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“感じたものが何だったか”を、振り返らないと

流行りの曲や映画、コンテンツ、流行っているものには流行るだけの「理由」が必ずある。

どんな理由であれ、流行るということは「良い」ということなのだろう。

みんなが「良い」と思うものを消費しようと思ったら、消費する前から「これはきっと良いものだ」と思い込んでしまう。

たとえそれが微妙なものだったとしても、何となくしっくりこなかったとしても、「いや、これは良いもののはずだ」と、どこか自分自身を納得させようとしてしまう場合さえある。

それを「良い」と思えない自分が嫌だからなのか、はたまた、友達やフォロワーとの関係性にヒビが入ってしまうからなのか、それを「微妙だった」とは決して発信できない、窮屈な社会がそうさせているのか。

みんなが「良い」と思うものに「良い」と思えなくても、それは悪いことではない。

何かに対して、“こう感じなければいけない”といった決まりはなく、何を感じるかは人それぞれだ。

そんなこと、こうして書くまでもなく当たり前のはずだ。

「今は大手よりベンチャーだ」
「結婚は良いことだ。人生においてすべきことの一つだ。」

誰だって、盲目的に世論に流されたり、自分の所属するコミュニティの大多数に引っ張られてしまう時はある。

それが本意ならば何の問題もない。

もし、本意ではないなら、少しでも違和感を感じたのなら、そこから目を背けない方が良い。

感じてしまったことは、もう取り返しがつかない。

感じたことを、自由に、都合よく解釈することは簡単だ。

ただ、感じたことそれ自体を変えてしまうことはできない。

ごまかすことはできても、無かったことにはできないのだ。

だから、“感じたものが何なのか”の答えこそ、自分らしさが最も出るし、最も信用できるものなのかもしれない。

何を感じるも感じないも人それぞれ自由だから、別に何だって良い。何でも感じてしまえば良い。

大事なのは、「感じたものが何か」に耳を傾け、それをないがしろにしないことだ。

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文章を書いていると、「うわぁ、当たり前のことしか書いてねぇ自分」と感じることが多々ある。

自分の文章は特にそんな気がしていて、当たり前ばかり書いている自分を嫌に思ってしまう時もある。

もちろん、自分にとって当たり前なだけで、それが当たり前でない人もいるわけだから、そういう人に一つの「気づき」として受け取ってもらえれば、それで良いのだけれど。

「当たり前を書く自分が嫌だ」

と感じていること自体は事実なので、年末のこの機会に耳を傾けてみるしかない。


今の時代、誰が何を発信しても、誰かの二番煎じになってしまうのは避けられない。

「そんなの当たり前だよ」と思われるリスクを背負う覚悟が、少なからず必要ってことなのだろう。

当たり前のことでも、様々な切り口で発信できる技術やクリエイティビティが欲しい。

来年は、本気出す。


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おがたのよはく
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