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問題を造形する力-AI論考-
私は数学をやっています。そこで、時々「AI(人工知能)」について質問されることがあり、自分なりに思うものがあったので、note記事にしておきたいと思います。私のやっている数学にも繋がってくる話になっています。
次のような命題について議論します。(Xと名付けます)
【命題X】AI にできるようになったことは、人がやらなくてもよくなる。
例えば、AI に大量の人が書いた文章データを読み込ませると、自然言語処理を行うことによって、AIが文章を生成することが現実的に可能になっています。かと言って、このような文章には情熱や魂が入っていない、脱け殻のような文章しか作ることができないでしょう。文章を見て、それがAI が書いたものなのか、人が書いたものなのか位は見極める能力を私たちは充分に持ち合わせているはずです。生命の宿った文章というのは、やはり人にしか書くことができません。
なので、この命題が主張しているような論理は当然、生理的な感覚として「間違っている」と誰の目から見ても明らかです。が、ここでは生理的な感覚に頼りきらず、この命題についてもう少し考えてみたいと思います。それが、私がこのnoteを書く意義です。
なぜならば、よく「人の仕事がAI に奪われていく」という将来に対して悲観的な、馬鹿げた議論が飛び交う様子を見かけるからです。私はメディアをほとんど見ないので世間一般に対して言っているのではなく、他人がそのような趣旨の会話をしているものを耳にしたり、口にはあまり出さないだけでこのような馬鹿げた考え方を心の中では採用している人を見たりして、この状況はいかがなものかと思うことが少なくないからです。どうしてこのような考え方になってしまうのでしょうか。
第一に、学校教育の弊害に目を向ける必要があるでしょう。学校教育においては、先ほど述べた情熱や魂を入れて表現することを教わりませんし、そのためほとんどの人たちは実践する機会に乏しいことになります。自分が感じていることや、氣づいたことを素直に書くのではなく、社会規範という幻想の枠から出ない「答え」を無機質に表現する訓練をさせられます。それが教育であると彼らは言うのですが、これは教育ではなく調教です。そうして完成するのは社会人(おとな)という名目上の奴隷市民に過ぎません。こうした人々がAI の存在を恐れるのは至極当然のことであると思われます。私たちは真の教育を目指す必要があります。これが第一の論点です。
第二に、過程や歴史を軽視する現代的な傾向が挙げられます。帰結や論理ばかりが先行し、技術の進歩が文明の進化であるという幼稚な思想(自然科学の過信)により、問題を「解決」する力ばかりが巨大化するという異常事態が起こっており、数学に関しては特に影響が及んで現れています。AI の持つ限界。それは、問題を解決する力はあっても、それより重要な問題を『造形』する力を一切もたない、ということです。人であっても、帰結や論理ばかりを重視するようになると、頭の働きは機械的になり、心情は軽薄化し、問題を「解決」することばかりにしか目が向かない近視眼的な視野の偏った方向に行ってしまいかねません。これでは、本当に新しいものを生み、文明を創造(真の進化)していく姿勢から遠ざかっていくばかりです。
日本人なら、日本という国が辿ってきた過程や歴史について熟知し、個を超えた民族性の中に広く自らを位置させ、自分に何ができるのか(自分の使命・天分は何なのか)を深く明晰に見極め、問題を適切に『造形』する力を養っていかなくてはなりません。私たちは真の文明を目指す必要があります。これが第二の論点です。
ここで、数学に関して影響が及んでいると書きました。命題Xと似たような現象が起きていると私は見ています。つまり、現代数学は膨大な「解決」技術のデータベースが集まった機械装置と化してきているのが現状です。そこには、真の理論は存在せず(問題を『造形』する人が居ないのですから)、ただ無機質な技術のみが充満しているような状態です。そして、アカデミズムの中で仕事をするとは、機械装置を進歩させる” 技術者 ”になることを意味しています。わかりにくいと思うので、命題の形で述べてみましょう。
命題Xと同型な次の命題を考えてみます。(Yと名付けます)
【命題Y】数学の定理は一度誰かによって証明されてしまえば、もう他の人は証明をする必要がなくなる。(解決に使った技術を習得し、帰結と論理さえ知ればよい。定理は純粋な抽象的記述に則っており、過程や歴史とは無関係に成立する。)
この命題は、現代数学に潜む暗黙の前提になりつつあるのではないかと思います。数学者の岡潔は、現代数学の論文は「だんだんと水増ししたようなものが多くなってきている」と言っており、定理が成立するに至った過程や歴史を度外視して、単に証明を形式的に一般化したような論文が増えた(本質的な内容を扱った論文が少なくなった)という状況を指して、このように言われたのではないかと思います。背景にはブルバキ流の数学の影響も関与していると思います。
命題Xと命題Yは同型な命題であり、そして命題Yが間違っていることを私は自分の数学経験から熟知しています。すると、命題Yと同値な命題Xもまた、間違った主張であると私は考えます。
たとえAI が文章を生成できるようになった現在でも人が文章を執筆する価値を失わないのは、文章に宿る情熱や魂というものは人類や民族が培ってきた長きに渡る過程や歴史から醸し出されるものであり、そしてそのような文章のみが問題を『造形』する力を確かに持つからです。AI が書くような文章には、そのような力がない。
「解決」技術がいくら向上したところで、問題の立て方がおかしければ仕方がない。問題は勝手に雑草のように生えてくるものではなく、人が感性を開き、意識を高めて創造するものである。AI を雑草を刈る草刈機か何かだと思っているような認識は、なるべく早くやめなければならないと私は思う。
以上が、私がAI について思う率直な論考である。