無駄を楽しめた方が良いのは、人生がそもそも無駄だからか
「無駄だと思うことでも楽しめた方が良い」
と、生きていて何度か聞いたことがあるけれど、分かるような分からないような気がしていた。
確かに、その方が何かとハッピーな気がする反面、限られた人生の中で無駄なことに時間を使うのってどうなんだろう、という疑問が残っていた。
けれど、よくよく考えてみると、大前提である「人生」がそもそも無駄である。
どうせ死ぬのに生きているわけで、生きている間に得たものは有形無形問わず、死んでしまったら自分の元には一切残らない。いや、もはや「自分」という概念すら残らない。
この世に生を受ける、それはつまり、全てが無駄になる運命を背負うことを意味している。
そんな、神の視点からすると一見無駄にしか見えない営みを、ぼくらは日々一生懸命に行っている。さぞ滑稽に見えているだろう。
ただ、「人生とは無駄な営みである」という前提がもしあるのだとすれば、冒頭の言葉の意味が変わってくる。
「無駄だと思うことでも楽しめた方が良い」
結局無駄なのだから、それならば、楽しめた方が良いに決まっているのだ。
人生は数日で終わってしまうような短いスパンの話ではないから。
望んでいたかはさておき、「人間」として生を授かったのだから、自分が思う人間像の通りに、自分なりに生きていけば良い。
そうやって一つひとつ、無駄なことが“決して無駄ではないこと”になっていく。
「何か」に意味を見出せるかどうか、楽しさや喜びを見出せるかどうか、それらは自分次第だから、「初めから無駄なこと」はもしかしたら存在しないのかもしれない。
どうせ無駄だからただ日々が過ぎるのを待つ、それではあまりにも退屈だ。
決して楽しんだり喜んだりする必要はない、意味を見出そうとするかどうかなんだと思う。
見出せるかどうかではなく、見出そうとするかどうか、意思や姿勢の話だから、きっと誰にだってできるはず。