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落穂拾い:『人新世の「資本論」』における芸術の価値についてー「ドイッチュ『無限の始まり』における持続可能性批判についてのメモ」余録(1)

公開にあたっての注記:以下の文章は2021年7月に本ブログに公開した記事「ドイッチュ『無限の始まり』における持続可能性批判についてのメモ」の内容の謂わば前段に相当し、斎藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社新書, 2020)を読んだ感想についてのメールの中で上記記事では主題的に取り上げていない背景をなす部分のうち、三輪さんの唱えられている「人文工学」について触れた箇所や「芸術」特に「音楽」について言及した箇所について、再編集をした上で公開するものです。『人新世の「資本論」』の感想としては、それを批判的に論じるだけの予備知識の持ち合わせがなく、ナイーブなもので、到底専門的な議論に堪えるものではありませんが、その点は予めご了承頂いた上で、上記の記事の補遺ないし補足として読んでいただき、三輪さんの活動への理解を深めるきっかけとなれば幸いです。メールでのやりとりをさせて頂くことで上記のような論点を引き出して下さった京都大学人文科学研究所の岡田暁生先生と三輪眞弘さんへ御礼申し上げます。(2022.1.1-2)


『人新世の「資本論」』を何とか読了しました。読みなれない分野でもあり、あっちこっちひっかかりながら読んだので、酷く時間がかかりました。やりとりからご察しのことと思いますが、私はマルクスにきちんと向き合ったことがありません。従って以下のコメントも『人新世の「資本論」』が前提としているマルクスの本来の文脈を踏まえたものにはなり得ず、到底専門的な議論に堪えるものではない、ナイーブな感想となってしまう点については、予めご容赦頂く他ありません。とはいえ三輪さんの活動や三輪さんの唱えられている「人文工学」に関わる点も多々あり、以前自分が書き留めた一連の文章で扱っている事柄に通じるものを感じた部分もありますので、以下それについて書かせて頂きます。

私は「意識」とか「自己」の構造と挙動と、その構造を産み出すものとしての他者とか外部との関わりに関心があって、どこかで「個人の心」が関わらないような議論には最後のところで関心が持てないので、『人新世の「資本論」』の内容についても、音楽をはじめとする芸術とか学問における他者との関わりの在り方と、その結果としての「個人の心」の在り方の問題を重ねてみようとしてしまいます。と同時に『人新世の「資本論」』の問題提起に対し、三輪さんの活動や三輪さんの提唱されている「人文工学」がどのような応答を為しうるかということについても考えてみることになります。その結果として、些か恣意的ではありますが、以下の2つの操作を行った上で『人新世の「資本論」』に接することになりました。一つは「価値」が論じられているところで、学術的、芸術的な活動の価値への適用を考えること、もう一つは「人新世」を「二分心崩壊以降、シンギュラリティ以前」という劃期に対応づけてみることです。

脱物質化社会というのは神話に過ぎないという『人新世の「資本論」』の主張は首肯できます。情報には必ずメディアという物質的基盤が付き纏うので、そこから自由になれるというは幻想に過ぎない。それは、情報の定義がエントロピーと密接に関わることを考えれば当たり前ですが、それでもなお、例えば三輪さんが「中部電力芸術宣言」で問題提起したような、精神的文化の物質的基盤の存在を指摘することは意義あることと思います。

その一方で『人新世の「資本論」』のような議論の文脈だと、「精神労働」と呼ばれるものの中にあまりに多様なものが含まれてしまう。(『人新世の「資本論」』そのものだって含まれる筈でしょう。)更にSDGsのような文脈ではそれらが一旦はCO2排出量のような一元的な量の尺度に還元されてしまうこと。仕方ないことだとは思いますが、でもひっかかりを感じることは避け難い。

就中、「資本とは、価値を絶えず増やしていく終わりなき運動である」(『人新世の「資本論」』, p.132)というくだりにぶつかった時に、私にとっての問題が見えてきたように感じました。ここでの「価値」には学術的・芸術的な価値も含まれるのではないか?という問いが浮かびます。価値の情報論的読み替えは、上述のように脱物質化社会・認知資本主義が批判のスコープに入っているので(同書, p.96)問題ない筈です。

『人新世の「資本論」』の後書きでフクヤマの「歴史の終わり」やポストモダンの「大きな物語」の失効への言及があって、そのタイトルはいみじくも「歴史を終わらせないために」となっていますが、では「脱成長」の「物語=歴史」とはどういうものか?私自身、小声であっても別の「物語」を紡ぐ必要があるし、それをかき消されないように継承していく必要があって、そのために「芸術」は欠かせないし「人文工学」は有効ではないかと思ってきたわけですが、それとここでの「脱成長」の「物語」とはどのように関わりを持つものなのか?そもそも「歴史を終わらせないために」別の「物語」を紡ぐという発想は、究極の根拠を問えば、これもまた結局のところ資本主義的な発想に過ぎないのでは?という問いを立てることができると思います。それが芸術なら、これは芸術資本主義なのではないかということです。裏返して言えば、音楽をはじめとする芸術における「脱成長」というのはどういうことか?という問いを立てることになるでしょう。勿論それは『人新世の「資本論」』の主題ではないですが、だからといって揚げ足取りという訳ではなく、寧ろ「脱成長」の方向性を考える上での急所の一つではないかと考えているので、以下、その点についての覚えを記しておきたく思います。

言う迄もないことですが、芸術における「脱成長」と言ってもそれは、もちろん「ロハス」なフィーリングの音楽を、みたいな水準の話をしたいわけではないです。シェーンベルクが多分間違いなく主観的には信じていた「進歩」というのが相対化されて、いわゆるポストモダン的な状況というのが音楽史においても指摘されるようですが、その当否は措くとして、ポストモダン的状況が即「脱成長」であるというようには到底思えない。一方で「ロハス」そのものの方が新自由主義的なものと結託するという指摘は『人新世の資本論』にも出てきます。つまるところそれが「消費におけるファッション」に過ぎないからだという訳で、この指摘自体には私も異論はありません。

ただ、では「脱成長コミュニズム」における音楽がどんなものでありそうかについて『人新世の「資本論」』の中で手がかりを求めても、見つけることはできないようです。例えば、p.272の「自由の国」というマルクスに由来するらしいコンセプトの具体性のなさ…「物質的欲求から自由になること」で始まる「集団的で文化的な活動の領域」…いえ、その直前、p.265から始まる「GDPとは異なる「ラディカルな潤沢さ」」という節で描写される「ラディカルな潤沢さ」の回復の結果のイメージは「物質主義的ではない活動への余裕」が生まれ「スポーツをしたり、ハイキングや園芸などで自然に触れたりする機会」の増大、「ギターを弾いたり、絵を描いたり。読書する余裕も生まれる」…総じて「コミュニティの社会的・文化的エネルギーは増大していく。」(p.267)という描写には、寒々しさを覚えないでしょうか?それっぽっちのことでいいなら、「脱成長コミュニズム」が否定する他の代替案でも実現できるのではないか、否、こういうイメージ自体、実は資本主義自体が作り出したイメージに方向づけされていて、あまりにナイーブなものではないか?それが「脱物質化社会というのは神話に過ぎないという」という認識と端的に矛盾しているのではないかという疑問をとりあえず措いたとしても、文化が物質的なものから独立であるというのは余りにお目出たい認識ではないか?そうでないからこそ、メディアに介入することで文化的なもの、精神的なものを支配し、操作することが可能であるという現実との格闘が繰り広げられているというのに…

私はこの部分を読んで寧ろ、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の大審問官の章で、大審問官によって語りだされる個人の自由な決定から解放された社会のイメージを思い浮かべました。

「そう、われわれは彼らを働かさせるけれど、仕事から解放された自由な時間には彼らの生活を、歌あり、合唱あり、あどけない踊りありという子供の遊戯のようなものにしてやるつもりだ。」

(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、原卓也訳、新潮文庫)

勿論『人新世の「資本論」』はこのイメージを否定するでしょう。それはファシズムか毛沢東主義か、いずれにせよ自分が否定している選択肢の提供するものだと。でも『人新世の資本論』が描き出す自由は、大審問官の物語る「自由な決定」の自由よりは、「自由な時間」の自由に近づいているのではないでしょうか?ファシズムや毛沢東主義のそれと区別をつけることができるのでしょうか?

結局『人新世の「資本論」』にも、それが援用する限りでのマルクス自身にも欠けているように見えるのは、市場における「価値」(資本主義が追求するもの)でも「使用価値」でもない「価値」の領域に対する認識ではないかと思います。「使用価値」という概念の肌理の粗さが、精神的な領域について、文化について語ることを困難にしている。これは最近、文化とか芸術について「進化論的な効用」に結びつけて論じようとする或る種の還元主義と似た構造を持っているように思えます。そこで「音楽」は、種の存続に寄与するか、或いは「パンケーキ」(スティーブン・ピンカー)のような、進化論的な価値を持たないもののいずれかになってしまう。こちらでは「使用価値」が「進化論的な効用」に置き換えられているだけで構造は同じではないでしょうか?

結局、如何にそれが脆くて頼りないものだとしても「個人の心」の領域の存在を扱いえないことに社会学的な議論の本質的な限界があるのではないでしょうか?他方において、資本主義を産み出した当事者たる「二分心崩壊以降・シンギュラリティ以前」の人間の心の構造を扱わない議論にそれに対する別のモデルなど提示できる筈がないとも思います。

そこで「持続可能性」の問題を「二分心崩壊以降・シンギュラリティ以前」の「人間」の存在様態という自分の土俵に持ってきたとき、自伝的自己を備え、自己意識を持ち、ということが、それなしでは不可能であった「反逆」を可能にしたという『自己が心にやってくる』におけるダマシオの主張をどのようにカップリングさせるかが問われているように思います。そもそも「反逆」が可能になったことで、ハンス・ヨナスの言う「未来に向けての責任」を論じることができるようになり、ドゥピュイの「賢明な破局論」が可能になったわけで、「人間」以外の地球上の生物にはそんなことはできません。

当然想定されるようにダマシオのいうところの「反逆」は両義的で、一方では、言われるところの資本主義を加速させ、他方では、抑制することができる。「脱成長」は「生き延びる」ための戦略という位置づけのようですから後者なんだろうとは思います。だけれども、単に「生き延びる」だけではなく「生き方を学ぶ」必要があるのではないか。そしてそれは、或る種の情報については「価値を絶えず増やしていく終わりなき運動」を許容することによってしか実現できないのではないかというように思います。(ここでの「生き方を学ぶ」は、p.321で出てくる「ブエン・ビビール」(良く生きる)とは似て非なるもので、事実としては、膵臓癌で亡くなったデリダの最後のテキストの題名に由来するものです。そういえば、デリダもマルクスの読み直しをしていますが、デリダ的な「生き方を学ぶ」とここでの「良く生きる」の間の違いを考えることは有効なのではという気がします。)

そしてそのように考えた時、「音楽」をはじめとする「芸術」が「反逆」とセットであるというのは自明ではなく、色々な面で積極的に擁護すべき事柄であるように感じます。そしてその点は「交換価値」は勿論、「使用価値」でも捉えきれない「価値」を見出すことと不可分に感じられます。

百歩譲って『人新世の「資本論」』における「ラディカルな潤沢さ」が「人間の内面」を蔑ろにしているわけではなく、音楽を楽しむことを、一見したところ交換価値に囚われない個人の内面の「自由」として考えようとしていると受け止めたところで、以下の三輪さんの言葉にある、「一方的で趣味的な」音楽の定義、多分に既に「交換価値」に汚染されているに違いない音楽の捉え方を『人新世の「資本論」』における文化なり音楽なりについての語り口に感じてしまうということです。

「音楽とは、才能ある人が抱いた思想や激情や繊細な感覚の揺らめきを聴衆に伝えるためのものなのだろうか? その例をぼくは無数に知ってはいるが、そんな一方的で趣味的なものでは決してない、といつも思っている。 そうではなく、人間ならば誰もが心の奥底に宿しているはずの合理的思考を越えた内なる宇宙を想起させるための儀式のようなもの、そこには自我もなく思想や感情もない、というより、そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法ではないか?もし、音楽がそのようなものではないのなら、J・S・バッハの音楽などに感動できるはずもないし、現代では音楽など単なるイケテナイ娯楽でしかない。」

(三輪眞弘「369 Harmonia II」のプログラムノートより)

ここで三輪さんは反語的に、アイロニーとして言っているにも関わらず、『人新世の「資本論」』における音楽をはじめとする芸術や文化の扱いは、「現代では音楽など単なるイケテナイ娯楽でしかない。」という状況の傍証のようなものになってしまっている、ということでしょうか。芸術や文化は『人新世の資本論』の主要なテーマではないですが、でも、まさにその点にこそ『人新世の「資本論」』の限界が潜んでいるように思えるのです。

それにしても『人新世の「資本論」』での議論を、「芸術ーエートスー無意識」の次元を「資本主義空間ー言語空間ー意識の次元」と対比させて、前者をもって後者に対抗するような三輪さんの考え方に包摂し、芸術を「無意識のエクササイズ」と捉えるベイトソンの見方と接続することが可能であれば、その限りで擁護可能であるという主張はどうでしょうか?

私見ではそもそもベイトソン的な区分というのは「二分心崩壊以降、シンギュラリティ以前」の人間の心を前提としていると思います。二分心と言語との関係は錯綜としていますが、二分心自体が言語を前提としている点を認めるにしても、少なくとも物語を語る自己は二分心崩壊以降のものだし、比喩の使用などジェインズが持ち出す特徴は須らく言語が前提となっています。芸術ーエートスー無意識の次元が担わされることになった役割である「隠れたる神」への呼びかけもまた、「二分心崩壊以降、シンギュラリティ以前」の人間の心の構造そのものに起因します。

私は、音楽をはじめとする芸術を専ら無意識の側に配分させる発想には違和感を感じる一方で、資本主義空間が、意識の次元だけで行われているとも思いませんが、その点はひとまず措くとして、上記の「資本主義空間ー言語空間ー意識の次元」と「芸術ーエートスー無意識」との二分法に従った上で言うならば、前者の暴走に対して、後者はそれを抑制し、ホメオスタシスを実現するために不可欠なものであると言えると思いますし、それこそがベイトソンの「無意識のエクササイズ」が言わんとすることだと思います。「脱成長コミュニズム」における「芸術」の役割についての疑念は既に記した通りですし、それが交換価値/使用価値という二分法と密接に関わることも上で指摘した通りですが、その限りにおいて「脱成長コミュニズム」よりも、ベイトソン的な無意識のエクササイズの方が、資本主義空間に対する抵抗の拠点としては実効的ではないかという見方も可能ではないかと思います。

ちょっと断定的な言い方をすることをお許し頂くならば、問題はスピードを落とすことでは多分ない。スピードは落とせない。「脱成長コミュニズム」が独自のスピードを主張しても、「資本主義」の側は止まりません。ドイッチュのいう通り、全体主義的な体制が支配でもしない限り、スピードを落とすことはできない。もしスピードを変えたければ「資本主義」の外に出てはいけないのではないか?「資本主義」に外から対抗するのではなく、「資本主義」の社会の持つスピードを、別の向きに変えていくという発想によってしか、現実的な対処はできないのではないか?そしてその「別の向き」を示すことが、「人文工学」の、「人文工学」の中核に位置づけられる芸術の役割なのではないか?というように思えるのです。

芸術が資本主義的な世界において「不要不急」とされているのは、それは資本主義の側の一方的な「芸術」の定義によるものです。それこそ使用価値と交換価値の二分法でしか「芸術」を捉えようとしないからではないでしょうか?そしてこの点では、生憎なことに「脱成長コミュニズム」と資本主義は、同盟を結び、共同戦線を構築しているように私には見えます。

現実には、コロナ禍でコンサートは延期されたり中止されたりする一方で、オリンピックはその圧倒的な使用価値と交換価値故に、決して中止されることはないというのが、我々に突き付けられている状況です。「脱成長コミュニズム」だって、恐らく芸術を、持続可能性にとっては「無駄」であるとか、CO2削減に役に立たないどころか、その発生を促すとかいう理屈で、コンサートを延期・中止するのではないか?という疑いが頭をもたげてくるのを止めることができません。そしてそれが資本の拡大なのか、持続可能性なのかは措いて、そのような「価値」を基準に据えてコンサートの延期や中止を判断するという発想に対して「人文工学」はベイトソンとともに異議申し立てをすべきではないかということが私の言いたいことです。

「二分心崩壊以降・シンギュラリティ以前」のエポックにおいて単純に「資本主義空間ー言語空間ー意識」の次元を否定し、「芸術ーエートスー無意識」の次元を称揚することが必要なのではなく、後者の力で前者を「調律する」ことが必要なんだと思います。それは「二分心崩壊以降・シンギュラリティ以前」がより良く生きるために必須のことなのではないか?そして、持続可能性ということについえ言えば、その「調律」がうまくいけば、持続可能性の問題は、別の仕方で、結果的に解消されるのではないかと思います。『人新世の「資本論」』の目的とすることは、「脱成長コミュニズム」によってよりも、資本主義のスピードの内側で、ドイッチュの言うように寧ろ或る種の価値についてはスピードを加速することによって実現できる。というより、そのようにしか実現できないのではないかと私には思えます。

言葉の上だけのレトリックに見えるかも知れませんが、「人文工学」も「芸術」も決して不要不急ではない。勿論、目指すべきは「人文工学」なり「芸術」なりが使用価値と交換価値を獲得することではありません。そうではなくて、別の価値があることを示すことが目指されるべきであって、それは見たところ、「人文工学」「芸術」そのものにしかできないように私には思えます。どんなに言葉だけの議論、理屈上の話に聞こえたとしても、筋道はそれ以外にあり得ない、というように私には思えるのです。もし端的に、使用価値と交換価値以外の価値が現実にないのだというのであれば、そうした認識の閉域こそが資本主義が構築し、恰も必然であるかの如く見せかけているものなのではないでしょうか?それでは、その外に出ることは端的に言って不可能なのでしょうか?その外に出ることなく外部を知ることは不可能なのでしょうか?実際には、カントの言う「理性の宿命」に突き動かされ、その都度乗り越え不可能な認識の限界と思えた制約を超え、認識の領域を拡大することの繰り返しによって我々はここまで到達したのではないでしょうか?それはどのようにして可能になったのでしょうか?

これまた虫の良い御伽噺に聞こえるかも知れませんが、上記のような筋道を辿ったならば、レトリカルに聞こえるかも知れませんが、要するに「持続可能性」を直接に目的としているもので現実に力を持つのは、実質的に言って、ドイッチュの想定するようなスピードアップしてパワーアップしたテクノロジー「だけ」で、だけれども、そうしたテクノロジーの発展それ自体を促進するという側面から言っても、「人文工学」と「芸術」を拠り所とする「価値」が共有されることが必要だと考えます。(まさにAIとかウィルスのような生物兵器、遺伝子改変技術について懸念されているように、テクノロジーは幾らでも悪用されるリスクがあります。だけれども悪用に対抗するのもまた、それに勝るテクノロジーに拠ってでしかなく、テクノロジーの進化を放棄することは対抗の手段とはなり得ないのではないでしょうか?)

最後に、これも余りにナイーブに思われるかも知れませんが、では「人文工学」と「芸術」を拠り所とする「価値」とは何か、ということについて、私が今時点で持っている想定をお伝えしておくと、それは、まさに人間が意識を持ち、自己を獲得し、「反逆」に成功するのに欠かせなかった生物種としての特徴です。それが「文化」を可能にし、心的構造およびその派生物としての言語のようなメディア自体とそれにより可能になった「文化」の更なる共進化を可能にした特徴。

それが「資本主義」という怪物の暴走にもまたどこかで繋がっていて、啓蒙が容易く野蛮に陥るという人間の愚行の歴史に目を背けるべきではないという点は強調し過ぎてもし過ぎることはない(なので、ドイッチュに対してフランクフルト学派を持ってくる必要もまた、あると考えたわけ)ですが、その上で、でもそこに依拠すべきと思うのは、ホモサピエンスの高度な「模倣」と「共感」の能力、それに加えて、意識と自己を備えた心の構造が可能にした、「外部」を思考し「無限」を思考する能力、そしてそれらの複合の結果としての想像力と創造性、最後に「未来」と「他者」に対する「責任」を担う能力です。これもまた無力な抽象論かも知れませんが、少なくとも理路としては間違っていないと思います。様々な愚行を重ねつつ、でも「二分心崩壊以降・シンギュラリティ以前」のエポックをここまで来れたのは、時として具体的な状況においてはそれが無力であると感じられるにしても、それがあるからではないかと思います。そして、それを「価値」として拠り所にできるのは「人文工学」と「芸術」を措いてない、と私は思います。そしてここで、無意識の次元が果たす役割の大きさにも留意すべきでしょう。何よりまず、「模倣」と 「共感」の能力は、無意識の領域に関わりますし、想像力と創造性は、構造的な要請として意識を必要条件として持ちますが、これらもまた主として無意識の領域の働きです。そして最後に「未来」と「他者」に対する「責任」を担う能力は、当然「人間」的主体が担うべき能力ですが、「模倣」と 「共感」といった社会的能力抜きでは不可能だし、「外部」と「無限」へのフィーリングとしての想像力と創造性なしでも不可能、つまるところ、無意識の領域の働きが決定的な役割を果たすのです。

繰り返しになりますが、動物行動学とか、ヘンリックが『文化がヒトを進化させた』で論じているような、社会的動物としての人間の特性を考えた時、放っておけば「脱成長コミュニズム」に収束することは期待できないし、それらが暴走することによって『人新世の「資本論」』が「脱成長コミュニズム」に対立させる残り3つの選択肢であるファシズム、毛沢東主義、野蛮にいとも簡単に陥ってきたというのが人類の歴史じゃないのかという指摘が当を得ていることは認めざるを得ません。その一方で、共感し、模倣し、協力するというのは、ヒトという生物が備えている際立った特徴であり、他の霊長類との違いであるということも、今や事実として考えていいのではというように思います。(そしてこのことこそが『文化がヒトを進化させた』でのヘンリックの主張です。)自伝的自己を備え、自己意識を持ったことで、それなしには不可能な、現在の延長ではない「未来」を予測し、「賢明な破局論」を構想できるようになった点があればこそ、ファシズムと毛沢東主義と野蛮の3つを回避した時の唯一の選択肢が「脱成長コミュニズム」であるという前提に立つならば、その実現可能性は、低いけれどもゼロではなくなったのだということが言えるだろうと思います。

その一方で「人新世」という展望には「二分心崩壊以降シンギュラリティ以前」の展望には存在する「隠れたる神」という観点が抜け落ちているように思うのです。「脱成長コミュニズム」は、啓蒙思想がフランス革命がそれを実現すると夢想した無神論的な協同主義的ユートピアのように「外部」を持たないものではないか?資本主義が自らの存続のために作り出し、強化している内部と外部の境界がなくなったとして、「脱成長コミュニズム」は疎外された外部なきユートピアなのでしょうか?そこでの「音楽」は「社会主義リアリズム」的な、「脱成長コミュニズム」を強化するものなのでしょうか?(プラトン以来の、社会体制に奉仕し、それを強化するプロパガンダとしての音楽ですね。)

そうした点で私が思い浮かべたのは、またしてもドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中で展開される議論でした。そこでは資本主義と社会主義の軸だけでなく、有神論と無神論の軸も扱われる、というより後者がより本質的だと考えられています。ここでの文脈に引き付ければ「脱成長コミュニズム」は、神なしで成立するのか?ということです。結局のところ「二分心崩壊以降・シンギュラリティ以前」と捉えないと、「脱成長コミュニズム」を構成する「人間の心」の問題を取り逃してしまうのではないでしょうか?そしてそれは「音楽」なり「芸術」なりが成り立つ契機のもっとも根本的なところを取り逃しているのではないかでしょうか?今や「神」という言葉があまりに使い古されたものであるというならば、「外部」「無限」「未来」「他者」という言葉で言い換えてもいいでしょう。いずれにせよそれらを思考する能力、思考するだけでなく、共感する能力、そしてそれらの複合の結果としての想像力と創造性によって可能になる「責任」を担う能力こそ、「人文工学」と「芸術」がそれに依拠し、同時に擁護すべきものであると私には思えるのです。

ここまで『人新世の「資本論」』とそこで主張されている「脱成長コミュニズム」について疑問を書き連ねて来ましたが、実を言えば『人新世の「資本論」』のモチベーションの部分に関しては共感できる部分が多々あります。「資本主義」が良いとか、よりましだと思っているわけでもありません。そして勿論、現状のままでいいと思っているわけではなく、寧ろ身近なレベルでは、「大衆にはパンとオリンピックと株価とSNSさえ与えときゃいい」式の21世紀資本主義の跳梁跋扈に、その反知性主義的な愚行の連続に対して、勘弁して欲しいと思っているのが現実です。ただ『人新世の「資本論」』が示している限りでの「脱成長コミュニズム」には対案としてのリアリティに欠けているように思えてならないのです。そしてその原因の少なくとも一つに、そこにおける音楽をはじめとする芸術の価値の扱いが関わっており、なおかつそのことがその前提となっている価値概念自体の制限と、いわば共犯関係にあるように感じられたのが、この文章を記すきっかけとなったのでした。

とりわけ今やシンギュラリティを目前にし、その特異点の向こう側では「ひとのきえさり」とともに「音楽」もまた今と同じものではありえないのだとしたら、その時に、二分法の狭間でいわば幽霊的に存在していて(「二分心崩壊以降」の「隠れたる神」という構造を考えれば、それは構造的に幽霊的にしか存在しえないのかも知れませんが)、ここで救い出そうとしている「価値」がどうなってしまうのかという点こそが「人文工学」の焦点になるように私には思えます。「人文工学」がその課題を引き受けることによって、逆説的ではありますが、『人新世の「資本論」』の主張する「脱成長コミュニズム」が実現する必要条件の一つがようやくクリアされるのではないか、もし仮に『人新世の「資本論」』の主張する「脱成長コミュニズム」を実現しようとしたならば、その議論における音楽をはじめとする芸術の価値の扱いに然るべき修正を施すことによって「価値」概念自体の組み換えを行うことが必要なのではないか、というのが現時点での私の展望ということになるかと思います。

(2021.6.26~7.8のメールの内容に基づき再構成。2022.1.1初稿公開, 1.2加筆訂正, 2024.12.21 noteにて公開)

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