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なぜ「死にたい」は“メディア”になるのか? コミュニケーションとして捉える「死にたい」の意味

なぜ「死にたい」は、現代社会において、とりわけ強力なコミュニケーションの媒体となりうるのか――。

そんな問いを出発点とする本『「死にたい」とつぶやく――座間9人殺人事件と親密圏の社会学』を読んだ。久しぶりに貪るように読みふけってしまう本だった。

この本は、SNSにあふれかえる「死にたい」の声にどう向き合うかを考える本でもあり、自殺念慮を抱えたある2人の対話から始まる。そこで「死にたい」という言葉が、「死にたい」と言動する人同士のコミュニケーションを媒介していること、その“メディアとしての側面”に着目し、話が展開されていく。

僕自身、編集者としてキャリアを積んできて、今は「死にたい」という声や気持ちと向き合う自殺対策のNPOで、編集者として仕事をしている。

編集者の主な仕事は、「情報をコミュニケーション化すること」でもある。だから、心理や精神医療の問題とされることの多い「死にたい」という言動を、コミュニケーションの媒体/メディアといった側面にフォーカスして考えるこの本には、強く惹かれるものがあった。

その意味で「戦争をコミュニケーションから考える」という、僕が大きな影響を受けてきた『なぜ戦争は伝わりやすく平和は伝わりにくいのか』と近いかもしれない。その本との出合いの衝撃は、以下のnoteで記録に残している。

読後に「面白かった」と思える本は多くあっても、後々振り返って「読んでよかった」と思える本はそう多くはない。『「死にたい」とつぶやく――座間9人殺人事件と親密圏の社会学』も、おそらくじわじわと「読んでよかった」と思える本になると感じている。

そのためにも、この本で得たことを咀嚼すべく、自分なりの解釈をたぶんに交えながら、読んで印象的だった箇所や気づきを以下にまとめてみる。


①「失踪」の先にあった座間9人殺害事件

読み始めて個人的にすぐに驚かされたのが、この本が『失踪の社会学』の著者によって書かれたものであることだった。『失踪の社会学』は、たしか2017年の発売直後に読み、のめり込むようにして読んだ本だった。

失踪というテーマへの着眼、失踪者の家族・その家族の支援者など多岐にわたる調査、「失踪=悪」という価値観あるいはその捉え方への問題提起、現代における失踪という“可能性”の提唱。そのどれもに感銘を受けた記憶がある。

最終的に同書では、失踪する行為が、ある意味では自殺の代替手段にもなりえるのではないか、という可能性を提唱している。「死にたい」と感じるほどつらいとき、その原因になっている人間関係から無条件で脱出すること、つまり失踪という行為は否定されるべきものではないのではないか、という提案だ。

日本における行方不明者数は、2023年時点で8万5000人近くいて、この1〜2年でみると増加傾向にあるという。そうした事実からも、失踪という行為が現代社会に求められている、という洞察もあった。

ただこの本が世に出て間もなく起きたのが、座間9人殺害事件だった。2017年に起きたこの事件は、一人で9人もの人を殺害したことや犯行手口にSNSが使われていたこともあり、社会的に大きな衝撃をもって受け止められた。

なぜ事件が起きたのか、なぜ事件は可能になってしまったのか。その一つの要因として、失踪というテーマは深く関わっている。

いま現在、日本国内で行方不明者とされる人たちのなかには、事件の被害者と同じような10代や20代の女性も多く含まれている。それは、「座間9人殺害事件の被害者かもしれない」行方不明者を抱えた家族たちが多く存在することも意味している。

実際に、座間9人殺害事件が発覚してからまもない頃の警察には、「事件の被害者は我が子ではないか」という各地の行方不明者家族からの問い合わせが届いていたという。

そして、「死にたい」という気持ちをSNS上で吐露する人は少なくない。その投稿からコミュニケーションが生まれ、見知らぬ人同士が出会うという出来事もまた、現代においてそこまで珍くはない。

そうしたことから、著者は自身が提唱した「失踪という可能性」のもう一つの側面に言及している。それは、当然のことながら失踪した先が必ずしも安全であるとは限らないことだ。

行為としての失踪を肯定することは、人を、そのようなリスクに晒すことになるのではないか。 座間九人殺害事件の一報は、失踪の社会学者としての私に、このような問題を突き付けることになった。とりあえずここでは、私にとって座間事件は、失踪のような行為が現代において求められているという洞察を裏付けるものである──そうでなければ、「死にたい」と S N Sで言及する若者たちがこうも簡単に白石に誘い出されるとは考えづらいから──と同時に、失踪を肯定するというアイデアの、いわばネガの側面を、極大化して示すような事件であった。

②座間9人殺害事件を可能にしたものは何か?

本書の序盤は「座間9人殺害事件を可能にしたものは何か?」という問いの答えを模索するように、「死にたい」という言動を軸とした背景や要因が語られている。

失踪や行方不明者たちが多くいること、そこには事件の被害者と同じような10代や20代の若い女性も多く含まれていること、またそうした人がSNS上で「死にたい」という気持ちをつぶやき、それがコミュニケーションの媒介にもなっている社会的な土壌を指摘している。

同時に、座間9人殺害事件を可能にしたものとして、事件の犯人である白石隆浩の態度にも言及している。その態度とは「他者の話を徹底的に聴くこと」だった。

それは、被害者たちが他者の話を徹底的に聴く人の存在を欲していた、おそらくは身近に「死にたい」という気持ちを徹底的に聴いてくれる人がいなかったのではないか、ということの裏返しでもある。

その背景には、そもそも「死にたい」という言動が、「生きたい(生きる)」を自明の前提とする一般的なコミュニケーションと噛み合わないことがある。噛み合わないどころか、「死にたい」という言動自体がタブー視されたり、拒絶されたりといったことは珍しくない。

その傾向は、家族はじめ親しい関係性にこそ顕著に現れる。それが本の中では、互いの生/生命への配慮・関心によって維持される「親密圏」と表現されている。

仮に、ある親密圏の中で「死にたい」という言動がある程度可能だったとしても、「死にたい」という気持ちの発露が長期化したり、自傷を繰り返すことが常態化すれば、「親密な関係」の性質上、つまり互いの生/生命への配慮・関心を媒体とした関係性であるがゆえ、解決することに躍起になりすい。ただ解決をめざそうとするのは、むしろ弊害が大きいことも多い。

「死んだらダメ」といった否定や選択肢を奪うようなアプローチが機能しないことは、自殺対策に関わる多くの人が知っている。ただ現実には「生きる」を前提とする一般的なコミュニケーションでは、それらは即時的かつ安直に用いられる言動でもある。

自殺未遂をした経験がある人が恐れているのは、「自分が自殺を考えている」という事実を家族に知られること自体ではなく、「その事実を知った家族の反応」だという。否定や否認、叱責されることで、コミュニケーションの扉が閉ざされるだけでなく、さらなる苦痛を強いることになる。

それらは、多くの人にとっての居場所であるはずの親密圏の「死にたい」に対する構造的な脆弱性を物語るものだ。だからこそ、多くの人にとっての親密圏の外部であるSNSに、「死にたい」という言葉があふれることになる。

そして、そうした現実が最悪なかたちで事件に接続されたのが、座間9人殺害事件だった。

③なぜ座間事件は“記憶に残っていない”のか

ところで、本書の主材である「座間9人殺害事件」について、どのくらい人にとってどの程度、記憶に残っているのか。

一般的に「凶悪事件」と呼ばれる事件でも時間が経てば、その多くが忘れ去られていく。一方で「時代を象徴する」とされるような事件は、多くの人の記憶に残りやすい。

たとえば、“少年A”による神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇聖斗事件)や秋葉原通り魔事件は、おそらく多くの人がそれなりに事件とその内容を思い出すことができると思われる。

では、座間9人殺害事件はどうか。このことについて、著者は次のように語っている。

座間九人殺害事件は、事件が当初、社会に対して与えた強烈なインパクトの割には、私たちの印象にそれほど強く残っていないように見えるのだ。さらに言えば、事件の持つインプリケーションに関しても、現時点では十分に議論されているとは言いがたい。

ここでいう「インプリケーション」とは、座間9人殺害事件が現代社会の構造を考える上で、どんな問題性を含意しているのか、何を示唆しているのかを指す。そして、この本はまさにそれを「死にたい」という言葉から解き明かそうとする本でもある。

座間9人殺害事件が、人々の印象にどれほど強く残っているのかは認識が分かれるところかもしれないけど、個人的には著者の見解に首肯する。自分の周囲でも「その事件ってなんだっけ?」というリアクションを受けることは少なくなかった。

それは一体なぜなのか。著者の考えでは、その理由は座間9人殺害事件の性質、その特殊性によって説明できるという。大まかには加害者と被害者、それぞれの側面から説明されている。

加害者について言えば、「時代を象徴する」とされる連続殺人事件に共通する特徴として、犯人が独特の思想や世界観を持ち、犯行がそれに強く規定されていること。そして、そのような思想や世界観が、同時代のある層を極端なかたちで代表しているように見えること、だとしている。

同時に、それら事件の犯人たちは、いずれも自身の犯行やその動機、思想について語ることに積極的な部分があった。犯人による多くの証言や手記は、研究者や評論家が事件を分析するにあたり格好の資料となり、社会に伝わりやすく情報としても拡散されやすい。

その点、座間9人殺害事件の犯人の白石隆浩は、犯行に至るまでの手口や殺人後の猟奇性は際立っているものの、犯行動機上の思想や世界観はなさそうで、それらを語る積極性もない。

そのことは、座間9人殺害事件の犯人である白石隆浩の人物像にフォーカスされた『冷酷――座間9人殺害事件』(小野一光著)でも語られている。事件の特殊性の反面、その加害者・白石隆浩の人間性は、想定された以上の特殊性のようなものはうかがえなかったという。

被害者の側面としては、座間9人殺害事件のメカニズムとして、被害者たちの言動が大きく機能していることも大きい。この事件は被害者にとって、突発的かつアクシデンタルな出来事ではなかった。それが多くの人の共感を呼びづらかったこと、なにか特殊な世界で起きた事件のような感覚を持たれたことも、印象に残りづらい理由なのかもしれない。

被害者の女性たちは「死にたい」という気持ちをSNS上で表明し、白石隆浩とコミュニケーションをとる状況に自ら身を置いていた。これはもちろん、被害者側の非に言及するものではなく、被害者たちを重要な行為者として捉える上での指摘だ。

「死にたい」という言葉がメディアとして機能することで人と人とがつながり、座間9人殺害事件を引き起こした。その意味では、この事件はあり得なかったはずのケースではなく、現代社会の一つの側面、その日常の延長線上で起こった事件とも言える。

④「死にたい」でつながる展開として考えられること

とはいえ、どれだけ人々の印象に残っていないとしても、座間9人殺害事件が「死にたい」とSNSで言動したことが起点となっていること自体、SNS全盛とも言える現代を象徴する事件だと言える。

当時、SNSが事件の発端となったことを受け、事件直後には、SNSに何らかの規制を設けるべきとする声は多くあがっていた。著者もそんな声を上げた一人だったという。

それは当然ながら、同様の事件が二度と起こらないようにする防止策だ。ただ一方で、 SNS上の他者(とのコミュニケーション)は、「死にたい」と言動する人が、深刻な生命の危機に瀕することを防いでいるのかもしれないといった側面もある。

「死にたい」と言動する者が、SNS上の他者(とのコミュニケーション)によって危険に晒される頻度と、救われる頻度のどちらが上かを客観的に測定するような調査は、現実的には困難である。おそらく両方の出来事とも、表には出てこないような暗数が多すぎるからだ。以上の比較がはっきりしないのに、SNSを規制しようとするのなら、それは利用者の身体・生命の保護以外の、何らかの根拠や感情、規範意識などに基づくものなのだろう。私たちは、凶悪な犯罪が起きたとき、とりあえず何らかのアクションを起こすことで、自身や周囲を「納得」させ、社会の動揺を鎮めようとするものだからだ。 

著者は当時、SNS規制の声をあげたことを振り返りながら、規制するか否かという議論、また「死にたい」と気持ちを発露する人にとっての有効性を問うことは、あまり意味をなさないかもしれないと語っている。なぜなら、その根端には典型的な「生きたい(生きる)」を前提とするコミュニケーションがあるからだ。

世間一般は、「生きる」を前提とするコミュニケーションであふれている。その息苦しさや反動から、匿名で利用されることの多いSNS上には「死にたい」を基軸とするコミュニケーションがあふれている。「#死にたい」とハッシュタグが付けられ、わかりやすくメディア化している現象はその象徴だ。

ハッシュタグを付ける意図は、同じような境遇や精神状態の人に見つかってほしい(つながりたい)というものだと考えられる。では、そうした「死にたい」をコミュニケーション媒介としてつながろうとする現実があること、また座間9人殺害事件が再び起きないためには、社会としてどうすればいいのか。

著者の主張は、ある意味ではシンプルだ。そもそも「死にたい」ほどつらい現実がある場合、その日常から無条件で離脱する失踪という手段を肯定する。ただ失踪した先が安全とは限らず、とりわけSNSを通じて誰かとつながることは危険を伴いやすい。ならば、なるべく安全な「逃げ場」の候補をいくつか考えることはできないか、というのが著者なりの提案でもある。

その一つとして、「死にたい」人同士が集住するシェアハウスの可能性が考察されている。シェアハウスという単語からはかなり突飛な印象を受けるけど、読む進めることである程度の納得感を得ることはできる。

シェアハウスは、「死にたい」と言動しても共に居続けることができる場であり、詳しくは本書を読んでもらうとして、実際に「死にたい」と言動する若者たちがシェアハウスで生活を共にしようとする動向は、少なくとも著者の周囲ではすでに起きているという(そのフィールド調査も本書に収録されている)。

当然ながらシェアハウスに接続されるのは、「死にたい」と言動する人のごく一部でしかない。それでも、座間9人殺害事件のような惨劇が起きうる潜在的可能性がいまだある以上、「死にたい」を媒介としてつながる関係性の展開の一つにシェアハウスがあるのは、興味深いアプローチだと思える。

⑤「死にたい」をめぐるコミュニケーションのあり方

一般的に自殺念慮は、孤立や孤独とも深く関連している。わかりやすく言えば、「孤独だから死にたくなる」ということだ。このような「孤独 」→「死にたい」という因果関係による傾向性はおよそ疑う余地はない。

ただ著者は、この本の議論を踏まえると、逆向きの因果関係も見逃すべきではないと指摘する。それはすなわち、「『死にたい』と言動するから孤独になる」という、「死にたい」→「孤独」のベクトルの因果関係だ。

「死にたい」と言動するから孤立し、そこから生ずる孤独感によってますます「死にたい」という感情が加速する。この循環に陥らないためには、「なぜ『死にたい』と言動するのか」を問うばかりではなく、「『死にたい』と言動することで何が起こるのか」について、アプローチする必要がある。

「なぜ『死にたい』と言動するのか」を問うこと、その問い方や問いの解き方によっては、やはり「生きる」を前提とするコミュニケーションになりかねない。

そうした前提ありきの議論では、「死にたい」という言動をとる人とのコミュニケーションは成立せず、むしろコミュニケーションの扉を閉ざされてしまう。

だからこそ、この本は「死にたい」という言動した結果、何が起きたのか、どんなことが起こりうるのか、そしてそれら言動がなぜコミュニケーションになっているのかを考察している。

そのように、この本全体を通じた著者の問題意識は、「死にたい」をめぐるコミュニケーションにある。それは一般的、とりわけ本来多くの人にとっての居場所である親密圏のコミュニケーションが「生きる」という前提に基づくものに偏り過ぎているのではないか、という問題意識に根ざしている。

座間9人殺害事件以降も、社会一般的なそれらコミュニケーションに大きな変化はない。いまも「死にたい」という言動はSNS上であふれていて、それがメディア性を持つ以上、同様の事件が起きる可能性は否めない。

そうした「死にたい」をめぐるコミュニケーションが変わるのは、決して容易なことではない。個人的には、「死にたい」という声/気持ちへの理解や想像力が個々人の間で広がること、また社会的には自殺問題や自殺対策への関心が高まることで、はじめて変化が起きるものだと思っている。

事件以降、社会的な取り組みが進んでいることもたしかだ。たとえば、それまで「死にたい」という気持ちを相談できる「窓口」としてあったのは主に電話だった。だけど、いまの若年層は電話への馴染みは薄い。そのため若年層が日常的に利用しているSNSやチャットで相談できる相談窓口ができ、その認知も少しずつではあるものの着実に広がっている。

さらに最近では、相談窓口の接続課題や「相談すること」に抵抗感を持つ人を考慮した、これまでとは別のアプローチをとる取り組みも話題になっている。

「死にたい」といった気持ちを抱えながら安心して過ごすことができる居場所として、「かくれてしまえばいいのです」というWeb空間ができ、相談窓口を利用できない/しない(しづらいと感じる)人たちへの選択肢の一つになっている。

また、この本では「死にたい」というコミュニケーションとしてのいわば「負の側面」に主な焦点が当てられているものの、「死にたい」がメディアの側面を有するのなら、逆のアプローチも考えられるのではないか、と個人的には思う。

たとえば、「パパゲーノ効果(主にメディアが自殺を思い留まっている人を取り上げることで大衆の自殺を抑制する効果)」と組み合わせるなどの連関性や可能性の示唆を得たようにも感じている。いずれにしても、今後内容を反芻したり読み返す本になりそうで、この数年で読んだなかでも最も印象的な本の一つだった。

ここで書いてみたのは、当然ながら内容の一部にすぎないし、僕なりの解釈を加えた個人的な備忘録としてのメモでしかない。解釈の部分では、もしかしたら一部で誤読もあるかもしれない。

だからぜひ多くの人に『「死にたい」とつぶやく――座間9人殺人事件と親密圏の社会学』を手に取ってもらい、「死にたい」をめぐるコミュニケーションとその背景にある「生きる」を前提とするコミュニケーション、そしてそれらがもたらす影響について、考えるきっかけにしてもらえたらなと思う。

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