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まっすぐすぎる巨匠、前川國男 〜突撃!例の建築家の手すり ④


先日、推しの応援のためにサッカーの街、浦和に降り立ちました。
普段は埼玉スタジアムでの開催なのですが、今回は何らかの都合で使えず、キャパの小さい駒場スタジアムにて試合だったのです。20年ぶりくらいに来ましたわ。

サッカーの町でございます

で、少し早めについたので、どこか近くのイカした手すりを見てから行こう、とマップを眺め、その後の試合展開を暗示させるようなゲリラ豪雨のなか、未見のこちらに伺ったのでした。

埼玉会館(1966):前川國男


浦和駅西ロータリーの駅前ビルを通り抜け、歩道を西に直進すると、落ち着いた色合いの外壁が見えてきます。
ちょうど雨が激しくなってきたところでしたが、濡れ色になったことでむしろ色気が出てちょうどいい。
彼がこういった焼き物をつかうとき、決してのっぺりした見た目にならないように、焼きムラを大切にしたことがよくわかります。

この打ち込みタイルの外装が、前川後期建築の特徴ですね
つきあたりの階段を右に回り込みます
Φ50くらいの丸い鋼製、意外に支柱の足元が無骨です

エスプラナードと彼が名付けた、外廻りの広場へ上がる部分の手すり。
オーソドックスな丸棒ですが、ちゃんと先を水平に伸ばし、先端は袖を引っ掛けないように下に丸める。人に優しい手すりの基本に忠実です。

ちなみにここの室内外のタイル床のデザインですが、当時新入所員だった中田準一さん(国会図書館新館などをご担当)が、1年間かけてそのパターンをひたすら描く仕事を任されたとのこと。きっと描いてはダメ出し、描いてはダメ出し、を繰り返したのであろうな、と。
その過程で、ボスのデザインにおけるツボを徐々に学んでいくのが、建築事務所での修行というものだったのです。


 

もともと埼玉会館という建築は、今をときめく渋沢栄一の多大な寄付により大正15年(1926)につくられた(設計:岡田信一郎)、日本の公共ホールの先駆けだったとのこと。
その建替えの要望を受けた前川は、敷地に対して要求されるボリュームが過大だったため、その整理にとても悩んだようです。


なので、出来上がったものはどこが正面とも言えない、ひとつの街のような建物群になっています。というよりメインのホワイエ空間はこの広場の下なのでした。


前川國男の建築の特徴は、一部の例外はありますが、外観の存在感は地味、おとなしい、ということが言えると思います。
特に後期のものはレンガ色のタイルを纏い、周囲に馴染み、受け入れられることを、ひたすらに追求している。それが、キャッチーかつシンボリックなアイドル、丹下の影に隠れて目立たなくなっていた理由でもあるのですが。


というわけで、室内の手すりに入る前に前川國男という人と、その当時の建築家について、恐れ多くも語らねばなりませぬ。
そもそもこのシリーズ、手すりを通して建築家という人間を知ってほしい、という企画なので、どうぞお付き合いくださいませ。

前川國男について


日本の近代建築史において、絶対に外せない建築家。そのうちのひとり、というより旗頭ですね。

この企画では手すりから建築の話をするにあたって、読まれる方が相対化できるように、その建築家をなにか音楽家に例える、というのをやっているのです、が。

でも、前川國男とはどんな人か、ということを書こうとすると、その人だけではなかなか表現できない。どうしても歴史的な流れが必要になる。

太平洋戦争前夜から、終戦後の復興という時間の流れの中での、モダニズム建築はいったい何に例えられるのか、という話にならざるを得ない。

で、ちょっと時代はズレるのですが、今までの様式を離れた、あたらしい自由なジャンルの芸術が開かれたという意味で、モダニズム建築をロックンロールにをなぞらえてみる。


とすると、
モダニズムの父:ル・コルビジェ=ロックンロールの父:チャック・ベリーという見立てになるので、そこでようやく、日本の建築史において、あのカブトムシの4人を誰に見立てるか、ということになります。


そこで強引ではありますが、このようになぞらえてみました。

ジョン = 前川國男 (1905)  土木勅任官の子→東大工→コル→レーモンド      
ポール = 丹下健三 (1913)  銀行員の子→日芸→東大工→前川→東大院
ジョージ= 坂倉準三 (1901)  岐阜の酒蔵の4男→東大文学部→コルビジェ
リンゴ = 吉村順三 (1908)  本所の呉服商の子→東京芸大→レーモンド

恐れ多くも敬称略 

この4人の関係を押さえずして、日本のモダニズムは語れないのです。

とにかくそれぞれ、関係が絡み合っております。丹下だけちょっと年齢が下ですが、早熟だったのと、前川と丹下の関係から外せないなと。

このうち、前川と坂倉はコルビジェのアトリエ直系。そもそも建築系に縁の無かった坂倉をフランス滞在中にコルビジェに繋いだのが前川。その後、それぞれ戦時中に独立開業した前川と坂倉は、よく銀座で飲み歩いていたとのことで、元々の仲の良さもあったのでしょうね。
でも坂倉は戦時中、スメラ学なる怪しげな教えにハマったりするところ、それがインド哲学にハマったジョージと似ていなくもない。


そしてコルビジェのところを辞して、帰国しても仕事がなく資生堂パーラーのボーイにでもなろうと思い詰めていた前川が、佐野利器先生の紹介で滑り込んだレーモンド事務所に、すぐ押しかけ入所したのが吉村でした。
そしてレーモンドが軽井沢に、コルビジェの計画案であったエラズリス邸のデザインをパクった「夏の家」を建てて、お怒りのコルビジェと丁寧に文通して釈明、和解したのもその頃のこと。前川の立つ瀬はどうだったのだろうと心配になりますが、幸いその後もコルビジェとの関係は良好だった様子。

なお「夏の家」、建築としては、コルビジェも認める質の良さで(雨漏りはしたそうですが)レーモンド事務所の夏の避暑地でもあったそこで、前川と吉村も机を並べていたそうな。現在は軽井沢の中で移築され、ペイネ美術館として利用されております。

ペイネ美術館
https://db.go-nagano.net/topics_detail6/id=4063

そして江戸東京たてもの園に再築された前川自邸と、

前川國男邸(江戸東京たてもの園)
https://www.tatemonoen.jp/restore/intro/west.php

吉村の珠玉の作品として知られる「軽井沢の山荘」

小さな森の家‐軽井沢山荘物語 吉村順三著 より引用

「夏の家」の体験が、両者の勾配屋根の名建築に影響を与えたそうで。癇癪持ちとして知られたレーモンドのネジの外れたところが、そうやって弟子の作品としても結実しているのが面白いところです。

そしてアメリカとの国際関係が壊れ始め、仕事がなくなった1935年に前川は独立。そのときレーモンドに退職金よこせ運動などもしたらしい。もらえなかったそうですが。

そして1940年には吉村はアメリカはペンシルベニアに帰ったレーモンドのところで、開戦寸前の1年余りを過ごします。そこで、アメリカの建築を学んでダッシュで戻り、日本が開戦するなら自分は開業する、と意味のわからないことを曰い独立。その飄々としたところがリンゴかな、と。


なお丹下は大学卒業後に前川事務所の所員として入所、その後大学院にもどりそこで独立。以降、広島平和公園や、東京カテドラル聖マリア大聖堂、国立代々木屋内総合競技場といった、日本の意匠をさり気なく取り入れた、建築日本代表というに相応しいモニュメンタルな建築を多く設計します。
その行き着いた先は新宿の都庁とパークタワー、そしてお台場のフジテレビといったところでしょうか。どれも象徴性が高く、その結果としてヒューマンスケールを逸脱しております。
キャッチーで明るい明快、それが丹下の特徴と大雑把には言えて、それがポールのいい意味での能天気さに近しいものがあるな、と思うのです。


丹下は「群衆」で建築を考える、前川は思索する「個人」で建築を考える、という評を松山巌氏が書いておりますが(※1)、前川の建物がどんどん象徴性を消すようになっていったのは、その影響が大きかったのかもしれません。

ちなみに戦後にコルビジェ事務所で働いた日本人に、吉阪隆正という建築家もおります。数年前に鈴木京香さんが吉阪初期の住宅であるヴィラ・クゥクゥを継承され、ちらっと話題になったりしました。
https://casabrutus.com/categories/architecture/324627
後期のコルビジェの要素を知る人で選ぶなら、吉阪さん一択という感じなんですけどね。
丹下と同い年でもあり、戦後は前川・丹下とともにCIAM(近代建築国際会議)に参加したりもしているのですが、泣く泣くここはバンドメンバーから外し、ちょい上世代+丹下でまとめております。

 

なお前川・坂倉・吉村は戦後、六本木の国際文化会館を共同設計したこともあります。その際、前川は自分の案を引っ込めて、坂倉と吉村案を調停しながらまとめ上げたとのこと。大人だ。そんなこんなで、我の強い建築家としては稀有なことに、ちゃんとバンド活動できたのですね、3人は


そのあたりを描いた短編ドキュメンタリー映画「THREE ARCHITECTS」というちょうど良さげなものがありましたので、ご覧いただきたく。




で、前川國男がジョン、それはなぜか

その不器用さ、率直さ、与えられる公共性への疑義を常に提示していたこと、物事の本質を追求する姿勢、スケッチがそこまで上手ではなかったこと(ジョンの初期ギターソロみたいな)、などいろいろ思い付きます。

特に、建築家の仕事として、できることならこうあるべき、と彼が考えるものを現実に結びつけるための、徒労とも見える努力を常にやっていた方です。そこが、イマジンを歌い夢想家扱いされたジョンと被ります。

たとえば、レーモンド事務所にいた頃に参加した、「東京帝室博物館(現東京国立博物館本館)コンペ」にて、平面図を指定された外観のみの競争であったそのコンペにて、その要項を無視して自らプランを考えたモダニズム案を提出する。
そして要項違反で落選するや否や、雑誌に『負ければ賊軍』という文を投稿し、負け戦とわかっていても、建築家はその発注者側の前提がおかしいと思う時はそのような戦をやらねばならないという意思表明をしている(このとき弱冠26歳)。


また、上野の森の入口に立つ、東京文化会館の設計時も、与えられた敷地だけでなく、周辺の公有地も巻き込んで初期プランを考え、それを役所側に戻してそのほうが良いということを説得しようとしていたり(ダメだったが)、とにかく何らかの予断を持って与えられた予条件を、まず疑って解体して考えるという、不器用で、でも本質を探す努力を厭わない。

また、彼の唯一の高層建築であった、先ごろ解体されたばかりの、丸の内のお堀端に建てた東京海上ビルも、建築時に大きな論争を呼んだ。
1964年に建築基準法の改正があり、建物の一律31m上限の高さ規制が撤廃され、容積率によりもっと高い建物が建てられるようになったことから、前川は足元の広い空き地をつくるために、あえて30階建、127mのビル2棟を計画し、確認申請を行う。ところが、合法にも関わらず、都の建築確認が得られない。そして皇居の眼前に不敬である、といった文脈で批判を受けて計画が塩漬けになる。そこでも抵抗し、なんとか高さ99m、25階建て×1棟の計画に縮小して(させられて)初期の計画から8年を経て竣工。

なんというか、あえて理不尽が襲ってくることが想定される、難しい状況に突っ込んでいく、そんな愚直なスタイルの人なのです。晩年の、建築業界に対する激烈な批判も、そんな彼の生き様の変わらなさの現れでもあります。

しじみさんが、前川建築の年代別のガイドを書かれておりましたので引用。

同時代の、資本の論理に丸め込まれる建築家に対しても苦言を常に絶やさなかったので、それを快く思わなかった方々も多かったかもしれない。前川を不用意に扱うと自らに刃が飛んでくる、同業者はそんな怖さも感じたかもしれません。

そして、彼が一時は自分が目指した工業化とモダニズム建築の組み合わせから、それが人間の過ごす空間として相応しいのか?と一歩引いて、焼き物の温かさをコンクリートに打ち込むようになった頃の初期の作品が、埼玉会館なのです。

ジョンレノンで言うと、ビートルズ解散のあとの、アルバム「ジョンの魂」のころ、といったところでしょうか。原点を探す旅に出た頃の作、ですね。

埼玉会館(1966) 室内

 

エントランスからホワイエへ

柱頭の、仕込み照明とあわせたデザインが優雅な空間です。
また正面の、窓の間の小壁の色使いがコルビジェ風。実はこの色、当時前川事務所に訪れたヨーン・ウッツォン(シドニー・オペラハウスの建築家)が付けていたネクタイのストライプの色の組み合わせが気に入って、それを頂いてカラーサンプルにして塗ったという逸話があるそうで。

さて、手すりの話をしましょう。
なんせここ、すべての場所で手すりの断面が違うw

転落防止柵の手すりは大きく受け止める断面
宙に浮いていて、下からホワイエが見える軽やかさ

ホワイエの主階段の左右の転落防止手すりは、来場者が寄っかかるのをしっかり受け止めるような、大きな翼状の断面ですが、重たいデザインを軽く浮かべてバランス。実際に寄っかかってみましたが、けっこうしっかりです。

主階段の手すり、ゴツいけど裏を削ぎ落として握りに配慮
こんな感じの断面、下に行く階段の手すりは細く切り替わる

階段も、想定されている利用頻度に比例するように、大きさを変えて断面がつくられております。集成材を複雑に面取りし、下側が太く、上側は握れるようなひょうたん型の断面。

折り返して降りる方の断面は
こんな複雑な断面、でもブラケットは市販品でいける形

でもこういった凝った断面の木製手すり、今はどこまで制作できるのでしょうね。実はそろそろオーパーツになっているような予感もあります。こういった加工ができそうな家具業界も、ファスト輸入家具に押されていますからね。

みんなが触れる真鍮材の、この光り方よ

その横にある、スロープの手すりは真鍮のΦ50程度の丸棒。足元も滑りにくいビニル系、そして側壁はラフな表情のコンクリート打ち放しです。その組み合わせの妙よ。

エントランスからホワイエ方面を見るとこんな感じ
ホワイエは閉館間際のお掃除中でした
凄い照明がついてます
外はまだ雨でした 3種の仕上げの組み合わせの妙


前川國男の建築は、流れるように入っていくとその場所、場所でハッとさせるような、目の覚めるような空間があります。工業的につくる、モダニズムからちょっと戻って、個々の人が心地よく過ごすための材料や空間構成、そして手すりまで、よく練られていることが、すぐに了解できます。ホールの内部を見学できなかったのが残念。

晩年の前川國男が、所員の方に発した問いがあったそうです。
「きみ、花はなぜ美しいか」

答えに窮していると、しばらく経ってからこう伝えたとのこと。
「それは、自らの責任でそこにあるからだよ」


良い建築とは、その場にある責任を果たそうと、建築家だけでなく、その発注者や施工者もその力を尽くした、そんなものが纏う空気がもたらすものなのではないか、そんな事を考えさせられた、前川建築の見学でありました。


※ 参考文献


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てすり屋のひとりごと 橋本 洋一郎(合同会社 湘南改造家)
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