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自分の言葉も、結局誰かの言葉なんだよな

どうあがいても、自分の人生が誰かの人生を後追いするような人生になってしまうのは、他者の影響を少なからず、いや大いに受けているからだ。

突き詰めると、「言葉」だ。

自分の人生も、自分という人間も、言葉によってつくられている。

僕らは言葉を巧みに操っているようで、実は、言葉に操られているとも言える。

文章を書いていると、「結局自分の言葉も、誰かの言葉なんだよな」と卑屈になってしまう時がある。

「結局、誰かの言葉をコピー&ペーストしているだけなのかもしれない。レポートに追われていた大学生時代から何も変わってないや」なんて。

もちろん、自分なりの解釈や伝え方をしているから、そっくりそのまま誰かの言葉を使っているわけではないけれど、ルーツを辿ると自分以外の誰かに行き着くはずだ。

いつも「何者かになりたい」とオリジナリティやユニークさにこだわっているのにもかかわらず、肝心の「言葉」が誰かの二番煎じなんて、そう気づいてしまってから、偉そうに文章を書いている自分が滑稽に思えてきた。

ただ、逆に肩の力が抜けた感覚もある。

「唯一無二なんて無いのだ」と改めて実感したからだ。

どんなアイデアも、どんな言葉も、「本当の“無”から生まれた」なんてことはないのかもしれない。いわゆる0→1というやつ。

無意識にでも、どこかで何かの刺激を受けていたりインプットをしている。

頭の中で点在している無数のそれらが、アイデアを考えたり言葉を考えたりしている時に、たまたま選ばれし点と点が線になり、その人の“オリジナルとして”アウトプットされる、そんな感じだろうか。

自分にしかない
自分だからこそできる
自分しかいない

僕らは、オリジナリティやユニークさにこだわり過ぎている。

だから、苦悩し、絶望する。

「自分には何のオリジナリティもユニークさもない、何者でもない」と。


自分を何者でもない者に仕立て上げていたのは、実は、紛れもない自分自身なのかもしれない。

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おがたのよはく
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