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備忘:マーラーの音楽における「老い」についての論考に向けての準備作業(6)

 『大地の歌』を起点とした時、「現象から身を退く」に基づくアドルノの晩年様式の規定をマーラーの音楽のどのような構造の具体的な特性に関連づけて指摘できるかだろうか?例えば「仮晶」Pseudmorphism 概念はどうだろうか?それを、引用とかパロディのようなメタレベルの操作としてではなく定義できるだろうか?中国、五音音階が果たす機能ということであれば、これは文化的文脈に依存のものとなる。日本で聴く『大地の歌』は「仮晶」として機能するのだろうか?そうではなく、そうした文化依存のものではなく、もっと別のレベルに「現象から身を退く」を見いだせないのか? 文字通りの物理現象としての「仮晶」の対応物を、時間プロセスのシミュレーションとしての音楽作品の中に具体的に指摘できないのだろうか?

 だがこれはこの場で判断を下せる類の問いではなく、この点に関して別途、膨大な分析・検討を要するだろう。私見では「仮晶」とは、必ずしも「後期様式」に固有の現象ではなく、「根無し草」であったマーラーにおいては寧ろ、若き日から一貫したあり様であったと思われる。そもそもが紛い物めいた「子供の魔法の角笛」に対するマーラーのアプローチは、更にもう一段屈折したものとなる。それはマーラーにおいては「真正な」意味合いで「ありえたかも知れない民謡」と化してしまう。リュッケルトの詩に関しても同じような側面を指摘することは可能だろう。中国の詩ではなくベトゥゲの追創作(nachdicitung)としてみれば『中国の笛』は、まさにその延長線上に位置づけられるものであろう。それゆえ「仮晶」は「後期様式」の相関物ではなく、寧ろマーラーの生涯を通じての基本的な存在様態の相関物であったと見るのが適当に感じられるのである。

 おしなべてマーラーの音楽は、極東から見れば西洋音楽の或る種の極限に見えたとしても、どこか「借り物」めいたところがあって、寧ろそうであるが故に一層、極東の子供にとって「開かれた」存在であったということができはすまいか?とはいうものの、(妻の知己から貰った)一部は偶然によるものとはいえ、他ならぬ『中国の笛』が「仮晶」の核となったという事実は残るし、インド哲学に影響されたショーペンハウアー、東洋学者であったリュッケルト、晩年に至って東方(オリエント)への傾倒を深め、『西東詩集』をものしたゲーテ(第8交響曲の『ファウスト』の音楽にも五音音階が登場することがマーラーの側からの「応答」を証立てているとは言ええないだろうか?)の先で、ベトゥゲの「紛い物」の向こう側にある極東に至ったのであるとすれば、「仮晶」の核としてではなく、改めて「現象から身を退く」ことに関連づけて「東洋的なもの」を考えることはできるのではなかろうか。

 だがこの時、その東洋にいる、否、中国の更に東から逆向きに眺めている筈の日本人たる私にとって、それはどのように受け止められるべきものか。「老い」との直接的な関わりにおいては、何よりもまず直ちに思い浮かるのは、トルンスタムの「老年的超越」であろう。既に触れたようにトルンスタムはそこに非西洋的な認識の様態、存在の様態を見出そうとしている。更には、これもまた既に目くばせをしておいたが、近年、ユク・ホイが『中国における技術の問い』から『芸術と宇宙技芸』への歩みの中で試みているアプローチを「老い」や「現象から身を退く」というアスペクトに関して解釈・変換することが考えられるだろう。それらを通して眺めた時、マーラーという個別の場合がどのような相貌をもって出現うするのか、その具体的な様相を描き出すことが必要になるであろう。


 それでは同じアドルノの「性格的要素」、カテゴリの中にそれを求めるとしたらどうなのか?そうしてみると「崩壊」というカテゴリが「老い」と共鳴関係にあるものとして直ちに思い浮かぶ。あるいは更にアドルノのカテゴリでの「崩壊」ではなく、Reversの言う「溶解」は?だがここで問題にしたいのは、「別離」「告別」というテーマではない。寧ろ端的に「老い」なのだ。死の予感ではなく、現実の過程としての老い。「死の手前」での分解としての老い。それはだが、よく引き合いに出される「逆行」「退化」という捉え方とも異なる。細胞老化、個体老化のそれぞれにおいて起きていることはその基準になる。老化は成長の逆ではない。成長の暴走としてのガンは、老化を考える際に重要な役割を果たす。

 「意識の音楽」「時間の感受のシミュレータとしての音楽」という見方(これについては、記事「「意識の音楽」素描」および記事「MIDIファイルを入力としたマーラー作品の五度圏上での重心遷移計算について」の冒頭2節を参照のこと)に立ったとき、Peter Revers : Gustav Mahler Untersuchungen zu den spaten Sinfonien, Salzburg, 1986, S.185ff における音楽構造の融解化Liquidation はどのように捉えることができるのか?(但し、これは恐らくLiquidationに限らず、アドルノの「性格」におけるカテゴリ全般、つまりDurchburch, Suspension, ErfüllungやSponheuerが主題的に取り上げたVerfallにしても同じ問いが生じうるであろう。)Reversが、それがマーラーの後期作品において、特に第9交響曲においては、音楽形成にとって唯一有効なカテゴリーとなると述べ、それが第9交響曲では各楽章の末尾、大地の歌では楽章群の終わりの部分について言えるとする。そして形式構造の融解化の手法を、別れと回顧という表現内容と結びつけるのであるが、それでは表現内容が「別れ」「回顧」のいずれかでもなく、第3のカテゴリがあるのでもないとどうして言えるのか?時間性の観点からは、そもそも「別れ」と「回顧」とが同じ時間性を持つということは到底言えないだろうが、にも関わらずそれが音楽構造の融解化にいずれも帰着するということがどうして言えるのだろうか?『大地の歌』において「別れ」と「回顧」は寧ろ異なった層に位置づけられるとするのが自然に思われる(この点については、以前に調的な構造の観点から検討した結果を公開したことがある。「大地の歌」第1楽章の詩の改変をめぐって ―甲斐貴也訳「大地の歌」によせて(2)―を参照。)のに対し、そこに形式的に同一の構造が見出せるとしたとき、その形式構造は、実は「別れ」「回顧」だけではなく、他の内容とも対応付けうるような一般的なものではないとどうして断言できるのだろうか?『大地の歌』の第6楽章の末尾の時間性は、そのタイトルにも関わらず、「別れ」の帰結とは異なるし、「回顧」の時間性とも相容れない時間性を持っているように思われる。この観点で興味深いのは寧ろ、「大地の歌」の曲の配列が絶望(悲しみと怒り)、虚脱、受容、見直し(再起)という死や障害の 受容過程であることを主張する大谷1995(病跡誌No.49 pp.39-49)の指摘だろう(こちらについても、以前に触れたことがある。「大地の歌」における"Erde"を巡る検討のための覚書 ―甲斐貴也訳「大地の歌」によせて― を参照)。Reversの指摘は興味深い点を多々含んでいるけれど、『大地の歌』の歌詞に基づいて(というか引き摺られて)そこに「回顧」と「別れ」をしか見なかったり、かと思えば第9交響曲の方は、これを専ら「死」と結び付けてみせる類の紋切型から自由になり切れていないように私には思えてならない。

 だとしたら、例えばここに「老い」を措いてみることはできないのか?単純に言って「老齢とは一段一段現象から退去する謂である」とするならば、「老い」はその中に「別れ」を含み持っているではないか。だがもしそうだとして、「意識の音楽」にそのことがどのように反映されるのか?「意識の」というからには、生物学的・生理学的な「老い」そのものではなく、文化的・社会的に規定された「老年期」でもなく、アルフレッド・シュッツが指摘するように「老いの意識」でなくてはなるまい。だが作曲の主体が「老い」を自覚することが一体「音楽」にどのように関わるというのか?伝記的事実を踏まえればほぼ自明のことに思われる作品と「老い」の関係は、だがそれを作品そのものから捉えようとした時には困難に直面するように思われる。それは音楽に伝記的事実を投影しているだけなのではないか?しかし、例えばアドルノの「後期様式」はそれが実質的なものであるという主張である筈だ。一方で「時間の感受のシミュレータ」として音楽作品を捉えようとした時、それが「老い」とどう関わるというのか?それは文字通り「老い」を生きる時間の感じをシミュレートするということなのだろうか?そのシミュレータ自体が「老い」を経験し、意識するようなタイプの機械、生物のような機械、「人間」のような機械であることなしにそれが可能なのかどうかは一先ず措くとしても、「死」の意識、「別れ」の意識ならぬ「老い」の意識は、音楽作品にどのように刻印されているものなのか?「現象からの退去」の音楽化とは?それはどのような時間的構造と関わるのだろうか?

 直ちに思い浮かぶのは、上でも触れたアドルノの「崩壊」、ReversのLiquidation(融解)といったカテゴリは、実は「死」や「回顧」ではなく、実は「老い」に関わる性格的カテゴリではないのかという問いだろう。それらが寧ろ「老い」に関わるということを主張しようとした時、一体どのような点をもってそれを支持する証拠とすることが可能だろうか?

 更にそれを解釈する言葉の水準ではなく、具体的な楽曲の構造的な特徴の水準で行おうとした時に、一体どのようなアプローチで楽曲を分析すれば良いかを問うた途端に、具体的な楽曲の構造そのものに「老い」を見出す作業は困難であり、直ちにそれに答えることはおろか、その作業を進めていく見通しすら現時点では立てていないことを認めざるを得ない。だが漠としたものではあるけれども、朧気に浮かんでいるアプローチの仕方について簡単に述べておくならば、ポイントはまず、意識が基本的に「感じ」についてのものであるというソームズやヤーク・パンクセップ、ダマシオの立場に依拠すること、更に「ホメオスタシス」という概念に注目し、ソームズ=フリストンの意識に関する自由エネルギー理論に依拠することに存する。これはマーラーの音楽を「意識の音楽」、「時間の感受のシミュレータとしての音楽」として捉えようとしているからには、ごく自然な選択であろう。いきなり作品そのものにアプローチするのではなく、一旦まず意識についての定量化可能な理論を出発点にとり、音楽作品を意識を備えた有機体に対する入力でもあり出力でもあるものとして位置づけることによって、単なる音響の連なりではない音楽に意識の様態がどのように映り込み、また音楽を聴くことで意識がどのような振舞をするのかを定量的に捉えるアプローチをしてみようということである。

 現時点で思い描くことのできる見取り図としては、「老い」についてのシステム論的な定義においてはホメオスタシスやエントロピーの観点から「老い」が捉えられていることから、ソームズ=フリストンの「自由エネルギー原理」に基づく「意識」の説明(これもホメオスタシスやエントロピーに深く関わっていることに思い起こされたい)をベースにし、上記のアドルノやReversのカテゴリの記述を意識にとっての「感じ」という観点から捉え直し、更には自由エネルギー原理的に翻訳することによってデータ処理可能な記述に変換し、楽曲の動力学的なプロセスの中にそれらを探っていくという道筋が浮かんではいる。楽曲のプロセスに「老い」や「老いの意識」を見出す以前に、まず「老い」の自由エネルギー理論的説明が必要であり、その上で「老いの意識」についても同様の説明があってようやく、それが音楽作品の構造や過程にどのように例示(examplify)――ネルソン・グッドマンの言う意味合いで――されうるかの検討に取り掛かることができるようになるだろう。そしてその時ようやく「晩年様式」の実質について語ることが出来る語彙が獲得できたと言いうるだろう。そして「晩年様式」の実質を語れるのであれば、「意識の音楽」、「時間の感受のシミュレータとしての音楽」としてマーラーの作品を分析する手段は既に手に入ったことになるだろう。ちなみに上記では単純化のためにホメオスタシスにのみ言及したが、フリストンの「自由エネルギー原理」の重要な帰結として、人間の脳はホメオスタシス的な動きだけではなく、アロスタシス的な振る舞いを行うことが示されている。またパンクセップによっていわゆるデフォルトモードの情動がSEEKING(探索)であることが指摘されている。ここから創造性や「憧れ」といったものについて語る可能性も開けているように思われる。だが、この道筋を具体的に展開して実際の分析にまで繋がるレベルに到達するのは前途悠遠の企てであり、その実現には程遠いというのが現状である。

 そこでこの最後の問いについては一旦、問いとして開いたままにしておかざるを得ないとして、その替りに、更に漠然としてトピックレベルでの指摘に過ぎないので、ここでの問題設定に対して直接寄与することははじめから期待できないものではあるとは言うものの、『大地の歌』について、あくまでも「死」と「別れ」が主題でありながら参照が為され、更に「死」との関わりにおいて「老い」についての分析が行われているという点では特筆できるジャンケレヴィッチ『死』の該当部分の批判的な読解を行うことをもって、その手がかりを得るための準備作業としたい。

(2022.12.7-8 公開, 2023.3.16改稿, 2024.12.1,8,12,19 改稿, 2025.1.3 noteにて公開)

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