒を喚起することよって集客の道具としているに過ぎない点で、もともとの形態への遡行どころか、それに対する忘却の徹底となっていることに注意すべきだろう)。

即ち、まさに比嘉の言う通り、ここで巡幸する神女達は祖神そのものであり、起源の神話の様々な位相において祖神が訪れた場所を巡幸することによって、起源における道行を反復しているというように見ることができるだろう。いわば狩俣の祭祀の場合、村落とその周辺の環境全体が装置となって、土地全体が、起源の出来事の反復を経験するのだ。

だとしたら神歌において「場所」の認識自体がどうであるかということが問題にされるべきなのだろうか?つまり双分観的な場所認識なのか、三分観的な場所認識なのか、といったことが?もし祭祀が、<二分心>から意識への構造間の移行・併存の過程の中を潜り抜けてきたものであるとした時、儀礼の行為遂行的な水準および神歌の内容の両方において<二分心>=双分観的な場所認識が再現される等ということが起きるということであろうか?

このうちの後者、即ち神歌の内容の詳細な分析は本論のスコープを超えるため、後日の課題として残すとして、ここでは儀礼の行為遂行的な水準について若干の検討を試みる。

まず祭祀が5回に亘って行われるが、北の山に山入りして下山する(祖神の顕現)という点では共通していても、細部においては違いがある。第1回目は神を迎えることが主たる内容であるのに対して、第2回目は新しいウヤガンの家を訪れて、北の山に連れて行くこと(つまり神役の就任儀礼)、第3回目が村落の家のお祓い、第4回目は畑のお祓い、そして第5回目は神を送ることが目的となる。

場所の観点で興味深いのが、第2回目と第5回目に、ユーシと呼ばれる神の森の東の端、島尻へと通じる道の途中にある場所を訪れることである。この場所は草冠に使うキャーンを採る場所で、草冠を与える神の在所ということになっているのだが、この場所への順路が第2回目と第5回目とでは異なることが興味深い。つまり第2回は北の山の尾根道を通って訪れるのに対して、第5回では一旦村落に降り、東の門を通って訪れ、同じ道を引き返して山に戻るのである。

更に第4回アブガーの畑のお祓いでも座から出発した神女達は、東門を通って、途中何箇所かでの祈禱をしながら、村落の畑地の南端にあるアブガーという場所(名称から井戸があった場所と想定される)に至るのであるが、これは第4回目が豊作を願う祭祀であり、穀物と井戸に関わりがあることから、狩俣村落の第2段階の村落の原住民(仲間+大城元/新たに移住した職能集団(志(=尻)立元+仲嶺元)の双分制の後の項との関わりが深いことを示していると思われる。

そしてそこから、第2回、第5回のユーシへの経路の違いを考えれば、凡そ、北から神を迎え、ミヤークの家の祓い、ミヤークの外の畑の祓いと東南に降りて行き、最後は南へと神を送るという構造を祖神祭が持っていることと対応していると考えるのが自然であろう。最後は南へと神を送るという点については、第5回トゥディアギの下山(顕現)の記述の中で、比嘉が以下の指摘をしている点も注目されるだろう。

「(…)ウヤガンたちは一列の祭列になり、マイニヤームトゥの後方から同ムトゥの横を通り、ザ―へ向かう。この時に移動の神謡を、杖を地面に突き調子をとりながら、今までの神謡の調子とは違って、力強く明るい調子でうたいながら行列する。ウヤガンたちの表情も明るい。この神謡の中に「ウプドゥンミ(南の浜にある岩礁)に来年もまた来て待っていたら神々は来臨する」というようなことがうたわれていて、狩俣の始祖たちが南方から来たことを示唆しているとも考えられる。」

(比嘉『神々の古層③遊行する祖霊神 ウヤガン〔宮古島〕』, p.91~2)

このように、祖神祭における場所の移動もまた、村落の歴史的な変容プロセスを反映した祭祀の構造に対応したものであるが、こうした観点から「逆シミュレーション音楽」以降の三輪眞弘の作品の上演の場について検討してみるとどのようなことが言えるだろうか。

舞台上でのパフォーマンスは、例えば「蛇居拳神楽」といったアルゴリズミックな遷移規則に基づく手順が規定されているが、コンサートホールでの演奏を前提にしていることもあり、始まりと終わりの移動は伴わない。パフォーマーの入場・退場自体にも規則があり、かつ開演・終演時の拍手が禁じてられている(能や文楽も本来はそのはず)点で、通常のコンサートの区別が導入されており、儀礼の空間は確保されているものの、結果として一見、具体的な場所の記憶は捨象されているように見える。

だが「逆シミュレーション音楽」において「命名」が明示的に「音楽」の成立の条件とされている点に注目すべきであろう。いわば「命名」における「由来」が、コンサートホールでの上演であれば、プログラムノートに、或いは楽譜に記載された「…という夢をみた」で括られる「物語」が、具体的な出来事を逆に浮かび上がらせるという構造を持っているのである。つまりここでは、そもそも出来事に結び付けられた場所の記憶は、<物語化>によって仮構されるというメカニズムの存在を、逆シミュレーションによって浮かび上がらせているというように見ることができる。更に藤井貞和の詩「ひとのきえさり」に基づく作品群であれば、藤井貞和の詩が、まさに狩俣の神歌と同じ役割を果たし、舞台の上でのパフォーマンスを移動性を持った場所の記憶としての巡礼たらしめるのだ、ということが言える。

10.ジェインズの<二分心>の一般的パラダイムと祖神祭

ジェインズは『神々の沈黙』の第3部 <二分心>の名残において、既に喪われたとされる<二分心>の名残を探索する手始めとして、デルポイの神託に纏わる「神懸かり」についての懐疑論を論じた上で、意識を備えた存在において意識が薄れる現象に共通した構造が見られるとして、<二分心>の一般的パラダイムとして以下の4つを挙げている。

「一「集団内で強制力を持つ共通認識」集団内で信じられていること、つまり文化全体の合意に基づく期待や掟を指す。これに従って、一つの現象に特定の形が与えられ、その形の中で人々が実行すべき役割が決まる。
二「誘導」限られた範囲に注意を集中させて意識を狭めるために、はっきりと儀式化された手順。
三「トランス」一と二の両方への反応として現われ、意識の希薄化や喪失、アナログの<私>の希薄化や喪失を特徴とする状態。トランス状態になることによって、帰属集団が受容あるいは許容あるいは奨励する役割を果たす。
四「古き権威」トランスに入って交信したり結びついたりする相手。普通は神だが、人間の場合もある。後者となるためには、その人間が、トランス状態になる者に対して権威を持つことを本人もその所属する文化も認めている必要がある。また、「集団内で強制力を持つ共通認識」によって、その人間がトランス状態を支配しているとされていることも前提となる。」

(ジェインズ『神々の沈黙』, p.392~3)

注意しなくてはならないのは、<二分心>の一般的パラダイムと名づけられているにも関わらず、それは<二分心>そのもののパラダイムであるのではなく、ジェインズ曰く「古い精神構造の名残りをとどめている」(同書, p.392)とされる意識を備えた存在における意識の希薄化現象の構造であるとされている点である。ここでもジェインズが<二分心>そのものの構造を語っているのか、意識が確立した後の心の構造の中に垣間見ることのできる<二分心>の基層について語っているのかの区別が危うくなっているように感じられる。結局ジェインズ自身は、意識が確立した後でも<二分心>的な心の構造は、変容を蒙ることなく保存され、それが何某かのトリガーによって、まるで回想シーンでも見るかのように、<二分心>が昔のままに再現されるとでも考えていたかのようだ。だが、そうであることを保証するものはなく、寧ろ、一見してリアルな回想、当時の心的状態そのものまで再現されるかのようなものであったとしても、想起は、それが起こる現在の環境の影響から完全に自由であることはないし、そもそもそれが回想であって、現実ではないことが自覚されていることに注意しなくてはならない。だが、そのように考えていくと、ジェインズは結局のところ、意識が確立した後の心の構造の中に垣間見るという仕方でしか<二分心>を定義できていないのではないか、議論の構成上、一旦<二分心>を考古学的事実などから、「それ自体として」提示し、しかる後に、それの名残が見られる現象を探索するという体裁を取っているものの、現実には、後者が投影されたものから逆算して考古学的事実を援用しているに過ぎないのではないかという疑いを払うことは容易でないように感じられる。

本論でもここまで、<二分心>の構造的な位置づけを、心の進化の理論の中に探し求めつつ、幻聴をはじめとしてジェインズが挙げる<二分心>の特徴については、必ずしもそれが必然的に要請されるようなものではないことを指摘してきた。勿論、だからといって、<二分心>など現在から過去に投影された虚像に過ぎないと考えるのもまた、逆向きの誤謬に陥っていることになるであろう。恐らくはかつてあったであろう<二分心>が如何なるものであったかの検証は、構成主義的なロボティクスのような仕方でシミュレーションによって行うしかないものであろうが、裏を返せば、共時的に、反省的意識を備えた自伝的自己の基層に存在する、別のレイヤ、しばしば「無意識」という否定的な形で指示されるしかなく、病理であったり逸脱であったりという仕方でしか直接目に触れないが故に、それ固有の構造や論理を把握することが困難であるレイヤを捉えようとした時には、ジェインズの<二分心>は有効な手掛かりたり得るということになるだろう。そしてジェインズの<二分心>の一般的パラダイムは、その限りでは有効なのである。従ってそれは、過去どうであったかについての手掛りとしての扱いについては慎重にならざるを得ない一方で、今日まで「亡滅」を潜り抜けて存続してきた「古代性」の名残とされるものへの適用については、それを試みることに問題はないように思われるのである。

上記の検討を踏まえ、ジェインズの<二分心>の一般的パラダイムを、つい先頃まで存続し、古態を留めるとされる狩俣の祖神祭の記録に適用してみよう。祖神祭において恐らく憑依は起きており、そのことへの言及としては以下の岡本恵昭の島尻の祖神祭についての記述が挙げられるだろう(『平良市史 第7巻資料編5(民俗・歌謡)』第5節シャーマン, 3.神がかりの諸相 (1)祖神・アブンマ)。

「サスンマの公の祭祀儀礼において、特に夜籠りし数日間にわたる神との交渉、または現人神となる厳格なクムズ(籠り)の後の出現するシャーマン自体は、まさしく、夢の如き幻想の最中にあり、神が憑いたことは人々が皆了解した事象である。
こうした巫女の超人的神技は、祖神の断食やビンギウヤの走り廻る奇行からも名付けられており、神が憑き神が歌わしたフサ、スサの伝承も又、その時点でしか成し得ないことも納得できる。祖神の神送りは、島尻のオフズ、ビンキウヤの儀礼で、フツムト<元島の祭祀所>から三時間余りの立行と、フサ、スサの伝承で夜に入るまでの修業は苦行そのものであり、暗闇に逃散するビンギのウヤカン達は、まさしく、イニシエイションそのものかと想像されるのである。」

(上掲書, p.341~2)

これは島尻の祖神祭の第5回目オフズの最後ビンギウヤガンのことであり、比嘉康雄もその記録を残している。(比嘉康雄『神々の古層』③遊行する祖霊神 ウヤガン〔宮古島〕, ビンギウヤガンを見て)

「(…)先導の女性は私たちの姿を見ると、手をふり上げ大きな声で威嚇している。ウヤガンたちはトットトトットト ウルウルウル…と奇声を発し、草装をサラサラさせて通る。
私は見てはならない神を見てしまったようなうしろめたさと、その神の威容に胸が高鳴る思いであった。ウヤガンたちは一人のウヤガンを中心に円陣をつくり、手の草束をふり、杖を地面に突き、足を地面にめりこむほどふんばって身体をゆすりながら、延々と神謠をうたう。神謠のリズムは単調である。だんだんと時間が経つにつれ、草冠の間から見える表情はゆがみ、ウヤガンの中には背後で支える伴の女性がいないと倒れるのではないかと思うほど身体をそらし、草束と生木の杖を大きくゆすって、けいれんでもしているように身体をふるわせている。それは私がはじめて見る神女の神がかりの姿であった。(…)」

(上掲書, p.119)

一方、狩俣の祖神祭の対応部分については、トランス状態を思わせる記録は、例えば比嘉の記録する第2回目イダスウプナーの下山の場面(比嘉, p.82)に見られるくらいだが、勿論、だからといって狩俣の祭祀がトランスとは無縁ということはあるまい。寧ろ重要なのは、祖神祭が、まさに上にジェインズが示した一般的パラダイムの必要条件を備えていると考えられることで、ジェインズが幻覚を惹き起こす原因として挙げる、極めてストレスの高い状態(ジェインズ, 同書, p.119)が、儀礼のプロセスの中に仕組まれているからであり、まさにジェインズの言う「誘導」として、無意識の裡に掴み取られた或る種の智慧とみることができるだろう。逆にそのようなプロセスを欠く祭礼は、単に手順をなぞるだけの機械的な手順となり、共感作用とも無縁なものに化する危険を孕む。

一方で、直接は祭祀でも儀礼でもない、世俗化されたコンサートホールでの音楽の演奏においても、憑依そのものでなくても、集団的な行為の過程での引き込みによる同期現象は程度の差はあれ起きているし、自分が弾いているのではなく、弾かされているという感覚、いわゆる「入った状態」になるレベルであれば、しばしば生じると言って良い。勿論それは、或る手順に従えば必ず起きることが保障されているのではないけれど、寧ろそうした意識の詐術が中断したところに到来する出来事として、意識から意識の手前に遡行する確かな通路なのだ。従って、<二分心>を、幻聴や憑依状態といった、意識の通常の状態からの変性によってのみ了解し、ことさらに神秘化するような把握は、端的に、<二分心>のメカニズムへの理解を却って妨げる可能性さえあるし、それが無意識的に定着した習慣であれ、祖神祭のような祭祀が備えている、精緻といって良いメカニズムを見失わせる可能性があろう。ごくありふれた集団的な行動による、一体感の経験すら、社会統制の手段としての<二分心>に通じるものがあると考えるべきで、ジェインズ自身が<二分心>を論じるにあたって、やや重点を外してしまっているとさえ言いうるのではなかろうか。その意味で、上記のジェインズの<二分心>の一般的パラダイムは、それを能う限り自然主義的、かつ構造的に理解すべきであり、そうすることによって、現代における祭祀と音楽についてのラディカルな捉え直しとの接続もまた可能になると思われる。

そもそも狩俣の祖神祭の祭祀において狩俣の神女が「神」になるというのは、どういう事態を指しているのだろうか?存在しなくはない、祭祀の終わり近くに訪れる、トランス状態かそれに準ずる状態のことを指しているのだろうか?そうではないだろう。まず、そうした把握が祭祀の実質に照らした時、極めて皮相なものに過ぎないことは明らかであろう。神女は儀礼の手順に従って、村落内外の各所を巡行する。その巡行自体、まさに神の巡行そのものなのだ。今日の常識的な観点からは、彼女たちは神を「演じている」と言われもするだろう。そしてしばしば、彼女たちは、生きて祭祀を行う彼女たちと一緒に歌を歌う祖神の声を聞くという。そこでは生ける者と死せる者の区別はなく、どちらも神であるという認識が存在するように思われる。

憑依については、一方でジェインズ自身が<二分心>に関連付けて、その名残としてだけでなく<二分心>の状態として想像されるものとして取り上げており、他方で歌謡の起源や文学の起源を宗教的な儀礼に見る立場から、憑依状態での言語に関わる現象を、その起源に結びつける議論が行われてきたようだが、ここでは幻聴と同様に、憑依を否定こそしないものの、必ずしも重視する立場を採らない。それは意識から<二分心>を顧みた時に観察できる事象であって、<二分心>「そのもの」の特徴ではないかも知れない。意識を持つ存在も、祭祀の遂行を通して、(つまりジェインズのいう意味での意識なしという意味での)<二分心>的な状態に到達しえて、その中で神歌をよみ、儀礼を進めていくのであり、その過程における或る種の極限状況(幻聴が起きる要因として、ジェインズが高度なストレスを挙げていたことを想起されたい)における状態の一つとして、幻聴や憑依状態が挙げられるということに過ぎず、幻聴や憑依現象を<二分心>そのものを特徴づける徴候として特権視する根拠はないように思われる。言い替えれば、<二分心>的な状態というのは、それを「意識なし」の心のモードと捉える限りでは、何ら特別で神秘的な状態ではなく、意識を持つ存在でも意識の中断時に生起する、寧ろ普通に観察されるモードとして理解すべきであるということである。

狩俣の祭祀が上記の<二分心>の一般的パラダイムの必要条件を満たしていることは既に述べた通りであるが、現代における祭祀と音楽についてのラディカルな捉え直しの試みとしての三輪眞弘の「逆シミュレーション音楽」を取り上げて対応づけを試みると、以下の通り、<二分心>の一般的パラダイムと「逆シミュレーション音楽」の3つの相の対応は、両者が別々の文脈で構築されたことを思えば、偶然の一致とするのが信じられない程、正確に厳密に対応することがわかる。

図4:<二分心>の一般的パラダイムと「逆シミュレーション音楽」の対応

そしてそれは「逆シミュレーション音楽」が企図するところに思いを致し、更に以下のような三輪の「音楽」観を踏まえるならば、そのラディカルさは、直観的に把握されたものとしては驚嘆に値するように思われるのである。

「(…) 音楽とは、才能のある人が抱いた思想や激情や繊細な感覚の揺らめきを聴衆に伝えるためのものなのだろうか?その例をぼくは無数に知ってはいるが、そんな一方的で趣味的なものでは決してない、といつも思っている。そうではなく、人間ならば誰もが心の奥底に宿しているはずの合理的思考を超えた内なる宇宙を想起させるための儀式のようなもの、そこには自我もなく思想や感情もない、というより、そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法ではないか?もし、音楽がそのようなものではないのなら、J・S・バッハの音楽などに感動できるはずもないし、現代では音楽など単なるイケテナイ娯楽でしかない。(…)」

(三輪眞弘「369 《Harmonia II》」, 『三輪眞弘音楽藝術 全思考1998-2010』所収, p.158)

なお、この文脈においては「古い」というのは編年的な意味合いでの昔ではなく、意識に対して先行するように認識される無意識的な層にそれが形成されるという意味合いであり、心的機構としてはフロイトの「超自我」に関係し、自伝的意識を備えた自己の成立に先立つ「他者」についての、意識自身が経験する以前の絶対的過去の経験を示しているおり。そしてそれは、幼児の発達過程での自己の成立の場面における他者との関わり合いが、社会規範に従う存在としての社会的自己を成立させるという消息を告げるものでもあろう。更にまたそれは、道元の『正法眼蔵』における「古仏心」の「古さ」に通じるものがあるだろう。(言い換えれば道元の坐禅は「逆シミュレーション」の先駆的な試みであるということでもある。)

「このゆえに、花開の万木百草、これ古仏の道得なり。古仏の問処なり。世界起の九山八海、これ古仏の日面、月面なり。古仏の皮肉骨髄なり。さらに又古心の行仏あるべし。古心の証仏なるあるべし。古心の作仏なるあるべし。仏古の為心なるあるべし。古心といふは、心古なるがゆえなり。心仏はかならず古なるべきがゆえに、古心は椅子竹木なり。」

(道元『正法眼蔵』第九 古仏心, 岩波文庫版第1巻, p.203)

ジェインズは、<二分心>の一般的パラダイムの「四つの要素の間には一種のバランスが保たれている。総和が一定になるように、とでも言おうか。どれか一つが弱まったときには、ほかの要素が強くならないと<二分心>の現象が起きなくなる。意識が芽生えてからの1000年が良い例だろう。」(ジェインズ『神々の沈黙』, p.393)と述べているが、ここでは、寧ろジェインズの言葉とは裏腹に、条件さえ整えば、そしてその強度や持続を措けば、今日でも<二分心>の一般的パラダイムの充足は可能であるという点を強調したいように思うのである。

更に、後続の「「集団内で強制力を持つ共通認識」がしだいに弱まってきて、(つまり一般の民が「古き権威」を疑う傾向を強めて)いくにつれ、「誘導」がいっそう重視されてその手順も複雑になり、「トランス」そのものも深くなっている」(同書, p.394)というジェインズの指摘は、既述のジェインズ自身の<二分心>を論じる際のバランスの歪みの理由を自ずから説明するものとなっているようにも思える。また同時にそれは、狩俣の祭祀が辿るプロセスそのものの記述たり得ていないだろうか。

狩俣の祭祀の中断した現状については、洲鎌成子「神役の空白による祭祀の衰退と現状」が報告しているが、その中で洲鎌は狩俣の祭祀や神歌の研究者が主催した祭祀の復活を促すシンポジウムへの村落の構成員の反応として、「シンポジウムの言葉が全部おしつけられているように感じる。続けてほしいならなんでとだえたのかを研究してほしい。」という50代女性の言葉を伝えている(洲鎌成子「神役の空白による祭祀の衰退と現状」, 文化環境研究6号所収, p.59)。<二分心>の一般的パラダイムの援用は、それに対する直接の回答にはならないものの、有効な示唆を与えるものに思えると同時に、「逆シミュレーション音楽」を初めとする三輪眞弘の「ありえたかも知れない祭祀」の仮構の試みが、逆説的にもその問いに対する答となりうる可能性をも告げていると考えられはしまいか。 

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