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「第11回香川靖嗣の會」(喜多六平太記念能楽堂・平成28年9月3日)

「第11回香川靖嗣の會」
能「遊行柳」

シテ・香川靖嗣
ワキ・宝生欣哉
ワキツレ・大日向寛
ワキツレ・御厨誠吾
アイ・山本東次郎
後見・塩津哲生・中村邦生
笛・一噌幸弘
小鼓・鵜澤洋太郎
大鼓・國川純
太鼓・観世元伯
地謡・友枝昭世・粟谷能夫・粟谷明生・長島茂・狩野了一・友枝雄人・金子敬一郎・大島輝久


毎年春に開催される「香川靖嗣の會」が今年は秋にも催されるということで目黒の舞台を訪れる。 一月前には川崎で「六浦」を拝見しているから、今年三度目の観能。近年は多忙にかまけて年一度という ことも珍しくないので、このように拝見できる機会をたくさん頂けるのは只ゝ有難いことである。 能の演目は「遊行柳」、前に狂言「鐘の音」が演じられたが、こちらも川崎の「佐渡狐」に続けて 山本則俊さんの圧巻の舞台が拝見できたので、別に感想を纏めることとして、以下では「遊行柳」の 感想を記しておきたい。


恒例の最初のお話は金子直樹さん。非常に丁寧な解説で、「遊行柳」についてはそれが観世信光の 晩年の作であり、世阿弥の「西行桜」を意識した作品であることを軸にして、対比をさせながら 「遊行柳」の特徴を説きおこす内容のお話だった。私は以前に一度だけ「遊行柳」の舞台を拝見した ことがあるが、その時の印象は率直に言ってあまり良いものではなく、率直に言えば、それ以降、 寧ろ苦手な作品であるという意識があって、故に、香川さんが演じたらあの作品が どのような光を放つだろうと思いつつ舞台に足を運んだという事情もあって、お話の趣旨は勿論、 この作品の独自の魅力に目を向けさせるといった方向にあったに違いないのだが、図らずも事前に どこがしっくりこなかったのかをおさらいをするような感じになってしまった。

私のような能の万年初心者が作品の出来を云々するなどもっての外の事かも知れないが、 それでも自分が知る限り、能の作品の中には観る者の心に入り込んで、時として生き方を 変えてしまうかも知れないような作品もあれば、奉納としての性格をはっきりと持つ作品もある 一方で、小品ではあるけれど、演じ方によっては非常に味わい深く、観る者をひととき魅了する ような作品もある。勿論、観る者の側のキャパシティもあり、当日のコンディションもあり、 作品の価値を正しく受け止められないということもあるのだが、この「遊行柳」は、理由は何であれ、 私にとって受け止め方の難しい作品であることは間違いない。そして結論を先に書いてしまえば、 そういう感覚は、またしても圧倒的な舞台となり、以前の印象を全く書き換えてしまった今回の 演能に接した後でも、まだ完全になくなった訳ではないように感じられる。


演奏は今回もまた、たいそう充実したものであったと思う。曲頭の囃子も決して重たく もたれることなく、むしろ淡々と寂れた雰囲気を設定するし、その中で前シテが遊行上人に 声をかける瞬間の鮮烈さは、香川さんの舞台ならではのもの。その後西行の故事を中心とした語りが 続き、それが済むと作り物の陰に隠れるようにしてシテの演じる老人が消えてしまうまでは あっという間である。前シテの老人は「上品な」という形容が充てられるようだが、単に上品である だけではなく、丁度脇能の前シテの叟がそうであるような、老いとは一見したところ相反しかねない 生気をも感じさせ、後場の老い木の精の性格の未来完了的な予示となっているように思われた。

アイの里人は山本東次郎さん。格調高い、見事な語りに圧倒されているうちに時間が経ち、 作り物の中で行われている物着の時間つなぎであることなど微塵も感じさせない。

その後、太鼓も加わった囃子に導かれて後シテが作り物の中から現われる瞬間の、空気の感じや 光の調子が一変して、舞台上はおろか見所も含めた空間全体を包み込んでしまう有様は香川さんの 演能を拝見してきて一度ならず経験してきているのだが、今回もまた圧倒的なものであった。 そこに居るのが植物の精であるという、かつてはいざ知らず、現代の日常においては全く疎遠な認識の 様態が、ごく当たり前の、自然なことであるように可能になることの不思議さは、こればかりは 実際の舞台に接してみなければわからないだろう。例えば人間の幽霊を演じるのであれば、 寧ろ過日の面影が蘇ったかのように生々しくということも可能だろう。だが、人ならぬ神であったり 植物の精であったりということであれば、人間とは異なる他者となり、そうした者が持つであろう 存在感を纏わなくてはならないということになるのだけれど、香川さんはそうした閾を、 いともやすやすと乗り越えてしまえるのである。いや、「やすやすと」というのはあくまでも 見所で結果だけを受け取る者の気安さが可能にしている言い方であって、実際にそれを あたかも「やすやすと」乗り越えてしまうためには、どんな修練があり、どんな芸の秘密があるのか、 どのような心持ちにより可能となるのか、最早、観る者の想像を超えてしまっているという他ないのである。

ところがその後、序の舞に到るまでの、本来ならば聴かせどころであるべき部分が、やはりどうも うまく受け止め切れない。舞台で起きていることを眺めていればそんなことはないのに、 謡の内容がそこに重ねては更に上書いていくイメージの連なり方が、うまく焦点を結びつつ ある種のコヒーレンスを保って変転していくに到らず、次々と方向を変えつつ切り替わっていくので、 頭ではその繋がりを追えたとしても、どこかで実感が追い付かない感覚が残ってしまうのである。 これは謡の表現力が足りないということではなく、舞台上の所作がそうとわからないというような ことでは全くない、寧ろ逆に、友枝さんを地頭とする謡の表現が豊かであるが故に、またそうした謡の変化に 応じた香川さんの演じるシテの、例えば御簾が揺れたり、蹴鞠を暗示したりする所作が鮮明であるが故に、 一層その感じがましてしまうように思われてならない。前回「遊行柳」に接した時の印象は跡形もなく 掻き消されてしまって、只々舞台の上で起きることに見入る他ないのではあるけれど、作品自体が それが定着することを妨げている感覚をところどころで抱いてしまったということである。

例えば、「柳桜をこき交ぜて」という、和歌に基づく有名な一節、冒頭触れた金子さんのお話のお題でも ある一節も、それに続く故事との重畳というものが生じる暇がなく、次々と、一つ一つはそれなりに 趣があるだけではなく、固有の奥行を備えた場面が切り替わっていくのを受け身で眺めている感じになってしまう。 金子さんのお話によれば、それこそが信光の持ち味なのだ、ということになるのだろうが、 結局のところその持ち味が、少なくとも私にとってはかえって印象を薄める結果になっているように しか思えないのである。


そうした印象も、序の舞に到達してしまえばたちまち掻き消えてしまう。信光が誂えた文脈を超えて、 舞はまっすぐに、人間の寿命を超えてひっそりと生き続ける巨木のイメージに辿り着くかのようだ。 そう、ここでは朽木の姿をしていたとしても、それは春が巡るたびに蘇って青葉を茂らせる、人間の 尺度からすれば永遠にも比すべき生命力とどこかで繋がっているように思われる。舞台を離れれば、それは 倒れて埋没しても再び発芽してくる逞しい生命力を持つが故に、霊が宿ると考えられ、風に揺れる古木の枝から 幽霊のイメージに繋がり、反転して却って死を連想させさえするという柳のイメージに繋がっていくのかも 知れない。遠く離れた西洋における柳がユダが首を吊った木、別離や死との強い連想を持ち、墓地に植えられる ことの多い木でありながら、他方では悪魔を払い、占いを行う杖であり、オルフェウスを悪魔から救った 存在でもあるという両義性もまた、人間とは全く異質の生命を持つ存在に対する感受性の産物なのであろう。

いや、このように書くのはその場に出現した出来事を歪めているという非難を受けることになるかも知れない。 序の舞そのものは、老体の能に相応しく、運びもたどたどしく、流れる時間も時折、一休みするかのような 淀みを生じながら続いていったのであって、寧ろそこには、植物もまた、一つ一つの個体としてみれば 遺伝子の搬体として有限の生命と老いとを運命づけられていることをも認識させるようなものだったから。

だが、にも関わらず、やはりそこには老いだけではない永遠の生命を思わせるような何かがあったように 私には感じられたのである。そしてそれは、その前では植物も人間も隔たるところのない、「仏性」と言われる何か と関わりがあるもののように思われた。ある意味では「永遠に老い続ける」柳の精は、祈り、感謝しつつ舞うことで その老いの向こう側にある何かに、舞っている瞬間だけは実際に触れているという感じを持ったのである。

ここで些かの逸脱をお許し願えば、これは遊行ではなく禅宗の道元の「正法眼蔵」なのだが、例えば「このゆえに、 花開の万木百草、これ古仏の道得なり、古仏の問処なり。」から「心仏はかならず古なるべきがゆえに、古心は 椅子竹木なり。」(「古仏心」)という認識へのプロセスを思い浮かべずにはいられない。 ここで最後の「古なる」とは寧ろ本源とか真理とかに近いものであろうが、信光がそういう詞を書いた文字通りと いうことではなく、まさにここで道元が言葉を組み替えて意味をずらすことによって己が得たもの言い当てようとする 運動と通じるものを、演能に観ることができたように感じられるのだ。それは作者によっても演者によっても 意図されたものではないだろう。まさにシテが演じる老い木の精が体現するように、老いの受動性の先にある「脱落」 (これもまた、道元の文脈での意味を重ね合わせて頂いて構わない)を見据えた時、あの序の舞こそ「修証一等」を 具現したものと見ることはできないだろうか、という消し難い印象を持つのである。更に言えば、 「悉有仏性」もまた、一般的な「草木国土悉皆成仏」といったポテンシャルとしてのとらえ方よりも、 道元が「正法眼蔵」で用いた、エネルゲイアとしての捉え方の方が、演能を通じて感じ取ったものにより近いようにも 思えるのだ。


こうした感じ方、老いの中に永遠の生命に通じる何かを見るという認識の在り様が、信光が意図したところであるか どうかは私のような素人には詳らかしない。だが、事前に用意された詞の寧ろ余白の部分においてであれ、 今回の演能に接して私が受け取ったものにそうした側面が含まれたいたのは事実だし、その余白は能が様式的に 備えていて、単なる演劇と見なすことに最も強く抗い、奉納や祭祀といった呪術的なものへの通路となり、 そうした思考から遠ざかった人間に対してさえ、その心理の奥底の無意識的な部分に働きかけることを可能にする 側面なのである。

能を見ることについて知識も豊富なら技術的な細部にも通じておられ、なおかつ 瞬間瞬間に奥深い部分まで汲み尽くすことが出来る多くの優れた見所の方々がおっしゃる香川さんの演能の持つ 硬質の肌触りと人間離れした透明感、そして長年の厳しい修練の賜物である揺るぎない技術は、或る時には作者の意図や 作品の出来を超えた何かを提示することがある、そうした貴重な場に立ち会うことができたのではないかというような ことを、今回の演能を通じて強く感じた。最後にこのような貴重な経験をさせていただいたことに対し、香川さんを はじめとする演者の方々に対し敬意と感謝の意を表するとともに、年に2回の公演を企画され、運営に携わられた方々にも 同じく敬意と感謝の気持ちを述べて感想の結びとしたい。

(2016.9.18公開, 2024.6.27 noteにて公開)

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