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嘆き

10月になった。
なった、というかわたしの中では
なってしまった、と言った方がいい。

8月末までパンパンにあった予定をこなした反動か、
9月は全く何もする気になれなかった。
無職の身で現実逃避をしているのにも関わらず、
さらに現実逃避をしていた1ヶ月。
何もしてないのは毎月のことだが、
気力がないからという免罪符をこじつけながら過ごした。
しかし、罪悪感は拭いきれなかった。

日々何かをこなしている人達は一体何をエネルギーにして生きているのだろう。
随分と昔、わたしにもあったはずの持続可能な心のエネルギー、夢や目標。
前回の投稿で言ったように、
1ヶ月それを気にして探してはいたが、探せば探すほど何も見つからなかった。
結局、これほどの休みがあるというのに、
本当にしたいことなんて何も思いつきはしないし、
何の行動もできないのだと改めて思い知ることになった。

例えば食事や睡眠、その他の何かを犠牲にしてまでやりたいことがある人は本当にすごいと思う。
わたしもそんな風な気持ちで日々を過ごしてみたい。
そう思っている時に「器用貧乏」という言葉を久しぶりに目にした。
あぁ、わたしのことだ。と思った。
ある程度のことはやればできるという自負もあり、逆に何も極められたことがない。
幼少期から中途半端癖は治らない。
三つ子の魂はやはり百までなのだ。

わたしがこの現状を打破できないのは、
親のおかげで衣食住が問題なく揃っていることが原因なのではないかと考えたりもした。
どれかが欠けていれば、それを補おうと自分が動かざるを得ないだろうと。
しかし、そんなものは馬鹿すぎる責任転嫁だ。
何年も働いていないのにも関わらず、何も不自由なく過ごさせてもらっていることに対しての最悪な考え。
一瞬でもそう考えてしまった自分に嫌気がさす。
何度も何度も何度も、自分は愚か者だという考えが頭を駆け巡る。
申し訳ない、一瞬でもよぎってしまってごめんなさい。
働いてないのに、のうのうと過ごしてごめんなさい。
大学まで出してもらったのに、親不孝でごめんなさい。
ちゃんとしてなくてごめんなさい。
親のせいではない、全てはわたしが原因だ。


人を本気で好きになってみたい。
唐突にそう思った。
まぁ、別に人じゃなくてもいいんだけど、
何かを本気で、言葉通り、本当に心底好きになったことなんてない気がする。
ある程度好きで、ある程度できて、ある程度で飽きる。
そんなわたしという人生がつまらなく感じる。
一瞬一瞬を楽しむことはできるが、
人を好きになるって一瞬だけで終わらないでしょう?
そんな感覚。
また、持続可能な心の話。
感情がぐらっと動くような、そんなことが起こってほしいと日々望んでいる。(悲しいことではなくいいこと限定で)



今、電車に乗ってnoteを書いている。
わたしは久しぶりのオール帰り。
電車も1ヶ月ぶり。
運転中、車内から見る人々ではなく、
生身の人間がわたしと同じ空間にいて、同じ電車に揺られている。
学校に向かっている学生、同じくオールであろう女性、スーツケースをもって空港へ向かっている人。
みんなそれぞれ人生があるように、この人たちは今現在この瞬間に何を思って生きているんだろうか。
わたしは最近ぼーっとすることしかできない。
運転中も、運転に注意を払う以外はぼーっとしている。
今、電車の中でも、外を見ながらぼーっとしている。
人の話も聞いているようで聞いていない。
話の内容が思い出せない。
楽しかった余韻はもう少し続くものだと思っていたが、一刻も早く早く家に帰りたい。

人間という器の中に魂があるというわけではなく、
ちゃんと全てが自分のものとして生きているはずなのに、
それなのに、それなのにわたしは自分の人生に集中できていない気がしている。
一体この感覚はいつからわたしの中に存在しているのだろうか。


10.4 AM6:30

(イラストを描く気力がないのでまた写真。前半と後半は別の日にちで書いてしまったのでなんだか内容がごちゃごちゃ)

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