宇野重規著『〈私〉時代のデモクラシー』(岩波新書1240)読む
今年の2月から「西洋政治思想史」のゼミを地元の友達向けに行っている。
もうこれまでに三回開催して、古代ギリシャからフランス革命まで飛び飛びではあるが、西洋の政治思想家たちが作り出してきた考え方を概観してきた。
私がネタ本としたのが宇野さんの『西洋政治思想史』(有斐閣)だ。人文主義の観点から、過去の記録に残された思想家の考え方を宇野さんが一人で通史的に語っている。丁寧に過去の人たちの著作を読み、まとめることを職業として選んだ著者によるものなので、一つ一つ厳密に選んで言葉を紡いでいるのだろう。「読むプロ」の書いたこの本は何度読んでも気づきや相互の繋がりを発見する事ができ、繰り返し読んでいる。
ルソーが「社会契約論」で民主主義の根拠となる考え方を示し、実際にフランス革命後の世界でそれに基づく国家や制度が様々に作られてきた。そして200年が経って、民主主義にも様々な綻びが出ていたり、機能不全に陥っているとしかいえない事象が毎日起きている。
絶対王政や、中間団体を介在させた国づくりでは内乱や国内での群雄割拠が収まらず、ようやく辿り着いたこの「国民全員が統治者であり、かつ被統治者である」という仕組みは、「私たち」という集団を規模の大小にかかわらず、一旦否定して、バラバラな個人に解体することで成り立っている。
そうやって個人主義が成立した。人格形成では自立した個人が理想とされ、経済的にも、政治的にも、自分で判断・決断することが良いこととされ、その考え方を支えるための仕組みがあらゆるところに配備・整備されている。
これは、身近な人たち同士で協力したり、私たちの事柄を議論して何らかの答えを出していくプロセスは不要だ、最小限で良いという考え方と表裏一体だと思う。
こんなことを私自身前から思っていたし、「何とかならないかな、この状況」とも思っていた。
本書は、フランス革命後を生きた貴族のトクヴィルのデモクラシーに関する考え方をベースに、日本の政治状況を踏まえて、バラバラに解体された個人がどう協働の輪を再構築するかについて宇野さんなりの試論を展開されている。
そこで公と私の間のフォーラムとして、古代ローマの都市国家で「アゴラ」という広場に集まって話をしていたことが引き合いに出されている。我が意を得たり、と思った。
ゼミは一旦次回でトクヴィルのデモクラシー論と、ジョンスチュワートミルの自由に関する話をして終えたいなと思っている。ただ、どうやって着地するか、何に繋げていくのかが悩ましい。そんな中で、本書が導きの杖となりそうな予感がある。(要するにまだ固まっていないということでもある)