森の怪物アッチーケに憧れた動物達【短編小説・フリー朗読台本】
大雨により、森を流れていた川は激しく荒れ狂い、多くの動物を呑み込んでしまいました。
子狐の家族も、冷たい流れに呑み込まれ、二度と浮き上がっては来ませんでした。お母さんも、お父さんも、仲のよかった兄弟達も。
一匹だけ生き残った子狐は、大雨が止んで湿った森を、めそめそと、孤独に歩いていました。お母さん、お父さん、と声を上げますが、誰も返事をしてくれません。兄弟の名前を呼んでも、茂みが揺れることはありませんでした。
「僕は一匹で生きていかなくちゃいけないの?」
起きてしまったこと全てをようやく受け入れて、しかしこれから待ちかまえている未来を受け入れることは、ひどく難しいことでした。
なにせ子狐はまだ子供。一匹でたくましく生きていくなんて、考えられませんでした。
そんな子狐が耳にしたのは、どこまでも響いていくような、長い遠吠えでした。
力強くも聞こえるその遠吠えに誘われて、崖の上に出たのなら、巨大な影が月に向かって、あおーん、と吠えていました。見たことのない動物です。身体は大きいし、爪も鋭い。耳もぴんと立っていて、吠える口は大きく、牙はぎらぎら輝いています。
まるで怪物のようなそれですが、なんと勇ましい姿なのでしょう。たった一匹で吠えていますが、全く寂しそうには見えません。
「もしかして、森の怪物アッチーケ?」
子狐が思い出したのは、この森に伝わる怪物のお話でした。この森には、アッチーケという、孤独な怪物がいるのです。
吠えていた怪物はゆっくりと振り返り、子狐の頭からしっぽの先までじろりと見つめました。そして、
「あっちいけ。どうして夜に子供が歩いている、あっちいけ」
それを聞いて、子狐は大喜び。
「本当にアッチーケだ! アッチーケは『あっちいけ』って言うって聞いたもん!」
子狐はアッチーケの隣に寄り添いました。
「ねえ、ねえ、僕、川の洪水で一匹になっちゃったの。だから僕、これから一匹で生きていかなくちゃいけないんだ。どうしたらアッチーケみたいに立派になれる?」
「俺が立派に見えるだと?」
アッチーケは顔をぐぐぐと子狐に寄せます。子狐の瞳は、満月の光を浴びてきらきら輝いていました。
「……馬鹿を言え。ほら、あっちいけ。家族がいないというのなら、他の群れを探したらどうだ」
「ううん、僕、アッチーケみたいになる!」
そう子狐が嬉しそうに飛び跳ねたとたん、アッチーケはぐるると唸って牙を見せました。恐ろしい形相に、子狐はびくりと震えて固まってしまいます。
けれども、子狐があまりにも怯えていたためか、アッチーケは我に返ったように溜息を吐き、再び満月に向かって吠えました。あおーん、と、長く、どこまでも届くように。森に孤独な遠吠えが響き渡ります。
アッチーケは子狐に何もしてきませんでした。だから子狐は、いまのはちょっとした脅しで、試しただけなのだろうと、アッチーケに並びます。そうして、アッチーケのまねをして満月に吠えてみました。
小さな遠吠えは、全く森に響きません。
* * *
アッチーケと子狐の生活が始まりました。
森の怪物アッチーケは、怪物らしい大きな身体に、大きな爪、大きな口に大きな牙を持っていました。けれども狩りのやり方はとてもゆっくり。森の中では大木になったように、川辺では岩になったように動きません。そこへ小さな動物や、魚がやってくれば、思い出したように素早く動いて、今日のご飯を得るのでした。
アッチーケに憧れる子狐も、アッチーケの狩りをまねします。じっと動かず我慢して、獲物が来たら、飛びかかる。ところが子狐は子狐ですから、長いことじっとしていられませんし、獲物が来たところで、素早く捕まえることもできません。
三日間、アッチーケのまねをして狩りをしましたが、子狐は何も捕まえられませんでした。くうくうとお腹を鳴らして、それでも狩りを続けようとしますが、もうふらふらの状態です。川に魚の影が見えて、我に返ったように飛び込みますが、やはり捕まえられず、
「へたくそめ。お前にこの生活は、向いていないのだ」
ついにアッチーケが深い溜息を吐いたかと思えば、いままでの「じっと待つ狩り」からは考えられないような素早い動きで、川に飛び込んでしまいました。そうして跳ね上げたのは、今し方子狐が逃した小魚一匹。それだけでなく小魚が次々に打ち上げられて、子狐の前に落ちてきます。かと思えば、今度はアッチーケ自身が川から飛び出し、空を飛んでいた小鳥をはたき落としました。
「すごい! すごい! アッチーケって本当にすごい! どうやったら、そんな風になれるの?」
久々のご飯にありつけて、子狐は元気を取り戻します。
「僕もその狩り、できるようになりたい! とってもかっこよかった! またやって見せて、アッチーケ!」
「俺はそう若くないのだ、あまりやらせるな」
アッチーケはそう言ったものの、少し得意げに笑っていました。
その日以来、子狐はアッチーケの「素早い狩りの特訓」をするようになりました。
狩りの特訓だけでなく、子狐は「遠吠えの特訓」もするようになりました。
アッチーケは、満月の夜になると、どこまでも響く遠吠えをあげます。その遠吠えを、子狐はまねしようとしたのです。
「月に威嚇するアッチーケはかっこいいね!」
子狐は無邪気に笑います。アッチーケは首を傾げて、
「俺は月に威嚇しているわけじゃない」
「じゃあどうして吠えるの?」
「お前は知らないのか。月には、死んだ動物達の魂が眠っているのだ」
「じゃあ死んだ奴らに威嚇してるんだね! 俺はこんなにもたくましく生きてるんだぞーって!」
アッチーケは何も答えませんでした。ただ再び満月を見上げれば、遠吠えを響かせたのでした。
子狐も遠吠えをあげます。月まで届くように、声を張り上げます。
* * *
厳しい特訓の日々、子狐はいくらか魚や鳥を捕まえられるようになりました。遠吠えもかすかに木々を揺らし始めます。
月日が経てば、子狐は大人になり、大きな体を持つ獣になりました。狩りもすっかり上達し、アッチーケと同じくらい獲物を捕まえられるようになりました。満月への遠吠えだって、アッチーケに負けません。
さらに年月が経ち、子狐だった獣は気付きます。
「アッチーケ、あんまりお腹が空いてないの?」
アッチーケの獲物の数が、自分より少ないことに。
「アッチーケ、今日はもう、眠いのか?」
アッチーケの遠吠えが、自分のものよりも小さいことに。
アッチーケは何も答えませんでした。けれども確かに、アッチーケが激しく動くことは減り、遠吠えも小さくなり、その数も減っていました。
「お前が成長しただけさ」
やっとあった返事は、たったそれだけ。
けれども、ある日アッチーケが起き上がれなくなって、その言葉は嘘だったのだと、子狐だった獣は気付きます。
「アッチーケ。アッチーケは、もう、年を沢山とってしまったんだね」
いつの日にか見た、満月に吠えるアッチーケの姿は、ひどくたくましいものでした。勇ましく、孤独なんてなんのその。そんな姿に憧れて、自分もアッチーケのようになろうと思いましたが、いまのアッチーケは痩せてぼろぼろでした。いつからこうなっていたのでしょう。
「アッチーケ、気付いてあげられなくてごめんね、いつからこんなに弱っていたんだ」
子狐だった獣が尋ねれば、アッチーケは弱々しくも笑いました。
「いつからだと? 最初からこんなものだったはずだ」
「そんなことはないよ。アッチーケはとってもかっこよくて、独りぼっちでもたくましかった。だから僕はアッチーケに憧れたんだ……ねえ、僕は、アッチーケみたいになれたかな?」
洞窟の寝床で横たわったままのアッチーケは、瞳だけを動かして、子狐だった獣を見つめました。しばらく考えた後、最後の息で答えてくれました。
「なってしまったかもしれないな」
そうしてアッチーケはもう二度と喋らず、二度と動きませんでした。
子狐だった獣は、無言で洞窟を出ました。死んだアッチーケに寄り添うようなことはしません、やり残したことや、もしもあの時こうだったのなら、なんてことも考えません。一匹になったからといって、なんのその。アッチーケのようになったというのなら、めそめそ泣くわけにはいかないのです。
「ごめんねアッチーケ、僕はアッチーケみたいになれなかったみたい!」
洞窟を離れ、少し歩いたところで、ついに子狐だった獣は泣き出してしまいました。
アッチーケのように孤独でも、たくましく。そんな風になりたいと望んだけれど、再び独りぼっちになり、わんわんと泣かずにはいられませんでした。
アッチーケは死んだのです。もういないのです。
* * *
アッチーケは、いつだったか、孤独な子狐に、他の群れを探せばいいと言いました。
けれども、子狐だった獣が川を見下ろせば、そこに映っているのは、もう狐とは呼べない何かでした。
独りぼっちになった獣は、呆然と日々を過ごしました。大木のようにその場から動かなかったり、川に映る自分の姿をじっと眺めたり。時折、お腹が空いたなぁ、と思えば、近くまで寄ってきていた小動物や魚を、思い出したように捕まえて食べました。
そしてある日の夜。今日は明るいなと思えば、紺色の空には大きな満月が輝いていました。
満月の日は、遠吠えの日。でももうアッチーケはいません。アッチーケに憧れた自分はアッチーケのようになれませんでした。それでもなんとなく、獣は崖の上に立ち、満月を眺めます。
ふと思い立って、遠吠えを響かせました。獣の声は森を揺らし、風を怯えさせ、月まで届くかと思うほどに長く響いていきます。
死んだアッチーケに、この声が届いたのなら、と思ったのです。
アッチーケのようになりたかった。けれど、こんなに寂しいのはやっぱり耐えられない。
もしも返事があればと思い、獣は遠吠えを続けます。
月には死んだ動物達の魂が眠っていると、アッチーケは言っていましたから。
それならば、この遠吠えで、アッチーケを起こして、ここに戻ってきてもらって。
「――もしかして、アッチーケ?」
不意にそんな声が聞こえて、獣は振り返ります。
いつの間にか、背後には子鹿がいました。身体を煤まみれにした子鹿の顔には、泣いたあとがあります。
「すごい、すごいね! とってもかっこいい!」
突然現れた子鹿に、獣は驚いて何も言えません。対して、無邪気な子鹿は、
「わあ、私も、アッチーケみたいになりたいな! あのね、山火事で、みんないなくなっちゃったの。でも、アッチーケみたいになれたのなら、私、一匹でも強く生きていけるよね?」
なんだか覚えのある言葉に、獣は瞬きをします。そしてとっさに、言ったのです。
「……あっちいけ。鹿の群れなら、探せばどこにでもいるでしょ」
自分で言って、思い出します。
かつてアッチーケも、自分に同じことを言った、と。
だから強く思ったのです。
この子鹿に、自分と同じ轍を、そしてもしかするとアッチーケと同じ轍を踏ませるわけにはいかないと。
「わあ! やっぱりアッチーケだ! 森の怪物アッチーケ! 『あっちいけ』って言う孤独の怪物だ! かっこいいね! かっこいいね!」
もちろん、子鹿はそんなことを知りません。無邪気な様子で跳ねています。
なんて馬鹿な奴! そう思って、獣はとっさに子鹿を蹴って飛ばそうと思いましたが。
――いま自分は独りぼっちで。
――もしこの子と一緒に暮らせたのなら。
けれどもそれは、この子のためにはならない。
でも。でも。
果てに、獣は耐えきれず、満月に向かってより大きな遠吠えを響かせました。
アッチーケに、この悲鳴を聞いてもらいたかったのです。
いま、アッチーケの全てに気付いたために。
自分は「本当のアッチーケ」になってしまったのだと気付いたために。
――散々遠吠えを響かせて、新しいアッチーケは寝床へ歩き出します。
子鹿は無邪気についてきますが、アッチーケには、追い払うことはできませんでした。
【終】
この作品は、朗読台本としてフリーで使用可能な小説作品です。
詳しくはこちらの「朗読台本として使用可能な作品について」をご覧ください。
※他サイトでも公開しています。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?