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多様性を認める前に、そもそもぼくらは自分が何者であるか分からない

「どっちが大切なのか」と聞かれた時は、たいていどっちも大切だったりする。

きっと仕事も家庭も大切だし、時間もお金も大事だし、結果もプロセスも大事。

選べるものたちは、本来もっとグラデーションがあるはず。

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今はもう、二元論のもとでは選択できない時代。

選択肢があまりにも増え過ぎた。多様になり過ぎた。

おかげで今まで居場所がなかった人たちは、自分の居場所を見つけることができたし、無理やり既存の枠組みに当てはめられて息苦しさを感じる機会も減ってきた。

けれど、同時に、ぼくらは自分が何者か分からなくなった。

何者かであるか知ろうとすることで苦しむようになった。

既存の枠組みに自分を合わせようとする苦しさ、何者か分からず自分の立っている場所が不安定な苦しさ、どちらが苦しいのだろう。

いつの時代も、その時代ならではの息苦しさがある。

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多様性を受容できなかった時代から、多様性を受容しようとする時代へ変わりつつある。

それは決して悪いことではないし、多様性を受容し合える社会はみんなにとって良いものだと思っている。

ただ、多様性を受容し合うことには、「各々が自分の性質や価値観について認識している」という前提がある。

ぼくらは、多様性を受容し合う手前の部分でもがき苦しんでいる。

「そもそも自分は何者なんだろうか」

「自分自身が何者か分からないことさえも受容し合える」ということなら、懸念するに値しないのかもしれない。

ただ、それはあまり心地の良いものではないかもしれない。

「君は君でしかないんだよ」

そう優しく言われて納得できるのだろうか。

理屈は分かる。

この世に一組として全く同じ人間は存在しない、と。

ただ、多様な生き方、あり方がオープンになっている以上、それが五感に触れてしまう以上、悩まずにはいられない。

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自分が何者かを考える隙がないくらい、多様性がなく、画一性に満ちた社会。

その中で生きていくことは、楽だったのかもしれない。

こんな時、自由の持つ“不自由さ”を思い出す。


結局、どんな時代、どんな社会であろうと「自分」をしっかり持って、自分自身が納得する選択をし続けるしかない。

だって、これからの時代、いや今までの時代もそうだったのだろうけど、「正解」なんてものは初めからないのだから。

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おがたのよはく
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