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「古代」村落の想像的根拠から「極東の架空の島」へ:第2章:双分観と三分観


1. 狩俣における双分構造の複合と重層の様相

以下、双分観に関して、双分構造の複合と重層の様相を把握しつつ、それと三分観の関わりを描き出すことを試みる。

まずは東西の方位観について、8月15日の十五夜の綱引きを手掛かりに見ていくことにする。

「東は雄綱で西は雌綱であり、(…)西が勝ったら豊作、東が勝つと凶作になると言われたが、東はそれでも一生懸命引いたという。(…)さて勝負がつくと(西が多く勝ったといわれる)(…)」

(琉球大学民俗研究クラブ『沖縄民俗』第12号 狩俣・熱田部落調査発表, 年中行事のうち8月15日の十五夜(綱引き), p.83)

当然のこととして、南西諸島に共通する、男(ビキリ)/女(ブナリ)の双分観をまず見ることができる。ここでは西がブナリであり、ブナリが勝つと豊作で、他の地域の綱引きでしばしば見られるように、綱引きの結果が非対称の場合には、実質的には正の価値の項が明示的・暗示的かを問わず、勝負において優位に立つ事も共通している。

ところで、狩俣の村落形成過程や、祭祀組織の形成過程を考慮に入れると、方位に関する双分観について、以下のように対応付けることが可能である。(以下は第1年度の調査結果に基づく。詳細は別紙参考資料『狩俣村年代記 ver.1.10 2019.8.11版』及び『「狩俣村年代記」説明 ver.1.10 2019.8.11版』を参照。なお、検討にあたって確認が必要な場合には、本論中において、適宜典拠となる資料を参照・引用することにする。)

  • 第1段階:根井間村(西:ビキリ=男神)/狩俣村(東:ブナリ=女神)

  • 第2段階:村落の原住民(西:ブナリ):仲間+大城元/新たに移住した職能集団(東:ブナリ):志立(=後(尻)立:後から成立:西:ビキリ=男神)+仲嶺元(東:ブナリ=女神)

非対称な価値を持つ双分観は明らかだが、第1段階での方位と性差の対応が逆転している点が注目される。大城元の祭神はアサティダ・ウマティダの夫婦神だが、神話の中で娘神ヤマヌフシライとともに降臨するのは母神ウマティダであり、アサティダの方は遅れて登場する蛇神なのに対して、仲間元の祭神はリュウグウヌス、即ち竜神・海神であるから、実はリュウグウヌスそのものであるという解釈も成り立ちうることを考えると、西がビキリ、東がブナリとなると考えられる。一方で、志立元に関しては、兄妹神の神話があるが、祭神ユーヌヌスは兄妹神のうちの兄の穀物神であり、仲嶺元は兄妹神の子守であるウンツカサという女神であるが、これは水神(井戸の神)である。従って第2段階で追加された(注:志立とは、後立、つまり後から追加されたということを意味している)構成要素である東側の項の内部構造を為す、志立元・仲嶺元についても、第1段階と同じ方位と性差の対応の逆転が見られることになる。

  • 志立(西:ビキリ=男神)/仲嶺元(東:ブナリ=女神)

従って、綱引きにおける雄綱・雌綱の性差と方角との対応は、第2段階に対応するものと考えるべきだろう。一方、祭祀集団としての各元の祭祀を行う場所である元屋の位置関係は、以下の通り、まさに第1段階と第2段階を複合した結果として把握することが可能である。

  • 西:仲間元(根井間村)>中央:大城元(狩俣村)>東:志立元>東南(東の門):仲嶺元

(ただし、双分観的な方位観念という点では共通でも、東西への価値配分や他の双分的特性との対応については、地域毎に異なっており、それぞれ各地域における構造に即して解釈されるべきであることに留意すべきである。ここではビキリ>ブナリの価値に関する対称性は琉球文化においてある程度の普遍性を持つが、西の東に対する優位は「自明の前提」では全くない。)

尚、一旦は途絶えて、その後復興して今日実施される狩俣の綱引きにおいては、東西の方位と綱引きの勝利との対応関係は上記の半世紀前のフィールドでの調査結果とは異なる。例えば『宮古島・狩俣民俗誌』での狩俣吉正の記述では以下の通りとなる。

「(…)東が雄綱、西が雌綱で、東勝利は豊作、西勝利は豊漁とされている。」

(狩俣吉正『宮古島・狩俣民俗誌』p.310)

ビキリ/ブナリの性差の配分は変化していないが、勝利に紐付く意味が変容しており、変容後の意味が第2段階の双分構造と関係があることに気づかされる。即ち第2段階の西側に属する仲間元の祭神はリュウグウヌス、即ち海神であり、東側に属する志立元の祭神はユーヌヌスとい穀物神なのである。従って、西の勝利が豊漁、東の勝利が豊作というのは恣意的なものではなく、綱引きとは逆に近年継承が途絶えつつあり、規模を縮小した再開が試みられていると聞く村落の祭祀に関係する神話体系の裏付けを持っているのだ。

2.単独の村落/複数の村落からなる文化圏:内部に孕まれた共時的な差異と通時的な遅延

ところでこれに関して興味深いのは、狩俣の村落内部の上記の整ったシステムに対して、大神・島尻・狩俣という祖神祭が実施される村落で構成される村落群を仮に「狩俣圏」と呼ぶことにしたとき、「狩俣圏」を構成する村落間には以下のような対応があるということだ。

  • 親(=ブナリ):大神/(娘=ブナリ:島尻/息子=ビキリ:狩俣)

これは例えば、以下のような文献で確認できることである。

「ウヤガン祭祀は、旧暦6月から10月に大神島でまずおこなわれ、旧暦10月から12月に島尻・狩俣でおこなわれる。大神島は両集落の離島で、島尻はその娘、狩俣はその息子の間柄であるからだと伝えられている。」

(もろさわようこ「太古の系譜」,『上井幸子写真集 太古の系譜』所収, p.210)

そして上記の伝承は以下のように「狩俣圏」共通の、各村落の神体系からするとメタレベルに位置づけられる神体系に(部分的ではあるが)対応するとの指摘が後続の箇所でなされている。

「伝承によると大神島の始祖神はメガアルズとよばれる女神であり、島尻の始祖神マヒトマツカサはメガアルズの娘とあり、狩俣の始祖神もマツメガと呼ばれる女神である。」

(同上, p.213)

この入れ子構造と方位観の関係については、狩俣の祖神祭については比嘉康雄の『神々の古層③遊行する祖霊神 ウヤガン〔宮古島〕』に、狩俣では5回に分けて行われる祖神祭の第1回目ジーブバナウヤガンの中核をなす、カンミケーイ(神迎え)行事の説明として、一部はもろさわの証言と重なる、以下のような興味深い証言がある。

「(…)狩俣は大神島の息子に当ると考えられ、島尻は娘と言われている。ウヤガン祭祀も、まず親と考えらえている大神島でおこなわれ、その後を受けて島尻、狩俣でおこなわれることになっている。このカンミケーイは大神島の神と狩俣の神を迎えるといわれていて、大神島の神は天から、狩俣の神は南の海の方から来るという。この場面を直接見ることができないので推定の域を出ないが、これは狩俣の始祖たち(始源の神)の源流を示しているとも考えられる。つまり大神島から狩俣へ、南方の海の彼方から狩俣へという二つのルートである。」

(比嘉康雄『神々の古層③遊行する祖霊神 ウヤガン〔宮古島〕』, p.77)

なお比嘉の証言における大神島から狩俣へ、南方の海の彼方から狩俣へという二つのルートは、一見すると本永の三分観の例外に見えるかも知れないが、後述のように、狩俣村落内の第2段階の村落の原住民:仲間+大城元/新たに移住した職能集団:志立(=後(尻)立)+仲嶺元の対立に関わるという点でも注目されるが、ここでは大神と狩俣の間の双分的対立という観点で捉えておきたい。

一方島尻の祖神祭については同等の情報はないが、ここでは大神・島尻と狩俣自体の関係についての狩俣の認識を記述することとすると、

  • 第1段階:北=親:大神島/南=子:本島北辺(狩俣・島尻)

  • 第2段階:西=男:狩俣/東=女:島尻

ということになり、狩俣の内部での第2段階と比較すると、東西と男女の対応が逆転していることがわかる。一見するとこれは、方位観に関して体系が矛盾を内包しているように見えるが、この矛盾をどのように扱うか検討が必要だろう。更に、これが東西の方位観の価値づけの例外なのか、男女の性差に関する双分観における価値づけの例外なのかについても検討の余地がある。だが、狩俣の始祖神の大神の始祖神および島尻の始祖神に対する親族関係が上記の記述で曖昧にされている理由がまさにその矛盾にあって、狩俣の始祖神が女神であるにも関わらず、「狩俣圏」においては「息子」の位置づけであるという、構造的に2つの階層の間に存在する逆転のために生じている捩れの結果、同列に並べた記述を行った時にどこかに曖昧さを持たせることによって矛盾を見えなくしているのではないかと推測される。

ところでこの点で興味深いのが波照間島の御嶽の組織体系における方位観に関して、似たような矛盾が指摘されていることで、やはりそこでも重層的なシステムにおいて、ビキリ/ブナリの価値が逆転しているように見えるということをアウエハントが指摘している(アウエハント『HATERUMA』, 第5章 宗教的関係 1.御嶽の組織体系, p.213以降)。比較対照して検討することで、双方に対する理解が深まる可能性があるように思われるが、それは後日の課題として、ここではその点について、狩俣・島尻・大神という「狩俣圏」の構成要素間のコミュニケーションという観点で検討してみる。

狩俣を中心に見た時、大神との関係については、上述の通りの祭祀上の関係以外にも、例えば、仲松弥秀「宮古諸島の地理」の4.村落の立地の種類 (3)古代性の濃い狩俣村落の中で、「海の向こうに大神島が望まれ、こゝ狩俣から小舟連絡がなされている。」(『宮古諸島学術調査報告書 地理・民俗編』所収, p.23))というような記述がある一方で、島尻との関係は確認できず、島尻の方でも、これまた上述の祭祀上の関係の証言以外にも、同じく仲松弥秀の上で参照した文献に「島尻村落も同様であるが、三年毎に大神島を拝しに行くとのことである。」(同書, p.23)とあるように、大神との関わりに対する言及はあっても、狩俣との関係は確認できない。そればかりか、既に1920年代に田村が以下のように報告している点は、村落形成過程における狩俣・島尻の(無)関係を証言するものとして注目されるべきように思われる。

「(…)狩俣ノ住民ノ門中ハ土着門中ニシテ島尻部落トハ血族ノ関係ヲ有スルモノナク、旧来結婚ハ両者ノ間ニ行ハレズ。(…)」

(田村『琉球共産村落ノ研究』第2章 琉球共産村落発生 第4項 宮古ノ島尻及狩俣ノ山ゴモリ, p.137, なお引用にあたり舊字体を新字体を改めた。)

だがこれは、狩俣の村落の内部が、単一の血族の分家ではなく、複数の集団の複合体として四元によって構成されていることを思えば、そこからの延長線上にある「社会=個体の群れ」に対応する「ムラ=島の群れ」として捉えるべきなのだろうか?それとも構造的な対応は成り立たないのだろうか?更に「狩俣圏」とその外部を問うこともできるだろう。少なくとも言えることは、それぞれ独立したものと了解されている複数の集団が、同じ祖神祭とい祭祀を共有する村落圏を構成するに至ったということであり、このことは祖神の性格付けにとって基本的な意味を持つことになるということである。

また「狩俣圏」の内部でのシステムの様態は均一ではない。大神が最も古代的で完全な双分制なのに対して、狩俣は双分制から中心への意識という推移が生じている。だが島尻はどうだろうか?そこに双分制から中心への意識という推移は認められるにしても、その動力学は狩俣とは異なっており、結果として成立した構造も異なれば、時期的な並行が見られるようには思えない。そしてそれは、狩俣がその起源において既に根井間村/狩俣村の双分制を内包していたのに対して、島尻がそうした対立を内包していなかったことが影響しているのではないか?

島尻の村落の内部構造および祭祀組織についての情報は限定されるが、例えば『平良市史 第7巻 資料編5(民俗・歌謡)』の第5章 信仰 第1節 拝所における島尻の記述によれば、

「(…)フツムトゥは元々から島尻に住んでいた人々であり、ウィキャームトゥは他から島尻に入ってきた人々の集団であるという。」

(『平良市史 第7巻 資料編5(民俗・歌謡)』, p.280)

となっており、非対称な双分制が窺えるものの、これは狩俣では第2段階:村落の原住民:仲間+大城元/新たに移住した職能集団:志立+仲嶺元のレベルに対応するものであって、第1段階の村落の起源自体の複合性とは区別されるべきであり、

  • 村落の原住民:フツムトゥ/新たに移住した集団:ウィキャームトゥ

と把握するのが妥当に思われるのである。更に島尻元島からの移動はずっと時代を下って昭和期になることが幾つかの文献で確認できる。例えば既に引いた仲松弥秀の「宮古諸島の地理」では、

「北東海岸沿いにあった村落のうち、旧共同体が崩れずに残っているものは島尻村落の共同体のみであろう。この村落は崖下の海沿いにある小さい分離地塊状的なウツマズマにあったのだが、しだいに崖上に移動し、元島に残っていたものは三年前は二戸、現在一戸のみとなっている。この元島(島は村落の意)をなしているウツマズマのお嶽は良く保存され、樹林におゝわれている。この村の祭祀に関しては今でも秘密をよく守っていて外部の者が窺い知ることは困難である。」

(仲松弥秀「宮古諸島の地理」,『宮古諸島学術調査報告書 地理・民俗編』, p.17~8)

とあり、論文執筆時点の昭和40年過ぎまで元島が居住地として用いられていたこと(その後は祭祀の場所となり、狩俣における元屋と同じ立場になる)がわかる。これは大神との比較は措いて(というのも大神の場合には島そのものが城壁の役割をするので、同列に論じることができないからでもあるが)、狩俣と島尻の村落の構造変容の違いを証言していて興味深い。というのも、狩俣の場合には、いわゆる元島からの移動が起きた後の時期に、改めて村落を取り囲む城壁と出入口となる石門がクバラパーズによって構築され、移動後も城塞集落であり続けたのに対し、島尻で今日石垣や石門が確認できるのは元島の周囲のみであり、元島の外の居住地の周囲に石垣が構築されることはなかったように見えるからである。まず島尻元島の石垣については、戦前の田村浩『琉球共産村落之研究』の記述から、その様子を窺うことができる。

「島尻ハ狩俣ノ東方半里ニ在ル宮古島ニ於ケル最モ旧キ部落ニシテ戸数八十二戸アリ、此ノ部落ノ北方ニ当リ地積一町歩半島状ヲ成セル丘陵アリ、名ヅケテ元島又ハ内島トイフ。此ノ元島ハ宮古住民最初ノ地ナリ現在ニ於テハ戸数六戸アルノミ。其ノ住民ヲ元島人ト称シ、其ノ世襲的家族ハ増加ニ伴ヒテ漸次元島ノ東南及ビ西南方ヘ発展シ島尻部落ヲ成セルモノト伝ヘラル、元島住民ハ総ベテ本来的地人ニシテ他ヨリ移住シタルモノナキヨリ見レバ太古に於ケル先住民族ノ子孫タルヤ疑ヒナキトコロナリ。元島門中ハ世襲的ニ他ニ移住シ能ハザルノ迷信アルヨリ見テ明ラカナリ。
最モ研究ヲ要スベク又興味アルハ元島ノ形態ナリトス。恰モ狩俣部落全部落ノ形態ト同ジク、四囲ハ石垣ヲ以ツテシ入ルニ一ヶ所ノ門アリ、元島住民ハ総ベテ此ノ門カラ通用ス、其ノ東方ニ一ツノ門アリ、共に古代元島防衛ノ為ニ築キタルモノニシテ後方門ノ附近ニハ「弓使所」」トイウアリ。(…)」

(田村浩『琉球共産村落之研究』, p.134~5、引用にあたり舊字体を新字体に改めた。)

この記述を見る限り、狩俣の村落全体が島尻では元島に相当するようにも思われる。「弓使所」の記述は狩俣の東門に男神が拠って弓を取り、外敵を追い帰し、海の彼方から来る疫病も門で防いだという神歌を思わせなくもない。しかし一方で、後ほど検討するように狩俣では禁じられていた城壁外への居住が島尻においては行われその結果として島尻の現在の村落が形成されたとする点を見逃すべきではないし、その一方で元島が放棄されることもなく、居住地としても利用され続けてきたという点も、狩俣との違いとして見逃すべきではなかろう。この点については後ほど、狩俣における城壁について取り上げる際に、もう一度立ち戻ることにして、ここではそうした村落の構造変容、元島からの移動時期の違いが、祭祀の構造やその中断・終焉の時期の違いと並行関係にあるのかどうかという点に注目したい。田村が島尻の古代性を主張するのに元島への居住をその論拠としている点、仲松が上記引用箇所において同様に、島尻に関して「旧共同体が崩れずに残っているものは島尻村落の共同体のみ」として、その古代性を指摘しつつ、同時に「この村の祭祀に関しては今でも秘密をよく守っていて外部の者が窺い知ることは困難である」と述べていたことに注目したいのである。仲松は上で参照した論文の後続の箇所で狩俣をして「古代性の濃い狩俣村落」と規定するが、ここで問題にしている「狩俣圏」の中では、逆に狩俣が最も変化した形態であり、島尻や大神の方がより古代的であるという見方さえ成り立ちうるのではなかろうか。

狩俣では既に1990年代に祭祀が中断している(実際にはその後部分的な再開と再度の中断を繰り返して今日に至っているようである)が、島尻における祭祀の中断は21世紀になってからであり、大神は外部から閉ざされたまま現在もなお祭祀が継続されている。しかし、大神についても、近年は観光客の流入が増大している他、集落の習俗について記録した書籍を住民自らが刊行する(大神村自治会『ウプシ 大神島生活誌』, 2007)などの動きがあり、それが結果的に祭祀の存続とどのような関わりを見せていくかについては予断を許さないものがあると考える。言うまでもなく、自治会組織が自己を語る書籍を刊行することは、高度に自己言及的な歴史的な自伝的自己意識の産物に他ならず、意図するしないに関わらず、そうした文字記録が外部化されて保存されることによって、確実にシステムの構造は変容していくと考えられるべきだからである。また島尻においても、祖神祭は断絶しているものの、男役中心の祭祀であり、祭祀の性質から神歌の継承といった側面があまりなく、秘儀性の程度の低い―それ故、外部との摩擦が生じることがしばしば報告されている―パーントゥプナハは存続している点なども比較検討の対象とすべきであろうが、ここではその指摘に留める。

3.双分観から三分観への移行と通時的な動的プロセスとの関係

上の事例が示唆するように、双分観から三分観への構造的な移行が、通時的な村落形成・構造変化に関する動的なプロセスに関係していると考えられるが、この点については、レヴィ=ストロースの「双分組織は実在するか」の以下の指摘を参照すべきであろう。

「しめくくりとして最後に一言。私がこの論文で明らかにしようとしてきたのは、いわゆる双分組織の研究は現行の理論に照らすときわめて多くの破綻と矛盾を明らかにしているから、われわれはこの理論を放棄して双分制の明白な諸形態を、その真の本性は、別のはるかに複雑な構造が表面的にゆがんであらわれたものとして扱った方がよいのではないかということであった。けれども、これら破格の諸点も双分制の理論の創始者たち―リヴァースとその学派のことだが―が気づかずにいたわけではなかった。彼らがそれにわずらわされなかったのは、双分組織(まさにこれらの破格の諸点を基礎にして)というものを、人種、文化、あるいは単に勢力を異にする二つの種族の統治の歴史的な所産と考えていたからである。このような考え方では、当の社会構造は双分制であると同時に不均斉であったかまいわないし、さらにはそうあるべきなのである。」

(レヴィ=ストロース『構造人類学』, pp.176-7)

上記を踏まえて今一度、本永の「三分観」のスキームを確認すると、三分観が成立した後では、

  • 北:聖なる丘陵 ⇒ 中心:ミヤーク ⇒ 南:バイヌスマ

という構造となっているが、その一方で「ミヤーク」の北側の「聖なる丘陵」についての記述には

「この丘陵全体は、かずらや大木が生い茂り、その内部は昼でもうす暗い感じだが、ここには十数ヶ所の拝所、聖所がある。ここで、その主なものを東側から順に記せば、スサスグ、(…)その他である。スサスグは、狩俣の北海上に浮かぶ大神島からの神々が辿り着く場所であると信じられている。」

本永清「三分観の一考察」

とあって聖なる丘陵においては大神島からの神々の到来する場は、その東側であることがわかる。そしてこれは、後続の論文第3節において紹介される村落の創始神話で神々が飲み水を確保するために泉を探して、西へ西へと移動する巡行の経路と対応していることがわかる。そしてここでは、神々は大神島からではなく、天(テンヤ・ウイヤ)から地(ナカズマ)であるミヤークに到着するのである。ここから言いうることは、狩俣村落内での西優位の双分構造は、人間の世界であるナカズマ=ミヤークたる村落内部でのそれであり、本永の三分観に先行する(つまり前提となる)双分構造は、狩俣圏の三村落間に存在する双分構造の第2段階に相当するということである。つまり双分構造の重層にあって、方位観は大域的なものではなく、各層毎にその内部で閉じており、内部の構造が決定するものであるということであろうか。

傍証として、奥濱幸子は『祖神物語』の第一章第六節「狩俣集落の領域認知に見る「ニィスとニシィ」」において、

「狩俣での聞き取りの中で、「狩俣では大神島が北(きた)だ」、「大神島の方を北(にぃす)とは言わず、上辺(うぃなぎ)」と言う」、「狩俣ではニィスは北のことだ」「ニィスヌヤマはニィスにあるから「北の山(ニィスヌヤマ)」だ」という言葉があった。」

(奥濱幸子『祖神物語』第一章第六節,p.42)

と述べていることに注目してみよう。上記の言葉のうち、一つ目と二つ目は、一見したところ矛盾した言明にも取れなくもない。実際ここで奥濱がその後敷衍していくのは、北(きた)/ニィスの区別ではなく、西(ニスィ)/北(ニィス)の区別なので、読み手は混乱に巻き込まれるが、しばらくして、「伊良部島字伊良部では方位を面で捉えており、現在でも北のことを上(うぃ)と言う。「北はどっち?」と尋ねると、方角を指差して方位を直線で示すのではなく、身体を北に向けて両手を左右に広げ、「ここからあっち側がウイ」と言い、身体の前面の側を示してくれた。狩俣で言う上辺(うぃなぎ)は年配の集落人が言う北の領域に当たる。」という記述にぶつかって、実は、節のタイトルにも関わらず、そして奥濱自体の、ニィスが北であって西ではないということを強調する意図にも関わらず、自分の身体から北側の領域としてのウィと、方角としての北のニィスの区別が存在して、本永の三分観でのそれは寧ろ前者(ウィ)であるらしいということに思い当たることになる。

そこで順序は逆になるが、少し前に戻って、奥濱が集落の方位概念について記述した部分を見てみると、まず巨視的な領域の区分として4区分を認めるが、それぞれ住居があり、現在の集落の分会組織に対応する西辺領域/南辺領域/東辺領域に対して、上辺領域は集落の祭祀が行われる場として対立することになる。即ち、

  • 祭祀領域:上辺領域/居住領域:(西辺領域/南辺領域/東辺領域)

という双分構造を認めることができる。この点については考古学的調査に基づく村落の変遷過程の考察が、沖縄大学沖縄学生文化協会『郷土 第9号』宮古 狩俣部落調査報告中の論文「狩俣村落における村落構造と変遷」にて行われている。

「前掲、狩俣村落の地籍図から土地区画をみると、まずA区域に相当する拝所群附近は不井然ないわゆる自然的家屋配置をなし、とりわけ聖域となっている「神の森」附近と丘陵の東側がそれを如実に示している。次いで現村落の中心部にあたるB区域における土地区画は、井然とした碁盤型形態に近い状態を呈し、さらに石垣線外側にあたるC区域に下るとまたもとの不井然な土地区画の様相をみせている。よって上述の遺物による比較や土地区画の状態から、仲松弥秀氏が「宮古の地理」で狩俣村落について「(前略)村落は丘陵麓が特に古いと思われ、西北の部分を根間、南東の部分を狩俣と称していたと言う。その双方から次第に下の低地に拡大されたもののようである。(後略)」と述べているように、現在の狩俣村落の前身は、かって丘陵麓の西側(神の森附近)と東側にあった2つの集団であり、それらは最初土地区画に関係なく人口の増加や生産力の増大などの理由で順次下方へ放射線状に広がっていったが、石垣線附近まで広がった時点において、何らかの大規模な土地区画の規制を受けたことが推察できる。」

(「狩俣村落における村落構造と変遷」,3.結びにかえて, 2)村落の土地区画,『郷土 第9号』宮古 狩俣部落調査報告所収, p.229)

そして更にこのうち上辺領域についてだけ、再帰的に区域が埋め込まれており、その区分は、北の山/北辺/上辺となっているが、ここでも同様に、区域は対称に三分されていると見るべきではなく、寧ろ、それ自体2つの双分構造の複合と見るべきであろう。即ち、

  • 北の山/(北辺(根井間村=仲間元)/上辺(狩俣村=大城元))

という入れ子構造を想定すべきだろう。言うまでもなく、北の山を一方の項とするレベルが先行しており、森に住んだ神が、森から里に降りて村を立てたという出来事に対応し、境界には「北門」があって、北門から入る内部となる「北の山」が御嶽、即ち神域であることを示している。なお、狩俣の祭祀に関わる場所の名前は非常に複雑な様相を呈しているが、狩俣において「御嶽」と呼ばれる神域は「北の山」にしかないことには留意すべきであろう。一方で、北門の外部となる領域には狩俣村落の第1段階の双分構造における根井間村(西=ビキリ)/狩俣村(東=ブナリ)に対応する北辺/上辺の双分構造が存在するのである。

更に上記の構造について注目されるのは、村落内双分構造の第2段階である四元のシステムの左辺側、つまり、第1段階の双分構造である、旧根井間村=仲間元と旧狩俣村=大城元の、祭祀組織上の価値づけにおいて、東側にある大城元の方が優位であることだ。つまり四元は線形順序の序列を有していて、

  • 大城元>仲間元>志立元>仲嶺元

という序列なのだが、大城元と仲間元の序列関係に関して、方位における東西の序列関係とは一見逆転しているように見える点が一見したところ矛盾に見えるということである。だがこれは、最初に述べたように価値的な序列が、方位観よりも性差の双分構造に根差しているが故と考えることができる。そしてこれは、「狩俣圏」において、母なる大神島に対する子供たる「(宮古島)本土(=ミヤーク」」としての島尻・狩俣の両村落の位置関係と性差の配分と性格に対応しているのである。(東にある島尻が娘(ブナリ)で西にある狩俣が息子(ビキリ))

以上、ここまでの様々な双分構造の複合と、それぞれに価値の非対称性を見て来たが、これらを整理してまとめると、構造は錯綜としてはいるものの、以下の表から読み取れるように、逆転の発生の仕方について組み合わせ論的な美しい対称構造があることが見えてくる。

図1:「狩俣圏」の構造、本永の三分観、狩俣村落の構造の対応関係

つまり、一見したところ自己矛盾しているかに見える、方位観と性差の対応や祭祀における序列との対応を見ると、まず気付くこととして、(1)再帰的な入れ子構造になっている上下の層の間で、規則的に対応づけの逆転が起きているのだが、それが体系的な秩序を形成するプロセスを物語っているように思われる。次いで本題であった本永の三分観について触れるならば、それは(1)で述べた双分的な下位のシステムと上位のシステムを繋ぐ結節点で起きている逆転を、事後的に上から眺めた時に浮かび上がるものではないかという仮説が導けるように思われる。

※このような逆転に関連して、一見したところ奇妙に見える事実を一点指摘しておきたい。それは「北の山」、即ち神の領域にある「御嶽」の名称と、各御嶽を管轄する元との対応関係についてである。ここでは奥濱の記述を引用する。(奥濱, p.92)

  1. 北の山の東側の東御嶽(祖神祭の祭場の一つ)       大城元と志立元が管轄

  2. 北の山の北側の北御嶽(仲嶺元の女神:ウンツカサを祀る) 仲嶺元が管轄

  3. 磯津御嶽(仲間元の竜宮神:マンツザー)         仲間元が管轄

各御嶽の持つ機能と管轄の間の対応は問題ない。強いて言えば、祖神祭の祭場たる東御嶽の管轄が、大城元と志立元であり、序列では1番目と3番目の元の管轄であること、つまり仲間元が排除されているように見える点が目を引くが、これは仲間元が旧根井間村由来であり、狩俣村に併合された結果、狩俣村の大城元に対して劣位であるのに対して、志立元は後から狩俣村に加わった集団の中では仲嶺元に対して優位にあり、つまるところ第2段階の双分システムの両辺の中でより序列において優位な元が、いわば共同で祖神祭を司っていると考えればいいのだろう。一方で、性差の双分制の関連から見ると、ブナリ(女神)である太陽神ンマデダを抱く大城元に対してビキリ(男神)として第1段階では仲間元の竜神がペアを形成していた(村の創始神話上、大蛇として形象されるアサデダが投影されていると考えてよいだろう)のに対して、第2段階において後から村落に併合された集団である志立元の穀物神ユーヌヌス(男神)が、第1段階で仲間元が占めていた構造上の位置を占めるようになったと見ることができよう。即ち、元の序列の線形順序としては、第1段階>第2段階という歴史的な順序関係が反映された結果、仲間元は志立元よりも優越した位置を占めているものの、現実の祭祀の現場では、仲間元を志立元が追い出して、大城元とのペアの地位を占めるようになったという消息を、①の東御嶽が証言しているというように解釈できるだろう。御嶽の名前に「東」の方位が含まれることも、志立元が優位を占めるようになった経緯を物語っていると考えられる。当然のことながら、この管轄が確立したのは、志立元・仲嶺元の確立後であるが、現在の管轄は、そうした村落の統合の歴史のより新しい段階における祭祀体制を反映したものと考えれば良いのではなかろうか。

だがそれ以上に奇妙なのは、その御嶽が方位として「東」に位置づけられていることだろう。それは方位的に神聖な筈の「北」に位置づけられる北御嶽を最も序列が低く、かつ元屋の所在については、北辺領域でさえない、東門のすぐ隣にある仲嶺元が管轄していることと関係づけた時、一層明確になる。他の双分体系を考慮すれば、寧ろ名前が逆であれば何ら問題がないと思える程である。これをどう解釈すべきかについて、現時点では答えを持ち合わせていないが、恐らくは、通時的な村落の統廃合の歴史を反映したプロセスで起きた逆転現象の名残の一つと考えるのが妥当であるように思われる。更に踏み込んで言えば、安定して均衡状態に到達した社会における静的な双分制というものを仮定するならば、そこではこのような矛盾や動的なプロセスにおける逆転現象は発生しえないことになるだろう。だが現実には、ある時点以降、そのような静的に安定した均衡状態に到達した「化石」のような村落の場合でも、過去には動的な変容に晒された歴史的来歴を保持しており、それに応じた分だけ体系は重層化し、歪みや矛盾が残存することになる。本永が指摘する三分観というのは、そうした重層的な体系を、事後的に俯瞰して、平面に射影した場合に浮かび上がるものではないかというのが、ここでの仮説であり、それはまさにレヴィ=ストロースが「双分組織は実在するか」で結論において示唆した主張を支持するものと考える。双分組織も現実のある切断面における抽象なら、三分観もまた、射影平面における抽象なのではないか、というのをここでのとりあえずの結論としたい。

そしてここで、「狩俣圏」にも、狩俣集落にも属さない、ニルヤ・カナヤの項を付加することは一見して恣意的に見えるかも知れない。しかしながらその点についても狩俣集落のそれ自体二重化された内部構造から派生したものと見ることが可能であることを、幾つかの文献における東門に関する伝承、或いは仲嶺元に関する情報から示すことができるのである。

まずは本永のニズヤ・カニヤに関する言及を確認しよう。

「(…)ナカズマは人間の住む世界であり、ニズヤ・カニヤは死霊の住む世界である。それならば、ナカズマの神とニズヤ・カニヤの神の結婚は不可能であるはずであり、もしできたとしてもそれはこわれる運命にある。(…)更に、ニズヤ・カニドヌが四つ足の動物の形をしていて、荒々しく、それ故に悪霊を退治する神であることは注意してよい。ニズヤ・カニヤが死霊の住む世界であり、穢れた場所であるとするならば、そこを代表する神も四つ足の動物によって象徴され、かつ悪霊を退治する役割を課せられてごく当然である。」

本永清「三分観の一考察」

そうだろうか?本永が表でニズヤ・カニヤに住む存在に与えている「生を奪う側」という規定は、悪霊のものなのか、ニズヤ・カニドヌ神のものなのか?死霊の世界の神が、悪霊を退治する神であることが「当然」であるならば、ニズヤ・カニヤの領域自体の内部に更に双分的な分割を認めなくてはならないことにはならないか?もし神話の世界が閉じているとするならば、悪霊はどこから訪れるのか?

ところでここで指摘したいのは、そうした体系的な破綻という論理的な観点ではなく、ニズヤ・カニドヌに関する別の伝承の存在についてである。ここではまず、『南島歌謡大成』宮古篇所収の狩俣の「仲嶺元の朔のニガリ」に登場する「ニッジャ金殿」に関しての、『南島文学発生論』における谷川健一の指摘を参照することにしよう。

「『南島歌謡大成』宮古篇(外間守善・新里幸昭編)の「ニガリ」の注に、ニッジャ金殿は「狩俣の東門に坐する家畜の神」と説明している。またその「補注」には「鉄塊を輸入しヘラ・カマなど農機具にかえて農業の基礎をきずいた神。別称鍛冶神がカニドウン(金殿)である。ニッジャ金殿、アロー金殿も同系の神である」と説明している。「ニガリ」の注にはニッジャ金殿は家畜の神とあり、「補注」には鍛冶神の系統とされている。そこには内容に混乱が見られるだけでなく、その記述全体がまちがっている。
 『古事記』によれば、スサノオは「妣の国、根の堅州国」にいきたいと泣きわめいたとある。根の堅州国はどんなところであろうか。「根」はニライカナイ(沖縄本島)、ニーラ(八重山)、ネリヤ(奄美)などのニまたはネと同じ意味と考えられる。すなわち根は万物の生命の根源をあらわしている。では「堅州」はどうか。宣長の『古事記伝』では地底の片隅のこととしているが、そうではあるまい。地底または海の彼方の堅い場所と解するのが自然である。刀剣を鍛えることが古語でキタスまたはカタスというが、それもこの言葉と関係があると思う。いずれにしても「根」は万物の生命の根源をあらわし、「堅州」は永久不滅の場所をあらわす。それが「根の堅州国」である。この「根」にあたる語がニッジャであり、また「堅州」にあたる語が金であると考えるならば、ニッジャ金殿は、堅固な根の国を支配する者という以外にはどのような解釈も成立たない。」

(谷川健一『南島文学発生論』,「青の島とあろう島」, p.420~421)

「刀剣を鍛えることが古語でキタスまたはカタスというが、それもこの言葉と関係がある」ならば、なぜ鍛冶神という解釈が当然のように排除され、このような断定が可能なのかを文章に記載された内容のみから判断するのは私には出来かねるが、それは措いて、この谷川の主張の興味深い点は、本永の三分観における、中心と対照を為す周縁たるニルヤ・カナヤとニズヤ・カニヤが実は同一のものである可能性があるという主張に繋がる可能性を持っているという点であろう。つまりここでは中心―周縁という非対称の双分構造の周縁たる海の彼方の根源的な領域が価値的に分極して、北と南、天と地下と別れて三分観が成り立ったという別の可能性を示唆していることになるからである。

だが、ここで谷川の所説を参照した目的は別にある。それは、オリジナルの双分形態が中心―周縁型なのか、価値的な非対称はあっても区域分割型なのかは措くとしても、恐らくは後から付加された要素である第3項が孕む、構造的な不安定性を傍証するためであった。

本永の所説では、四つ足の動物のような姿をしたニズヤ・カニドヌだが、まず谷川の言及する家畜神説に関しては、長濱幸男「宮古島の牧と沖縄北部のマキ」を参照することができるだろう。この説では、狩俣にクパラバアズが構築した城壁の構築の目的が牧畜であったという、かなり大胆な主張であるが、それを前提にニッジャ金殿を家畜の守護神と特性づけた上で以下のような解釈を提示している。

「(…)クパラパーズが狩俣で牛を飼っていたことは、うかがえるだろうか。まず、クバラパーズの構築した東門に、ニッジャ金殿という住民と家畜の守護神が祀られていることが、謎解きの糸口となる。部落周囲に石垣を築いたのはクバラパーズの実績とされているが、この石垣は外的からの防御するほどの強固なものではなく、牛が逃げ出さないような囲いではなかっただろうか。つまり石垣を張り巡らしたのは、牛を放牧するためであり、その牧の中に部落はあったと考えられる。」

(長濱幸男「宮古島の牧と沖縄北部のマキ」, p.49)

本永はと言えば、クパラパーズの構築した城壁について「ところで、このミヤークと呼称される場所は、ごく最近まで一定の範囲を占めていて、その四方周囲が小高い石垣で持って包囲されていた。村人の住むべき空間が定められていたのである。村人は、この空間から外へ出て住むことを禁じられ、その内部のみで、住居を構えて生活していた。」とし、続けて「この理由がいかなるものであったかは知る由もない」と述べた箇所の注記(巻末の注3)では、

「このことに関し、武力攻撃を防ぐためであったと言い伝えらているが肯定しがた」く、「そこに宗教的意味づけがあったと解している。」

本永清「三分観の一考察」

と記しているがその具体的な意味については記していない。仲嶺元の神歌に登場するニズヤ・カニドヌをこれも仲嶺元と関わりの深い東門と結びつけることもしておらず、その東門に男神が拠って弓を取り、外敵を追い帰し、海の彼方から来る疫病も門で防いだという神歌に歌われる伝承にも触れていない。だが志立元と仲嶺元に共通する、兄妹と彼らの守姉(そのうち兄が志立元の祭神、守姉が仲嶺元の祭神となる)の狩俣への渡来の神話には方位観を考える上で看過できない特徴があることに気づくと、ニルヤ・カナヤと南という方位の結びつきを介して、既に村落が形成された後に到着した存在が村落に同化するとともに祭祀の体系の中に組み込まれていく様相を垣間見ることができるように思われる。そこで以下にその神話の内容について、『平良市史 第9巻 資料編7(御嶽)』の狩俣の御嶽の項に含まれる志立元についての記述の中に含まれる兄妹と子守神(守姉)を乗せた舟の到着経路を確認してみよう。

「舟は寅の方(東)の風を受けて大海を渡り、初めに八瀬干潟に着き、次にフデ岩を経て大神島に着いた。三人は島に上陸し、しばらく島に住んでいたが、水がうまくないので別の土地を捜そうと島を出て、世渡崎をまわり、狩俣の南海岸ターヌビダから上陸した。今の東門のあたりで一休みしていると、近くの凹地のユーナギヤマ(オオハマボウの群落)から小鳥がぬれて飛び立つのが見えた。泉があるに違いないと思い、小鳥が飛び立ったところを急いでなぎはらってみると、思っていたとおりの清水が湧いていた。飲んでみるとたいへんうまかったので、この地を定住の地と定め、泉近くのナーンミ(ムトゥの場所)に家を造り、守姉をそこに住まわせた。兄妹はそこからさらに上の方に進み、シダティを根所と定め家を建て、持ってきた種子をまいて農耕を広めた。兄は豊饒をもたらす神「ユーヌヌス」として祀られている。」

(『平良市史 第9巻 資料編7(御嶽)』, p.46~7)

南から狩俣に入り、東門の脇に位置する泉(仲嶺元の管理するズーガー)を探し当て、仲嶺から志立に上ったという経路だけではなく、彼等が近親相姦の禁忌に触れたとされる伝承自体もまた、反復される村立て、渡来者の泉を求めての巡行の反復としての神話化にあたり、後から来て、一時的であれ旧来の支配層に対立し、実際には村落にとって重要な役割を果たすことになった集団の村落への統合・同化のために、つまり社会システムにおける他者の自己への「体内化」のために必要とされた合理化の結果として加工された側面を含んでいるであろうことさえ想定できるだろう。

4.双分観から三分観への移行を、生物学的アナロジーで考える

双分観から三分観への移行を共生による真核細胞の成立とのアナロジーで考えられないだろうか?それはレヴィ=ストロースの二つの種族の統合のアナロジーであり、他者を取り込むことで自己が形成されるのだが、そのとき自己は、他者を取り込む前のものとは最早同じではない。そしてそのことが最終的な祭祀の中断に至る変化の遠因となるようなことは考えられないか?

私がここで思い浮かべるのは、真核生物の起源について、つまり生命のオートポイエーシスのある水準の議論である。真核生物の起源については未だに諸説入り乱れて論争が行われている状態ではあるが、ほぼ共通認識として受け入れられていることとして、真核生物が、2つ以上の生物が合体して誕生したということがある。真核生物の細胞は、原核生物の細胞と比べて複雑な内部構造を備えているが、特にその中でも特徴的なミトコンドリアや葉緑体といった器官は、もともとは別のバクテリアが取り込まれて共生関係となったことが起源とされている。また真核生物以外の共生について言えば、ヒトの場合の大腸菌のように共生関係はごく一般的なものである(真核生物における共生によるオルガネラの起源はリン・マーギュリスの説だが、それを含む真核生物の起源に関するの簡潔な紹介として、ここではJ・メイナード・スミス、E・サトマーリ『進化する階層』第8章 真核生物の起源を挙げる。また同書第11章 共生は、真核生物の起源以外の共生についての簡潔な紹介である)。従って、他者と自己の境界や相互作用を考えるにあたっては、そのような共生関係を念頭におくべきなのだが、それと並行したことが、恐らく心のシステムにも社会システムにも言えるのであって、<二分心>や意識といった心のシステムがやはり個体としての自己と他者の境界や相互作用に関わっているように、双分観と三分観との関係は村落を構成する集団間の境界や相互作用に関わるといった形で並行しているという見方ができるだろう。そしてそうした動的な相互作用の痕跡が、神話や歌謡に見られる重層的な構造、各層の間の緊張関係として痕跡をとどめており、それを外部か観察した時に、双分的構造、或いは三分的な構造として認識できるということなのではなかろうか?そして特に狩俣において本永が見出したような三分的な構造は、村落形成の歴史における双分的な構造の重層を事後的にある平面に射影した時に浮かび上がるものと考えたいのである。

一方クバラパーズは大城元のシマヌヌス(島の主)という名の神女が村の東端の遠見台の森の中あるそのイビを抱くとされているが、伝承によればクバラパーズもまた狩俣には東から入り、イビのある村落の東端にその館があったとされており、後から加わったクバラパーズが狩俣の先住民の支配層である南走平家の末裔とされる集団に替って、というより彼等を従属させて支配者になり、城壁や石門を構築したことによって村落に生じた構造変化が、すでに幾つか指摘してきた北と東の方位の序列の交替といった形で記憶されていると考えることができるのではないだろうか。

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