見出し画像

嶋大夫さん・清介さんの酒屋(2004.9)

NHKテレビの地上波放送で嶋大夫さん清介さんの演奏による酒屋が放映された。
実は私は嶋大夫さんに限らず、この有名曲を実演で聴いたことがまだ一度もない。 今年度の地方公演でかかるとのことなので今から楽しみにしているのだが、 一足先に素浄瑠璃で聴く機会を得たことになる。
嶋大夫さんで酒屋ならお園のクドキの部分に関心がいきそうだが、聴いた印象は 随分と異なったものになった。

まず、いつも感じることながら語りだしの部分での時間や空気の感じの定位が見事。 夕暮れ時だが、まだ闇に没するには間があって、人の姿の輪郭が不明瞭になりつつ あるくらいの時刻の酒屋の玄関先が最初に浮かぶ。光の調子や、薄明の中を動く 登場人物の動きがあまりに克明で、素浄瑠璃であることを忘れて、文楽を観た気に なってしまうほどだ。ジャンルは異なるが、かつて喜多流の素謡で粟谷菊生さん他の 「弱法師」を聴いた後、視覚的な情景が残った経験があるが、それに匹敵するような 経験である。清介さんの三味線の音は、間違いなくあの夕暮れの空間にこだましている。
出だしでここまでぐっと掴まれれば、後は素直に音楽についていけばいいのだが、 それにしても酒屋の前半部分の何と面白いことか。
嶋大夫さんの語りは客観的であって、各人物になりきるというよりは、それぞれの 性格、気質がおのずと浮かびあがるような不思議な距離感を感じる。特に二人の 父親の対比は鮮やかで、それぞれの気持ちだけでなく、そうした気持ちを背後で ささえるパーソナリティのようなものが感じ取れ、それゆえか、状況のみに フォーカスすれば限りなく深刻な家族会議になりうる話が、寧ろかすかな滑稽味すら 帯びているように感じられた。
勿論、こうした感じ方は私個人のものかも知れないし、嶋大夫さんご自身の意図されて いることとは直接関係はしない、いやそれどころか(そうした機会はないけれど) 意図をうかがえばこういう感じ取り方は、ご本人の意図に反した、甚だ迷惑な 聴き方である可能性だってあるかも知れない。けれども、私個人の感じ方としては、 こうした印象は決して経験のないものではなく、嶋大夫さんの語りでは寧ろしばしば 感じることだし、近松を中心とした世話物で嶋大夫さんの浄瑠璃に感銘を受けることの 多いのは、寧ろこうした印象に依るところが多いのではないかと思う。
この前半部分でいけば、お園「について」は確かに、話の進展があって、であるから こそ、この後のお園のクドキに続いていく(前半の話が「もし」不調に終わったら、 それでもお園が同じ心情でいられたとは思わない。勿論、クドキを支えるお園の 基本的な気質は変わらないだろうが、同じように半七のことや三勝のことを考える というわけにはいかないだろう、と思われる。少なくとも嶋大夫さんの語りを 聴いた限りでは)。しかし問題の根本について言えば、何か展開(進展でも あるいはカタストロフでも)があった訳ではない。そうした膠着感と、話が一段落 ついた直後故の倦怠感が、深まった闇の中に入り混じって漂うそんな瞬間を、 嶋大夫さんと清介さんの床は、鮮やかに描き出すのだ。
お園のクドキは、まさにそうした空気、場の雰囲気の中で始まるのである。 ちなみに、お園以外の人間が「別の場所に移動」してお園が「残る」という 「気配の変化」も手にとるように感じられた。それはおまえの思い込みだろうと言われて しまいそうで、確かにそうなのかも知れないが、少なくともお二人の演奏には、 そうした想像を喚起する、ひそやかだが確かな力が働いているのだと私は感じている。

今回の演奏でのお園のクドキを聴き終えた時の私の印象は、今やすっかり居座った 闇の深さと、その空間を結局離れることなく居続けるお園の姿を見て(というより 気配を感じて、の比重の方が大きいかも知れないが)のものだが、それは一言で いえば「不気味さ」に近いものだった。ひとまずこの場に居続けることが できることになったお園は、この場を動かずに思いを巡らせる。闇の中で思いは どんどん増殖し、その思いが自ら引き起こす情態が更に思いを呼び起こすという 過程が延々つづく。しかもその思いの方もとぐろを巻くようにしてこの場に 居座ってしまう。
美しい振りがつく人形を見ればまた違った印象になるのかも知れないが、ともあれ 私が感じたのは、その想念の増殖の凄まじさと、それを支えるお園のある種の 「勁さ」とでも呼ぶほかない気質である。勿論、お園は「動きたくても動けない」の かも知れない。少なくとも「勁さ」とはいっても、それは積極的に状況を動かそうと する意思とははっきりと異なったものだ。けれども、そうした受動性こそが寧ろ、 お園が自分で気付いていないであろう「勁さ」の根拠になっているのではないか? 更にいえば「自分で気付いていない」こともまた、「勁さ」の根拠になっている のではないか?そもそもお園は「居続けること」についてどこまで自覚的なのか?

果たして酒屋の後半でこうしたことを考えるのが筋の通った観方かどうかについては、 自信は全くない。けれども、今回の素浄瑠璃を聴いた印象を素直に書けばそういう ことになる。繰り返しになるが、こうした重層性を感じるのは、嶋大夫さん・ 清介さんの演奏ならではで、今回も非常に強い印象を覚えたので、是非それを書きとめて おきたく、ここに記す次第である。
今回は放送時間の都合か、クドキが一段落したところで終わりだったが、 これは音楽として結末まで聴いてみたいと思うし、地方公演でお元気な姿を 拝見しつつ、今度は人形つきの実演を拝見するのがますます待ち遠しくなった。
(2004.9.15 公開, 2025.1.23 noteにて公開) 

いいなと思ったら応援しよう!