#life954 「春の勉強大作戦!」に向けて 勉強について徒然なるままに書いてみる
↓メルマガ(https://d.bmb.jp/bm/p/f/tf.php?id=spaceship)より転載。
実に久々にTBSラジオ
「文化系トークラジオLife」の
イベントに登壇する。
「春の勉強大作戦!」
有料オンラインイベントなのだが、
皆さん、ぜひ。
そういえば、先日
浦和西高校(荻上チキさんの出身校)に通う
姪っ子から進学相談を受け。
早稲田の文学部、文化構想学部などに
興味があるとのことで、
早稲田大学出身の出版業界で働く女性を誘い会食。
勉強の相談にのる。
成績で一喜一憂しており。
早稲田なんて無理と思っていたようだが、
「とても、ワセジョっぽいですよ」
「新入生にいそう」という先輩の声で、
一気に元気になる。
うん、まずは「大学生になりたい」
「ここで学びたい」という動機が大事なのだと。
それを伝えたかったのだけど。
「勉強」について、
よく質問、相談されることなどをもとに、
徒然なるままに書くことにする。
「勉強」という言葉の意味すること、
イメージすること、湧き上がる感情は
人によって異なるということを確認しておきたい。
言うまでもなく、
年齢や立場によって明確に異なる。
中高生の多くは、目の前の定期テストや、
受験勉強を想起するのではないか。
では、大学生にとってはどうか?
こちらは実に多様である。
日々、大学の教壇に立っているほか、
様々な場で大学生を前に
講演する機会があるのだが、
その場での質疑応答、
レポートやアンケートでのコメントを読むと
大学生の「勉強」が意味することは一様ではない。
単位を取得するために、講義に出席し、
課題図書を読み、レポート課題に取り組むこと。
語学の勉強をすること。
資格試験対策に取り組むこと。
読書をすること。
(彼ら彼女たちにとって読んだことのない)
新聞を読むこと。
SPI対策をすること。
フィールドワークに出かけること。
留学すること。
講演会に参加すること。
などなど。
これでも網羅しきれないくらいの振れ幅がある。
これらはすべて「勉強」と呼ばれる。
「勉強する」は必ずしも
「大学で、専門分野に関連して学ぶこと」を
意味しない。
学部生の卒論はテーマや検証方法が大胆で面白くて。
そういえば、リクルートの社内報では
「あの人の卒論」というコーナーがあった。
かなりの振れ幅だった。
お世話になった方のゼミには
「青春はいつ終わるのか?」を研究した学生がいたり。
学部時代のゼミの同級生に、親が画家という人がいて
画商の研究という卒論があったような。
心理学、社会学の卒論は体当たりでデータを
とる人がいて。
ひたすらナンパをして、声をかけまくり
その反応を記録し続けた人がいた。
会社の同期だ。
研究なのか、迷惑行為なのか。
そういえば、宮台真司先生に過剰に憧れ。
サブカルチャーやブルセラに関する件で
一般に知られるようになった頃で。
「宮台真司になるためには、
まずは伝言ダイヤルの
研究をしなくてはならない」と考え、
ダイヤルQ2(なつかしい)の伝言ダイヤルに
メッセージを残しまくった学生がいた。
大学2年の頃の私だ・・・。
卒論でもないのに・・・。
大学のレポートのためでもないのに・・・。
いや、メッセージを残し、
その反応を追っただけで
会いには行かなかったのだけど。
「宮台真司に、俺はなる」と。
月6万円の請求書が届き、海外旅行のために
貯めたアルバイト代が吹き飛び、気づいた。
「これでは、宮台真司には、なれない」と。
なんだろう、
このいちいち、頑張り方が間違っている人生。
まあ、あれも、これも勉強?
「勉強」に関連して
湧き上がる感情も、動機も異なる。
勉強をすることを喜びだと感じる人もいれば、
コストだと感じる人もいる。
ここで教員視点で悩ましいのが「勉強が大好き」で、
前の方の席でかぶりついて講義を聞くタイプの
学生をどう評価するか、どのように接するかだ。
前提として特定の学生のことを評価しているわけでも
頑張っている学生を批判するわけでもないと、
お断りしておく。
一見すると、
理想的な学生像に見えるかもしれない。
ただ、このような学生の中には
先生の話を鵜呑みにし、
批判的思考が苦手という人もいる。
卒論や就活など、自分で問いを立て、
答を出すということが苦手というタイプがいる。
褒められるため、叱られないため学ぶという
人が本当にいたりする。
関連して
何度でも蒸し返されるのが、
「本当の勉強とは何なのか?」問題である。
私が高校時代に直面した青春の悩みだ。
この「本当の○○」論法には気をつけないといけない。
科学、批評を装ったどうでもよい持論が展開されるからだ。
その前提で。
OK、認めよう。
大変に恥ずかしい話なのだが。
人生で、最も勉強したのは、
中学時代だったかもしれない。
とにかく、制服がなく校則が少ない自由な高校、
街(札幌市南区藤野では
都心のことをまちと呼ぶ)にも近い
札幌南高校に行きたかった、と。
南高にさえ行けば、一橋大学で社会学を学び、
ジャーナリストか社会学者として
内地か世界で活躍するという夢を
達成できるのではないかと思っていたのだ。
意識高い。
毎回、授業のノートをとり、帰宅したら
それをわかりやすく、ノートにまとめなおし、
授業の予習、進研ゼミに取り組んでいた。
深夜番組とロック、読書に没頭しつつ。
NHKのラジオ英会話も、
ラジオにかじりついて続くまで続けた。
いや、続いた方だと思う。
もっとも、いざ、高校に入って、
私は「受験勉強」にひいてしまった。
自由な高校だと思って入学したのだが、
皆、普通に受験勉強しているのではないか、と。
端的に言うと、
受験勉強をするとバカになるのではないか。
洗脳されるのではないか。
洋楽と洋画のために、英語だけは勉強したが。
「受験勉強をすると馬鹿になる。
だから、受験は最短距離、必要最低限にして、
本を読もう」と私は考えた。
図書館にある岩波新書を片っ端から読み、
小説を読み漁る、と。
ロックと映画から人生を学ぶ、と。
授業中は、適度な睡眠時間を確保する、と。
数学の答案に小説を書いたこともある。
濃厚なラブシーンを描いたのだが、
「不愉快だ」と書かれていた。
愉快な小説を書けない、自分の筆力を反省した。
受験勉強を本格的に始めたのは
高校の学園祭が終わった後で、
「合格までのスタンプカード」をつくり
「英作文を150時間」など目標を設定し、
こなしていった。
「受験など所詮、暗記だ」と考え、
進研ゼミの超難関国立コース1年分、
赤本の過去問10年分、
センター試験対策問題集を4社分、
問題と答をすべて覚え、なんとか合格した。
もっとも、
「受験勉強をすると、馬鹿になる」と思い、
割り切ってこのように取り組んだのだが。
これぞ、馬鹿になる勉強ではないか。
頭を使う問題は多数あったわけで。
なんで、気合いと根性で、
記憶力だけでやりきろうとしたのだろう。
いや、ここまでやりきった私は、
勉強馬鹿なのかもしれないのだが。
その後、高校時代の恩師、澤田展人先生の
最終講義資料を読んだのだが・・・。
まさにこんな話が飛び出し。
「よい学問」と「悪い学問」に
分けることができるのか?
受験勉強=悪い
興味にもとづく勉強=よい
真理探求のための勉強=よい
出世のための勉強=悪い
という図式は成り立つのか?
「勉強」すること=
普遍的な真理を身につけること
といえるのか?
「勉強」すること=
体制の中に飼い慣らされること
ではないか?
「勉強」という行為はこのように、
単純ではない。
さらに
「本当の勉強」なるものを求めたところで、
誰かの手のひらの上で踊っていたりする。私だ。
いまや国をあげて、会社をあげて
「学び直し」が連呼される。
何のための、誰のための学び直しだろうか。
胸に手をあてて考えたい。
ここまで読んでくれたとしたならば、感謝。
すっかり勉強する気など、
なくしてしまったかもしれない。
ただ、こういう面倒くさい話が好きで。
この手の話に
知的刺激を受けることができるならば、
あなたは勉強好きなのだと思う。うん。
いま、母が上京中だ。
母が人を評価する際にするコメントが
「勉強している」
「勉強が足りない」
というものだ。
いや、勉強じゃなくて研究なのだけど、実際は。
「お前は才能がある。ただ、勉強が足りない」
という母の言葉を胸に、今日も研究室にこもる。