断片VII 間奏曲(書簡)
透谷については、もう少し蓄積をしてから整理をしようと 思っていますが、それにしても透谷の問題意識から、1世紀後を 経て、一体どれだけ変化したのだろうという感慨に囚われます。 三輪さんが言及された木戸さんの「トランスクリプションではなく、 トランスフォーメイション」という言葉に対し、思わず 透谷が、100年前の銀座を歩いて述べた「革命にあらず、移動なり」という言葉を思い浮かべてしまいました。透谷もまた、伝統には 実は革命が必要なのに、実際には移動しかなく、伝承が行われている に過ぎないという点を喝破してみせたのだと思います。時は経ち、 世代は変わっても、構造は不変なのだということなのかも 知れません。
透谷に関しては、最近入手した吉増剛造さんの『透谷ノート』を 読んでいます。吉増さんの詩には惹かれるものがないのですが、 透谷についての文章は、同じく透谷に思い入れがあるとはいえ 研究者ではなく、詩人の視点と文体で語られている点もそうですが、 不思議なことに吉増さんも透谷の足跡を辿っていて、なおかつ そうすることで掴める何かを吉増さんも掴んでいることが 読み取れて、違った角度から、違った光の中でだけれども、 同じものを見ているはっきりのが感じられて、共鳴するものを 感じました。
「遊歩者」が眺める「都市」はベンヤミンによれば 「ファンタズマゴリー」であると。 ファンタズマゴリーとは幻燈、映画をはじめとする 映像メディアでしょう。(アドルノの文脈では ワグナーのオペラになるのですが、、、) それでは見ている主体の側はどうなのか? これは、この前整理して公開した文章でも扱った、 そしてドイッチュも別の視点で問題にしている 「啓蒙」の問題の裏面です。 三輪さんの「魔法の鏡」、ディズニーランドの 観客(ベンヤミンが「博覧会」に言及しているのは、 ここにつながると思います)と「遊歩者」の距離を測る 必要があるでしょうし、「遊歩者」の疎外と、 疎外に対する抵抗としての「啓蒙」(こちらは こちらで「野蛮」と裏腹の危うさを持ちますが)と 「遊歩者」の距離を測る必要もあるでしょう。
一方、透谷は「トラベラー」と綽名されていた由。 でも彼は「観光客」ではない。 彼の「三日幻境」は、ことごとくリアルな移動と、 他者との出会いの経験でありながら、それを 彼は「幻境」経験であると規定しました。 でもそれは彼が小説「宿魂鏡」で描いた鏡とも 違うし、三輪さんのいう「魔法の鏡」とも違います。 透谷の「幻境」と「遊歩者」のファンタズマゴリーの 違いは一体、どこにあるのでしょうか?
そして私の「透谷巡礼」はどうなのか? Webにある無数の訪問記は? 私は、「透谷巡礼」を、自分の脳内の記憶と幾つかの 画像(それは自分が撮ったものもあれば、StreetViewの スナップを保存したものもありますが)の状態に留めて おかずに、何らかのかたちで自分の経験に相応しい かたちに、そして透谷その人にできるだけ相応しい かたちにまとめたいと思っています。 どうしてそうしようと思うのか?
恐らくはそれが「疎外」への抵抗の方法だからなんだと思います。 「投壜通信」は「疎外」への抵抗の方法なんだと思います。 ちょっと単純化し過ぎかも知れませんが、一方的な 受益者は、そのことによって疎外される、という構造が あると思います。疎外から逃れるには、神の衣を 織るしかない。それでも自分は結局逃げられないけれど、 織った衣は、もしかしたら、という一縷の望みに賭ける しかない。織った衣が神の衣かどうかは、まさしく 「神のみぞ知る」かも知れませんが、でも、私が受け取った ものの贈り手の遺した衣の価値を測ることは、神のみに 許されているわけではない。
(2014.8.10 公開, 2024.7.15 noteにて公開)
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