【日常系ライトノベル #20】ヒトシミュレーターによる”怒りの無い世界”
「ゴオオ~~~」という音を立てて、美樹の前を地下鉄が通り過ぎていく
美樹は乱れた髪の毛を片手でセットするようにかきあげ、竹橋駅の長いプラットフォーム上で車両を追いかけるように小走りしながら電車へ乗った
座席に座り、バッグからスマートフォンを取り出した
ニュースでは、“東亜理化学研究所が「怒りの沸点」に関するメカニズムを解明”とある
記事によれば、人間が怒りの感情を爆発させるポイント(沸点)をコントロールするメカニズムが解明されたというものだった
「私の仕事はそのうち無くなるかもな…」
美樹はそうつぶやいた
美樹の仕事は「アンガーマネジメント」の講師だ
セミナーや企業研修には引っ張りだこの人気講師
綺麗なお姉さん先生的なキャラクターとしての売りにしている
怒りの沸点がコントロールされるということは、怒るという行為そのものが無くなるということ
そうなると、アンガーマネジメントのセミナーや研修は不要で、お役御免といったところだ
*
コツコツコツ…
純平はやや錆びくれた鉄製の安っぽい階段を上にあがっていく
ここは誰もが知る大きな組織であるが、案内される場所はいつも都内にある小さな部屋だ
今日は神保町駅から5分くらいのところだ
来る途中には古本屋やカレーがあり、目と香りで純平のことを誘惑してくる
階段の踊り場まで来て、顔を見上げるとドアは既に開いている
これはノック不要で入るようにという合図だ
純平はデスクの上に置いてある1つの論文を読むように指示された
その論文には「機密事項(査読中)」という付箋が貼られている
機密事項の内容はいつものことであり、純平としては淡々と中身を読むことにした
もはや新しいことや秘密になるようなことに好奇心や興味はわったく沸かなくなり、いまここで読んでいることさえもルーチン作業に等しい
メカニズムの要点としては次のとおり
人は怒りの感情があるポイント(沸点)を超えると言葉や態度で表現するという
そしてその「怒る」行為をある期間内に繰り返し、怒る頻度が高くなると沸点は下がるという
つまり、怒る人は怒ることを繰り返すことによって更に怒りやすくなるというのだ
もちろん幾らかの個人差はあると論じられている
個人差による違いがどれくらいまでは今回は述べられていない
純平はすぐに理解した
人は怒る行為によってきれやすい性格を自ら作り出しているということだ
逆に言えば、怒らなければいけない場面で平静にいることが出来れば、怒りのポイント(沸点)は高いところへシフトし、ちょっとしたことでは怒らなくなるというものだ
理論から考えると、怒るという行為を放棄することで全く怒らないようになることでさえ可能なわけだ
純平は論文を読み終えると準備されたパソコンに向かった
*
コンビニエンスストアでお釣りを渡そうとした店員の仕草に怒りを感じたお客様がいる
お釣りを片手でホイっと渡されたとき、怒りを感じる人と全く怒りを感じない人がいる
怒りを感じる人であれば、店員と口論になり、最悪の場合はお互いに傷つけあうことがあるかもしれない
けれども怒りを感じない人であれば、それば良いとは思えない仕草であっても怒りを感じずに買い物を済ますことができる
もちろん、店員も何か悪いことをしたという自覚も無い
次のお客様もその次のお客様も怒りを感じない人であれば、お釣りの受け渡しが正しくなくともトラブルが発生することは無い
*
友達とランチを食べにファミリーレストランへ行く
オーダーを取られて20分ほど経つ
けれども注文した料理はまだ運ばれてこない
待たされていることに対して、まったく怒りを感じない
このファミリーレストランでは店内の様子をネットワークカメラを使って撮影している
もちろん入口ドアにはプライバシーを配慮し、カメラの設置とそのデータの使い方について説明されたシールが貼ってある
その映像から得られる入店時刻、注文時の表情や表面温度の変化などをリアルタイムに解析し、インカムによるスタッフの音声指示や厨房のモニターへの警告表示が仕組み化されている
いまモニターにはお客様を待たせていることを知らせる赤いランプが光っている
スタッフたちは指示どおりに動き、料理を提供することに注力している
*
数年後には世の中の人々から完全に「怒る」という行為ものが消えてしまっている
後に統計データから分かったことだが、人々から「怒り」が消えたことの副産物として「殺人」が減ったという
もはや日常生活で怒りを感じる出来事は完全になくなっている
純平はパソコンで数値を入力し、10行ほどのコードを書き換えた
ある工場で機械の設計ミスによる事故死を発生させる
従業員の家族はその悲報を聞かされる
設計ミスが人為的なもので本来であれば防げるものであったにも関わらず、
コスト削減を理由に危険な状態のまま機械を運転させている
この家族もまた「怒り」の沸点が高いところにあり、日常生活において「怒る」ことは完全にない
今回に限っては原因を聞かせれて悲しみが増幅したことで高い沸点にもかかわらず沸点を超えてしまう
けれども家族がとった行動は「悲しみ」の表情をすることだけである
長い期間、「怒る」という行為をしなかったため、怒りの感情は沸点に達したものの、どうやって怒りを表現して良いのかを体が忘れてしまっているのだ
純平の後ろから声が聞こえる
「なるほどな。こういう世界が待っているのか…」
純平から男に話し出す
「怒りが無い世界をシミュレーションしました。人々から怒るという感情が消えた世界です。怒りが消えたことの副産物によって、殺人が減り、喧嘩が減り、すべていいことに向かっている世界を作ることが出来ます。ただし…」
「ただし・・・」
「ただし、怒りのない世界であっても本来怒らなければならないような悲しい出来事にさえ、怒りを表現出来ない世界にもなります。」
「そうか、わかった。ありがとう」
しばらく沈黙がつづく
「怒りのメカニズム解明は無かったということだな。解明されていないことにしないとだな。」
そう言うと、「よろしく」という合図で純平の肩に手をやった
美樹は右手からスマートフォンが落ちそうなり、ハッと目を覚ます
スマートフォンのニュースアプリを開く
けれども、先ほど見たと思った“東亜理化学研究所が「怒りの沸点」に関するメカニズムを解明”の記事を探すことは出来なかった
美樹は足早にいつも以上に力を入れてセミナー会場へ向かった
【終わり】
ありがとうございます。気持ちだけを頂いておきます。