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「古代」村落の想像的根拠から「極東の架空の島」へ:あとがきに替えて・謝辞・参考文献
あとがきに替えて
心のシステムは神経回路網の学習によって後成的に形成されて行く側面があるため、既に生物学的水準でも可塑性・柔軟性を持っていたが、ヒトに至って、脳の急激な発達と言語の発達による現実世界とは独立の仮想的な概念による領域を獲得したことにより、どのような構造を規範として学習・調整を行うかに関して、生物学的界面でのそれを大幅に超えた自由を獲得することになった。だが、ということは、人間はこの先自らをどのような方向に向けて心のシステムや社会のシステムの変化をドライブしていくかについて、大数の法則に支配された統計学的なゆらぎに起因する偶然を受動的に当てにするのではなく、意図する、しないに関わらず、より急激な、ということはより制御不能に陥る危険の高い選択・調整を行い続けていく宿命にあると言って良い。人間は既に自らを単純な開放系におけるゆらぎのみを扱う類の複雑系から遠く離れて、カオス力学系の中に身を投じているという自己認識を持つべきなのである。<二分心>から意識への道程は、一旦その軌道に捕らえられてしまえば必然的とも見えるものであったかも知れない一方で、好むと好まざるとに関わらずカオス力学系ベースの複雑系の常として、非可逆なプロセスでもあり、最早後戻りは利かないのだということを認識すべきなのだ。自伝的自己をベースとした近代的自我を範例とする責任と自由による社会統制のメカニズムが予期せぬ弊害を引き起こしたからといって、<二分心>の昔に戻ることはできない。人間にあっては寧ろ起源は自己認識をその礎においた仮構に過ぎない。「隠れたる神」が再び身近に甦ることはないし、「自己」が常に自己に対する表象や了解の複合であるに過ぎないように、過去の楽園は自らが産みだした幻想に過ぎない。
近代的自我の規範が弱まるにつれて、自己の規範も変容を蒙りつつあって、それは例えば精神病理学の領域では、躁鬱病の重症化と病態の多様化とともに、統合失調症の軽症化をもたらしているとの指摘を加藤がしているが、そうした環境の中で、だが、<二分心>の名残を留め、<二分心>から意識への移行の証言者でもある狩俣圏の祭祀システムは、自己を継続することを停止してしまった。それは時代が逆行を始めたのではなく、<二分心>から意識への道筋を、<二分心>からますます離れる軌道に乗って移動を続けているからに他ならないだろう。
人間は今後も社会的動物として、その自己の構造に集団的な側面を残し続けるだろう。だが、社会統制のためのインタフェースとしての<二分心>が可能にした、時間方向・空間方向両面における集団への帰属は、別の仕方で、従って全く同じというわけではないにせよ、同程度には強固な集団への帰属を成員に求める近代的な自己を規範とした時代を経て、今や集団への帰属の価値自体が変容し、希薄化しつつある。結果として人間は、社会的動物としての性質を弱めており、かつその傾向に棹差すどころか、その傾向を一層強化する傾向にあるようにさえ見える。
そうした中で今や可能性は、過去の祭祀を単純に復活させることの中にではなく、意識が獲得した能力である、現在と異なったものを想像し、創造することができる能力の下に、「古代」村落の想像的根拠としての宮古島狩俣を出発点にして、「極東の架空の島」としての「狩俣島」を構想することの裡にあるのではないかと思えてならない(なお、ここで「狩俣島」という時、例えば狩俣と実在の他の島との関わりを示唆する意図はない。例えば国内では五島列島に属する若松島は、恐らくその島の形状から「狩俣島」と呼ばれたようだが、そこから稲村賢敷『琉球諸島における倭寇史跡の研究』以来の倭寇の琉球諸島への影響を踏まえて両島の関わりを想定すること、或いは海外まで目を拡げれば、砂川明芳『宮古島郷土史考』の「南への連想」のようにボルネオ島の更に南西にあるカリマタ諸島にまで連想を拡げる向きもあろうが、ここではあくまでも三輪眞弘が、柴田南雄の『音楽の骸骨のはなし』に着想を得て制作した「極東の架空の島の唄」の作品群の延長線上に位置づけられるものという意味で、「島=シマ」が村をも意味することを踏まえてそのように命名したものである)。それはドイッチュが『無限の始まり』で述べた、持続可能性をではなく、新たな始まりを追求すべく、想像力と創造力を行使せんとするヴィジョンへの共感を表明するものでもあるだろう。それは楽観主義などではなく、寧ろ「神々の沈黙」の時代、「隠れたる神」の時代を生きる最終走者として、一方では自分が産出したシステムが制御不可能となり、自らの存続のための基盤を損なう危険に常に脅かされつつ、他方では過去において無意識の裡に抱き続けてきた「人間」の特権性・優位性を、知性や創造的な感性といった領域に至るまで自らの手で相対化してしまった現在を生きる、つまりジュリアン・ジェインズの言う<二分心>以降、レイ・カーツワイルの言うシンギュラリティ(技術的特異点:レイ・カーツワイル『ポスト・ヒューマン誕生』を参照。)以前の時代を生きる人間に課された宿命に対する誠実な応答なのではないか。この試論は、その達成を目論むものでは到底あり得ないが、そうした可能性の存在を裏付け、そうした試みに向けた補助線を描くことを目的としたものである。だがその成否については読者の判断に委ねる他なく、一先ずここでは、その結果の如何によらず、藤井貞和と三輪眞弘のこれまでの業績の上に、新たな社会の形態を目指した「極東の架空の島」の儀礼が産み出されることを祈らずにはいられない。
本稿執筆の経過
最後に本稿成立の経過について簡単にまとめます。
◆構想
「古代」村落の想像的根拠としての宮古島狩俣から「極東の架空の島」としての「狩俣島」へ。
但し、「古代」村落の想像的根拠は藤井貞和『<うた>起源考』を典拠とし、「極東の架空の島」は三輪眞弘「極東の架空の島の唄」を典拠とする。
◆最初の問題設定
藤井貞和の<うた>の起源についての「双分観から三分観へ、中心(ミヤーク)を意識する」プロセスとジュリアン・ジェインズの<二分心>から意識への変容プロセスに並行性が確認できることから、両者に構造的な連関があるという仮説を導き、その妥当性を検討する
◆第1年度実施内容・結果と課題
□実施期間:2018年10月~2019年8月
□実施内容
上記のプロセスを分析・検討するために、藤井貞和『古日本文学発生論』に基づき、宮古島狩俣の事例に問題設定の場を求め、文字記録以前の狩俣村落の形成のプロセスの推定復元を、主として考古学的調査の結果・史料に確認できる歴史的事実、および社会学的・地理学的側の調査・分析の結果に基づきつつ、試みた。フィールド調査は行わず、文献調査と狩俣村落の地図を用いた検証のみを実施した。
□結果
狩俣村落の変容プロセスの復元推定の結果を以下の資料にまとめ、また調査・分析の過程で収集・参照した資料を文献リストにまとめた。
・狩俣村年代記 ver.1.10 2019.8.11版
・「狩俣村年代記」説明 2019.8.11版
・参考文献リスト 2019.8.11版
□成果と課題
・狩俣について論じた文献に関し、比較的容易にアクセスできる著作・論文は一通り収集して内容を確認することができ、引き続きの分析・検討のための準備ができた。
・狩俣村落の変容プロセスの復元推定については、文字記録を欠いていることもあり、実証性を欠いた脆く朧気な構築物が得られたに留まった。
・本来の目的である、藤井貞和の「双分観から三分観へ、中心(ミヤーク)を意識する」プロセスとジュリアン・ジェインズの<二分心>から意識への変容プロセスの構造的な連関の検討については、その仮説を前提として、知られている事実や伝承に基づき、一応の整合性を持った通時的過程の復元推定を試みたが、細部における分岐の可能性を指摘する作業に終始した結果、構造的な連関の検討まで到達できなかった。
◆第2年度の構想
□実施期間
2020年6月27日~8月11日
□検討の目的・対象
A.<二分心>と自伝的自己を伴う意識:言語の獲得の影響、<二分心>崩壊から意識の誕生の過程に、今日に至る祭祀の発生の起源をみること
B.双分観と三分観:外部との接触による村落の変容のプロセスの反映として
C.社会集団の構造(社会システム)と成員の心の構造(心のシステム)の関係:社会脳。超越的な存在とのコミュニケ―ション・プロトコルとしての祭祀/村落の社会統制の手段としての祭祀
□検討を導くモチーフ
村落の外部との関わりと、それに伴う構造の変容(社会のオートポイエーシスの水準)を、
細胞と外部の関りと、それに伴う構造の変容(生命のオートポイエーシスの水準)や
心の外部との関わりと、それに伴う構造の変容(心のオートポイエーシスの水準)
とパラレルであり、アナロジーが成り立つものと仮定して考えてみる。
□検討の方法
A.<二分心>と自伝的自己を伴う意識(第1章)
系統発生的=進化論的な自己の発達モデル(トリーおよびミズン)、および個体発生的=発達論的な自己の発達のモデル(やまだ)と<二分心>モデルの比較検討を通じた<二分心>の位置づけの確認。言語獲得の副作用としての<二分心>モデルの権利上の妥当性の検証。
B.双分観と三分観(第2章)
三分観の背後にある双分的な認識の複合に見られる不整合に注目して、そこに村落の形成・変容の過程の反映を読み取る。更に一方では村落複合体の内部に埋め込まれた部分集団の水準、他方では村落がその要素となる村落群の集合(ここでは仮に「狩俣圏」と呼ぶが、これは単なる便宜上のラベルに過ぎず、実態を踏まえたものでは必ずしもない。実態を踏まえるならば、寧ろ「大神圏」と呼ぶのが適切かも知れない。)の両方の水準を検討し、統一的な構造把握を試みた。特に後者の水準の検討は、今年度新たに行うものであり、同一の祭祀を持つ、他の村落との比較を通じて、狩俣の独自性を確認する。
C.社会集団の構造(社会システム)と成員の心の構造(心のシステム)の関係(第3~5章)
今日存続する祭祀を<二分心>時代からの存続としてではなく、<二分心>崩壊から意識の誕生の過程における心的システムの変容への「対抗措置」という意味合いを持つ村落の社会統制の手段として見ること。更にその目的のために仮構された起源の<物語>によって、意識の外部として産出された超越的な存在とのコミュニケーション・プロトコルとして捉えること。
狩俣の祭祀の構造における重層性:狩俣の祭祀における神歌の継承における口承性を巡る様々な側面を検討し、神歌における言語の行為遂行的機能の優位と意味内容の副次性の具体的な様相を確認すること。特に傍観者であり、神歌の唄う役でもある男役の存在とその意味合いに注目すること。つまり、歴史的には狩俣の神歌が編纂されるプロセスにおける外部の侵入、そして共時的には、神歌が記録され、保存されるに至るプロセスにおける外部の侵入(神歌の採集という研究自体を指す)の何れにも媒介としての傍観者の層が本質的に係っていることを認識すること。そしてそれが発生論的には<二分心>から意識への移行に並行した出来事であり、意識の構造と祭祀の構造に同型性が見られること。また事後的な観察においては、そうした祭祀の構造の存在が、意識から<二分心>を覗き込む通路の存在を保証すること。
□狩俣の事例の検討・分析の方法
なお、狩俣の事例の検討・分析については、昨年度の検討を踏まえ、特に以下の点に留意して進める。
本永の「三分観の一考察」で提示され、藤井が「双分観」から「三分観」への移行として動態化した構造主義的視点を分析のベースとする。第1年度に調査した地理学的・社会学的・考古学的・歴史的事実は「双分観」から「三分観」への移行の相を解明する目的に限り、その真偽を問題にするのではなく、あくまで地理認識・歴史認識が記載された資料として利用する。
藤井貞和『古日本文学発生論』およびその後の狩俣の神歌に関する藤井の論考を常にそこに立ち返る参照点、根拠とする。本永清のいう、「神話・儀礼・神歌」の相に集中し、心の構造と社会の構造の対応をそこに見出すことに重点を置く。
文献の中では、まず地理学的・社会学的・考古学的・歴史的資料としては、第1年度の調査結果に基づき、真偽を問うのではなく、地理的・歴史的認識が記録された資料として捉える立場から、検討上の必要に応じ、古いところでは戦前の田村浩の研究を含め、琉球大学、沖縄大学によって行われた各種フィールド調査の報告を中心とした各種資料を改めて参照する。
一方、狩俣の「神話・儀礼・神歌」の相に関する文献の中では、特に、「よまれている神歌を対象として「神歌」のかたちを取り出そう」(下掲書, p.198)と試みるとともに、「出来事としての神歌を考察の対象とし」(同上)ている
内田順子『宮古島狩俣の神歌 その継承と創成』
に注目する。(神歌のテキストの資料としてではなく、神歌を中心とした儀礼の遂行プロセスに全般に関する資料と捉える。)更に、
真下厚『声の神話』の狩俣関連部分
居駒永幸『歌の原初へ』
奥濱幸子『祖神物語』
比嘉康雄『神々の古層③遊行する祖霊神 ウヤガン〔宮古島〕』
もろさわようこ「太古の系譜」(『上井幸子写真集 太古の系譜』所収)
も適宜参照する。いずれも事実に関する資料としてだけではなく、聞き取り調査の結果得られた、祭祀に参加する当事者の儀礼における心的姿勢に関する資料として捉える。
謝辞
本論の成立の背景、構想、経過については上に述べた通りです。それ故、まず最初に、本稿の最初の着想を思いついた時に相談にのって頂き、藤井貞和先生と本稿に関連するやりとりをメールでさせて頂くきっかけを作って下さった三輪眞弘さんに御礼申し上げなくてはならないと感じます。
そして勿論、「古代」村落の想像的根拠としての宮古島狩俣から「極東の架空の島」としての「狩俣島」へという本稿の構想が藤井貞和先生の著作と三輪眞弘さんの活動に導かれているが故に、更には本稿の執筆の経過を見守って下さったことに対して、藤井貞和先生と三輪眞弘さんに御礼を申し上げます。その一方で、お二人の巨大な成果に比べた時、本稿がそれに対する応答とするにはあまりにささやかで取るに足らないものであることについては唯々お詫びする他ありません。折しも、本編執筆から公開までの間に、本稿を書き始めるきっかけとなった藤井先生の著作『<うた>起源考』(青土社)の毎日出版文化賞受賞の報せに接しました。本稿公開が、ささやかながら受賞のお祝いとなったことを大変嬉しく思います。
更に本稿のための調査や執筆の期間は、京都大学人文研究所による「「システム内存在としての世界」についてのアートを媒介とする文理融合的研究」(通称「三輪プロジェクト」)と並行しています。本稿の内容は、本ブログに別途公開している研究会での発表内容やイベントの記録と直接関わる訳ではありませんが、もしそれらと本稿の両方をお読み頂いた方がおられるならば、その方にとっては明らかであるように、両者は密接な関係を持っており、本稿がいわば対位法における対旋律をなすものであることは明らかです。研究会をオーガナイズされている岡田暁生先生を始めとする研究会の先生方に対して、そもそも私のような門外漢を寛容にも受け入れて下さっていることと併せ、この場を借りて御礼申し上げます。研究会でもご一緒させて頂き、本稿に関してはβ版をお読み頂いた後で興味深いコメントをお送り頂いた松井茂先生には、三輪眞弘さんの活動に対する私の反応を「三輪学」と命名して頂きましたが、本稿はまさに「三輪学」の成果の一つであると認識しており、それ故私個人としては、もしご承認いただけるのであれば広い意味での研究会の成果に加えて頂くのが適切であると考えています。
なお当然のことながら、上に記載したような諸先生方から刺激を頂かなければ成立しなかったものであるとはいえ、本稿の内容に誤りがある場合には、それは全て執筆者である私に帰するものであることを付け加えさせて頂きます。
参照文献
本文中で参照・引用した文献に限定し、再録文献からの引用を行った場合については、わかる範囲で論文の初出も掲げた。
『南島歌謡大成III宮古篇』, 角川書店, 1978
『日本民謡大観(沖縄・奄美)』宮古諸島篇(日本放送出版協会、1990)
狩俣康子「神事に関わる歌」(『日本民謡大観(沖縄・奄美)』宮古諸島篇(日本放送出版協会, 1990, 所収)
CD『沖縄の古謡 宮古諸島編』上巻(沖縄県文化振興会, 2012)
新里幸昭『宮古の歌謡』, 沖縄タイムズ社, 2003
内田順子『宮古島狩俣の神歌 その継承と創成』, 思文閣出版, 2000
真下厚『声の神話』, 瑞木書房, 2003
居駒永幸『歌の原初へ』, おうふう, 2014
奥濱幸子『祖神物語 琉球弧 宮古島 狩俣 魂の世界』, 出版舎Mugen, 2016
奥濱幸子「琉球弧宮古諸島に視る古層の環世界」, 宮古島市総合博物館紀要, 2012
上地太郎『狩俣民俗史』私家版, 出版年不明
狩俣吉正『沖縄・宮古島狩俣民俗誌』, メディア・エクスプレス, 2011
砂川明芳『宮古島郷土史考』, 私家版, 1976
琉球大学民俗研究クラブ『沖縄民俗』第12号 狩俣・熱田部落調査発表, 1966
「狩俣村落における村落構造と変遷」(沖縄大学沖縄学生文化協会『郷土』第9号 宮古 狩俣部落調査報告, 1970 所収)
もろさわようこ「太古の系譜」(『上井幸子写真集 太古の系譜』, 六花出版, 2018,所収)
比嘉康雄『神々の古層③遊行する祖霊神 ウヤガン〔宮古島〕』, ニライ社, 1991
田村浩『琉球共産村落之研究』, 岡書院, 1927
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稲村賢敷『琉球諸島における倭寇史跡の研究』, 吉川弘文館, 1957
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本永清「神話・儀礼・神歌」(古橋信孝・三浦佑之・森朝男編『古代文学講座3都と村』, 勉誠社, 1994 所収)
野口武徳「宮古島北部の社会と儀礼」(東京都立大学南西諸島研究委員会編『沖縄の社会と宗教』, 平凡社,1965所収)
長濱幸男「宮古島の牧と沖縄北部のマキ」, 宮古島市総合博物館紀要, 2019
岡村恵昭『宮古島の信仰と祭祀』, 第一書房, 2011
岡村恵昭「資料紹介:『島尻吉之助ノート』より―狩俣部落のあゆみ・野田部落移住についての思いで― ノート原題「部落のあゆみ・明治以降」」, 宮古島市総合博物館紀要, 1996
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藤井貞和『古日本文学発生論』思潮社, 1976, 増補新装版, 思潮社,1992
藤井貞和『「おもいまつがね」は歌う歌か―古日本文学発生論・続―』, 新典社, 1990(藤井貞和『甦る詩学 「古日本文学発生論」続・南島集成』, まろうど社,2007 に再録)
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谷川健一『南島文学発生論』, 思潮社, 1991
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レヴィ=ストロース「双分組織は実在するか」(邦訳:荒川幾男・生松敬三・川田順造・佐々木明・田島節夫訳,『構造人類学』,みすず書房,1972 所収)
ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』(邦訳:柴田裕之訳, 紀伊國屋書店, 2005)
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オリヴァー・サックス『火星の人類学者』(邦訳:吉田利子訳, 早川書房, 1997)
フラー・トリー『神は、脳がつくった』(邦訳:寺町朋子訳, ダイヤモンド社, 2018)
スティーブン・ミズン『心の先史時代』(邦訳:松浦俊輔・牧野美佐緒訳, 青土社, 1998)
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日本臨床心理学会(編)『幻聴の世界 ヒヤリング・ヴォイシズ』, 中央法規, 2010
兼本浩祐『なぜ私は一続きの私であるのか』, 講談社選書メチエ, 2018
道元『正法眼蔵』(水野弥穂子校注, 岩波文庫, 全4冊, 1990,1990,1992,1993)
エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』(邦訳:熊野純彦訳, 岩波文庫 全二冊, 2005)
エマニュエル・レヴィナス『実存から実存者へ』(邦訳:西谷修訳, 朝日出版社, 1987)
エマニュエル・レヴィナス「時間と他なるもの」(合田正人編訳『レヴィナス・コレクション』, ちくま学芸文庫, 1999,所収)
ハーバート・A・サイモン『システムの科学』第3版(邦訳:稲葉元吉・吉原英樹訳, パーソナルメディア,1987)
芋阪直行、越野英哉『社会脳ネットワーク入門』, 新曜社, 2018
デイヴィッド・ドイッチュ『無限の始まり』(邦訳:熊谷玲美・田沢恭子・松井信彦訳, インターシフト, 2013)
ジョセフ・ヘンリック『文化がヒトを進化させた』(邦訳:今西康子訳, 白揚社, 2019)
アンディ・クラーク『生まれながらのサイボーグ』(邦訳:呉羽真琴・久木田水生・西尾香苗訳, 春秋社,2015)
ベルナール・スティグレール『技術と時間1 エピメテウスの過失』『技術と時間2 方向喪失-ディスオリエンテーション』『技術と時間 3: 映画の時間と〈難 ― 存在〉の問題』(邦訳: 石田英敬監修・西兼志訳, 法政大学出版局, 2009 2010 2013)
レイ・カーツワイル『ポスト・ヒューマン誕生』(邦訳:井上健監訳・小野木明恵・野中香方子・福田実訳, 日本放送出版協会, 2007)
久保田晃弘『遥かなる他者のためのデザイン』, ピー・エヌ・エヌ新社, 2017
内井惣七『ライプニッツの情報物理学』, 中央公論新社, 2016
谷淳「力学系に基づく構成論的な認知の理解」(土井利忠・藤田雅博・下村秀樹(編)『脳・身体性・ロボット 知能の創発をめざして』, シュプリンガー・ジャパン, 2005, 所収)
嶋津好生「ロボットが神々の声を聴くとき」, 九州産業大学工学部研究報告, 2006
柴田南雄『音楽の骸骨のはなし』,音楽之友社, 1978
三輪眞弘『三輪眞弘音楽藝術 全思考1998-2010』, アルテスパブリッシング, 2010
三輪眞弘『ピアノとチェロ(あるいはコントラバス)のための、極東の架空の島の唄I』, マザーアース, 1991
三輪眞弘『フルートとピアノのための、極東の架空の島の唄II』, マザーアース, 1991
三輪眞弘『オーケストラのための、村松ギヤ・エンジンによるボレロ』, マザーアース, 2003
三輪眞弘『逆シミュレーション音楽 またりさま 完全版』, マザーアース, 2005
三輪眞弘『弦楽六重奏のための、369ハルモニアII』, マザーアース, 2006
三輪眞弘『2人の詠人、10人の桁人と音楽を奏でる傍観者達のための59049年カウンター』, マザーアース, 2014
三輪眞弘『万葉集の一節を主題とする変奏曲または“海ゆかば”』, マザーアース, 2015
「「いま」を考えるトークシリーズ:AI(人工知能)と音楽の未来」(抄録は『ASSEMBLY 02 特集:集まりの現在』, ロームシアター京都, 2018所収)
山崎与次兵衛「人工知能と音楽の未来・梗概と補遺」
山崎与次兵衛『狩俣村年代記 ver.1.10 2019.8.11版』, 未公開(参考資料として、以下から取得可能 https://drive.google.com/file/d/1MSxVcH57m8fOd2Zg2MPK4A7r2fzYQYXz/view?usp=sharing)
山崎与次兵衛『「狩俣村年代記」説明 2019.8.11版』, 未公開(参考資料として、以下から取得可能 https://drive.google.com/file/d/1zdF7lBLNfwfPH1viN3DG8IucfbNWFRb4/view?usp=sharing)