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(自)意識の音楽・自我の音楽:マーラーを聴くこととはどういうことか

音楽を聴くということは、一体どういうことなのだろう。 私がマーラーの音楽を聴くとき、何が起きていると考えれば、その音楽に惹きつけられる理由が わかったり、あるいは、自分がそこで感じているものを説明できるだろうか。

勿論音楽には色々な聴き方があり、誰の作品を誰が聴くかによりそれは違っていてよい。 ある聴き方というのは、あるタイプの作品にのみ適用可能だろう。また、同じ音楽に対して 様々な聴き方が可能だろう。 だから、ここではマーラーを私が聴く場合に限定して考えてみよう。

手がかりは、音楽の認知を含めた知覚を一般に、それだけを取り出して考えることをしないことにある。 本来知覚は目的もなしに行われるものではなく、目的指向的行動としての行為の基礎として捉えるほうが 自然なのだ。これは、アフォーダンスと呼ばれるものに近い。音楽は、行為の機会としての情報として 捉えるべきなのだ。人間は、環境に埋め込まれて生きている。常に具体的な状況に含まれ、それと相互作用をしている。 知覚は環境としての世界を構成する具体的な文脈としての部分的状況の把握だが、 それは常に環境へのフィードバックとしての行為による文脈への関与と関連付けて捉えなくてはならない。 それは認識と行為を切り離して論じるべきでないということだけでなく、認識と行為を別のものとして、 かわるがわる直列に交代する系列として捉えるという考え方さえ、場合によっては不十分である可能性が あるということだ。寧ろ、知覚とフィードバックは同時並行的に行われていると考えた方が良い。

このように考えたとき、表象の認識を聴取のモデルとするのは適切ではないし、クオリアは受動的な 質ではない。音楽を聴くことも含めて、知覚というのを受動的な経験と見做すべきではない。 知覚というのは、身体的な振る舞いの可能性の感受であり、世界にコミットする信念として 技能のかたちで含まれているものなのだ。従ってクオリアは、行為へのいざないの ベクトル性に他ならない。

そこに主観性の構造が移されているというのは、主観のある世界への関与の仕方が、 命題のかたちを経ることなく、音の構成によって、写し取られているということになる。 それを享受すること、そのパターンを自分の内側に形成すること、つまり 世界への関与の仕方を受容することが、音楽を聴くことなのだ。

音楽を聴いて、何故そのように感じたのか、そう感じることが可能な仕組みの如何にしての レベルでは、音楽の形式やその認知の問題が出てくる。 その表現が如何にして可能なのかは、音楽固有の問題だし、それには技術的な側面が関係するだろう。 だが感じた内容は、それとは別だ。それは複雑で単に音楽の範囲にとどまらない広がりを持ったものだ。

その限りで、演奏の具体的な技術の問題は、とりあえずはここでは寧ろ 捨象する方がいい。勿論、何らかのかたちで関係してはいるが、とりあえずは別の問題なのだ。 音楽が、何かを伝える、表現する、と言われるのは、音楽家の技術的な問題の次元とは とりあえずは切り離して考えることができる。手段と目的の二分法を一時的に採用するということだ。

聴取する人間が、埋め込まれている環境としての具体的な文脈には、文化的なレヴェルもまた 含まれるのは明らかである。音楽の聴取を考える時に音の知覚や認知を独立して扱うのは、 あくまでの作業仮説としてのことでなくてはならない。文化的な文脈は実際には聴行為に 深く入り込んでいるために、かえってその依存の度合いを測ることが困難で、しばしば ある立場を絶対視することに繋がる。音の知覚や認知を文化から切り離しうるという 立場が仮説を超えて主張されれば、それは科学主義という名のドグマなのだ。

従って音楽によって表現される内容については文化的な問題があるだろうが、その一方で それは音楽の形式のそれとは分けて考えるべきだ。例えば、表現されたものとしての死の問題や 生の行路での世の成り行きとの関係は、表現の媒体とはとりあえずは別の問題だ。 死生観の洋の東西の違いはあるかも知れないし、その基盤となっている文化の総体の中には、それを表現 している音楽の形式や楽器が含まれているかも知れないが、それでも、表現された 生き方の姿勢は、表現媒体の違いを超え、文化を超えて共通している部分を 認めることもできるだろう。それを保証する地盤としては、例えば生物学的な共通性を 想定しても良いかもしれない。

認知モデルのメタファーは、行為へのいざないの類型を表したものとみなすことができるだろう。 抽象的な思想や、具体的な事物や出来事を音楽自体が表現しているというのは 正しくない。それは音だけでは無理で、文化的な文脈が必要だ。標題であったり、 プログラムノートであったり、演奏される機会であったり、あるいは、より端的には歌詞が、 音だけではせいぜい、認知モデルのメタファーレベル止まりの表現を、具体的に文脈づけする。 (歌詞と音楽のどちらが優位かはここでは問わない。そもそもそれは作者の意図の次元の 問題に過ぎないことも多い。どちらが優位であっても、音が表現する行為へのいざないを 具体的に意味づける役割を歌詞が果たすのは変わりがない。)

このように捉えられた聴取は、美とは関係ない。美学はここでは問題にならない。 美は、こうしたことに付随する別の次元の価値の問題だ。だから享受の側面においてすら、 芸術を美に還元してはならない。 また、聴くことを方法論の検証や楽曲分析のような知的な作業と同一視してはならない。 観賞や認識といったレベルに切り取ってしまってはいけない。 聴くこともまた、行為へのいざないなのだ。それは認識の仕方、より一般に世界へのコミットの仕方の 変化へのいざないなのだ。

ここでいう行為へのいざないは、作者の意図とは別の次元の話だ。むしろそれは、 知覚の志向性の基本的な性質に由来する、基本的な次元の話なのだ。 勿論、読み手の解釈の多様性も当然、別の次元の話で、それは多くの場合、 知覚のレベルで受け取ったものを、特定の具体的な文脈に結び付ける作業なのだ。 どのような技法で作られているか、どのような構成を持っているのかを分析する 作業とも別なことは明らかだ。そのような知的な聴き方は、知覚自体ではなく、 知覚の構造の反省的な認識(を伴った知覚)であって、ここでいう音に対する 反応というレベルでの知覚ではない。

例えば実験音楽は、少なくとも意図としては、音により何か別のものを表現しようとは していないし、従って、聴き手が音の知覚を、何か別のものに関連付けして意味づける ことを望んでいない。こうした立場は現実には、寧ろ特殊で例外的なものだ。 なぜなら、通常人間は、文化的なものを含めて様々な文脈の中に埋め込まれている ものだからだ。従って、知覚を自分が埋め込まれた文脈に沿って意味づけしようと する態度の方が自然なのだ。それは寧ろ特殊な操作を必要とする。一般には 或る種の認識がそこに忍び込むことは避け難い。裸の知覚をそのまま認識する ためにはある種の還元の操作が必要だ。

いわゆる絶対音楽というのは、音の構築の自律性を主張するから、一見この立場に近いと 言える。だが、それは知覚のごく基本的なレベルでの価値付け(或る種の感情や 気分など)を禁じているわけではない。単にそれをより具体的な生活世界の 特定の事象に結びつけることを禁じているに過ぎない。 知覚のもつごく基本的な志向自体は遮断されているわけではない。 しかも絶対音楽はそうした志向を美という次元で回収しようとする。 そのことは逆に「美」を感覚的な快さのレベルに回収することになる。

一方、実験音楽の立場は、美という価値の次元を拒絶する(少なくとも「美」を 感覚の次元に回収することは拒絶する)ことは勿論だが、 知覚の基本的な価値付けすら括弧いれして、知覚のあり方そのものの変更を 促そうとしているのだといえる。ただし、これは本来知覚や認知が持っている具体的な 目標指向的な性質からはかけ離れている。まさに抽象化して形式的な枠組みそれ 自体を問題にするのだ。随伴的に情緒的、気分的な反応を惹き起こすことは あるだろうが、通常の音楽とは異なって、それ自体が目的なのではない。 いわゆる「表現」はここでは断念されていたり、拒否されていたりするのである。 その意味では絶対音楽とは中途半端な抜け道をもった概念で、寧ろ実験音楽の方が、 絶対という言葉に相応しいのではなかろうか。

マーラーのような音楽は、そういう意味では歌詞がついたものや標題がついたもので なくても理念的な意味での絶対音楽ではない。まず、それが美という次元に価値を おいていないのは明らかであるように思える。一方で作曲者の意図のレベルにおいても、 それは単なる知覚に随伴してしまう感情や気分の表現にとどまらないだろうし、 マーラーの場合には、その意図を作品が裏切ることなく(それが恐らく優れた作品の 定義なのだろうが)聴き手には、そうした感情や気分の背後にある、より意識的な 世界へのコミットの姿勢が伝わるからである。要するに、ここでは単なる情緒や気分の 表現が意図されているのではないし、実際に聴取において起きているのも、その レベルにとどまらない。そうした情緒や気分を自覚する自己言及的な過程自体が 「表現」の対象になっているのだ。

私は、そうした自覚的システムの過程を表現することが意図されている種類の 音楽を、(自)意識の音楽、あるいは自我の音楽と呼びたい。それは行為へのいざないとして 情緒や気分が生じる過程をシミュレートすることができるだけの系の複雑さを前提としているが、 まさにそうした自己言及的な自覚のシステムのことを一般に自意識と呼ぶからである。 勿論、音楽が皮肉や自己韜晦を表現することができるのは、そうした能力を前提にしている。 引用、パロディが問題になるマーラーの音楽の特徴は、自我の音楽の特徴である。 そうした特徴は、しばしば文化依存であると言われるし、実際に個別の解釈は文化的な文脈の 方向付けの上でなされるのだが、そうしたレヴェルとは別次元の、音楽を聴取するシステムの 形式的な構造の水準で、それは保証されているのだといえる。無論、そうした自己言及的な システムが高度に発達し、音楽の聴取の類型として可能であることそのものが、ある文化に 固有の事象なのかも知れないが、必ずしも創作がなされた具体的な文化的な文脈なしでも、 言い換えれば、特定の解釈が与えられない曖昧な状態でも、二重言語性を感じ取ることは 可能なのである。

(ここまで述べたことは、ショスタコーヴィチについてもほぼ当て嵌まるだろう。実は この文章は最初ショスタコーヴィチに到達することを念頭において書き始められたのだが、書き終えてみると、 寧ろマーラーについて語っているということ気づき、結局マーラーについての文章として公開することになった。 ショスタコーヴィチとマーラーとの間には、様々な点で大きな違いが存在するけれども、 意識の音楽という点ではまさにマーラーの後継者であると言いうると思う。 少なくとも私はそのようにショスタコーヴィチを聴いている。)

従ってマーラーの音楽を聴くことは、単なる耳の快楽の追求ではないし、感覚的な美の探究でもない。 娯楽でも気晴らしでもない。一方で知的な遊びでもない。それは自我の世界に対する態度の 感受であり、それは聴き手の行為に影響を及ぼすような類の出来事なのである。

(2005.8作成, 2007.6.14補筆・修正して公開, 2021.1.31改題, 2024.6.28 noteにて公開)

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