日本のシルクロード、村山
以前、立川市砂川町の養蚕痕跡を訪ねるexploreをしました。
この記事にも書きましたが、砂川は養蚕で栄えました。
享保年間(1716~1736)には既に養蚕が始まっていて、自分の家用やごく近所に売る為に、くず繭やくず糸を使った、"砂川太織り" が織られていて、江戸末期から明治時代になると評判となり、そうなると道具も改良され益々盛んになって、明治22年(1889)の時点で、実に村内の農家の85%にあたる500戸で機織が行なわれていたということです。
迅速測図(1880〜1886)を見てもこの通り。
そもそもこの砂川村、江戸期の新田開発で出来た村です。
家康が江戸入府して間も無い1609年に申請が出され、実際は、1627年から新田開発が始まったと言われています。
1627年というと、まだ、玉川上水が開かれていません(1653年です、完成したのは。)。
はい、僅かに流れる残堀川を頼りに新田開発したのでした。
この新田開発をしたのが、狭山丘陵の南麓、村山郷の村野氏でした。
この村野氏、村山党の一派ということです。でしょうね。ここの豪農ということは。
村山郷と砂川の関係性が現れているのが阿豆佐味天神社です。
ご存知の方も多いと思いますが、阿豆佐味天神社は嘗ての村山郷にあります。
新田開発に伴い、地元の古社、村民の心の拠り所、阿豆佐味天神社を、1629年に、砂川に分祀したのです。
村山郷の阿豆佐味天神社と砂川の阿豆佐味天神社の位置関係を見てみましょう。
武蔵野原野に、2つの阿豆佐味天神社を結ぶ、一本の直線、道、がありますね。村野氏率いる村山郷の人達は、この道を通って新田開発したことが分かります。
さて、村野氏率いる村山郷の人達は、新田開発しただけではありません。
このレポートにも書いたように、村山郷は渡来人のエリアで、この渡来人達が養蚕を持ち込み、養蚕が盛んだったのです。
はい、つまり、村山郷で養蚕に勤しんでいた人達が、新田開発で砂川に来た、だから、砂川でも養蚕が盛んになった、そういうことです。
ということで今回は、村山郷の養蚕痕跡をexploreしたいと思います。
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多摩湖自転車歩行者道で多摩湖まで。先週から続く大寒波で、日の出と共に出発、という気になれません。8:30頃出発、せっかくなので狭山湖北岸のグラベルをまずは楽しみます。
六道庚申塚から、村山党村山氏と宮寺氏が行き来したであろう道で狭山丘陵の南側に出ます。
最初の訪問地は耕心館です。江戸時代末期築造の豪農の家です。勿論、養蚕も営んでいました。
日光街道を戻り、狭山神社です。ここには機神社があります。
稚日女尊は、記紀で、斎服殿で神衣を織る、という形で登場します。
栲幡千々比賣命は、瓊瓊杵命の母で、機織りの神。
天棚機姫神は、天の岩戸に隠れた天照大御神に織物と神衣を奉納する、という形で記紀に登場します。
三柱共に、バリバリの養蚕神、って言うか、機織りの神様ですね。
はい、この辺りの特徴を表してるんじゃあないでしょうか。この辺りは最終成果物である織物が盛んでしたから。
更に南に下って円福寺です。ここでは毎年正月にだるま市が開かれています。
ここにも書きましたが、だるまも養蚕守護神です。
先を行きましょう、旧青梅街道よりも一本山裾の旧道を行きます。阿豆佐味天神社を過ぎて直ぐの所に須賀神社があり、蚕影神社が合祀されています。
近くに蚕影山があってその山頂にあった蚕影神社を、やがてここに合祀したということです。
この須賀神社の奥は谷戸で、野山北・六道山公園(里山民家)もあります。行ってみましたが、予想より良かったです。
戻りまして禅昌寺は、村野氏の菩提寺でした。阿豆佐味天神社も直ぐそこです。ここから砂川に出ていったんですね。
先を行きましょう、三ツ木村からは旧青梅街道に入り旧横田村に熊野神社があり、その境内社に蚕影神社があります。
先を行きましょう、旧中藤村に入りまして、愛宕神社です。
ここには、江戸時代、修験道の精進堂があり、その中に祀られていた蚕影神社がありました。
先を行きましょう、旧蔵敷村に八幡神社があり、ここにも蚕影神社があります。
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如何でしたでしょうか。
色濃く、養蚕痕跡が残っていましたね。
また、狭山丘陵は久し振りの訪問でしたが、やっぱり良いですね。長いグラベルと里山が。
渡来人、村山党、養蚕と、多層的な時空を超えたexploreも楽しめます。
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