目黒に、盛者必衰の理、を見た
目黒は、第三代天台座主慈覚大師円仁所縁の地です。
有名な目黒不動尊を始め、
この他、蛸薬師こと、不老山薬師寺成就院(858年), 経王山文珠院 圓融寺(円融寺) (853年)を開いています。
この円融寺ですが、元の寺号は法服寺で、1283年、日源が、日蓮宗に改宗し、寺号も法華寺に改めました。
何故日蓮宗に改宗したのか。
円融寺の東縁の道をほぼ真南に行くと(古道が残っています。), 池上本門寺に行き着きます。
池上本門寺は日蓮上人御入滅の1282年に開かれました。法服寺が天台宗から日蓮宗に改宗されたのがその翌年1283年ということですから、宗教戦争と言ったら大袈裟ですが、日蓮宗と天台宗の勢力争いが起こったものと思われます。日蓮上人御入滅の地ですから、日蓮宗の聖地にしたかったものと思われます。
法華寺はその後、江戸時代に入ると、3万7千余坪の境内に十八の坊舎を擁し、末寺は75ケ寺を数え、寺領19石の朱印状を与えられ、将軍の鷹狩では御休み所に供されたという程に、江戸近郊屈指の名刹となりました。
しかし、1691年の幕府の不受不施派廃絶運動によって、1698年、元の天台宗に戻ったのでした。400年の、兵どもが夢の跡、だったのです。
安永から寛政にかけて(1772 - 1801), 円融寺の仁王様が、"碑文谷仁王" と呼ばれ、江戸庶民の信仰を集め、参拝客で大いに賑わったと言います。
後地交差点は、目黒不動尊と円融寺へ向かう追分で、今もここに道標が残っています。人気を二分していたんですね。
日蓮宗は、円仁が開いた歴史ある天台寺院だった法服寺を、見事、狙い通りに、日蓮宗に改宗しましたが、その後、幕府の弾圧によって、天台宗に戻されてしまいました。
正に因果応報、諸行無常、盛者必衰ですね。
更に興味深いのは、天台宗に戻った後、仁王様で、目黒不動尊と二分するほどの人気となったことです。日蓮宗時代に作った仁王様で。
お釈迦様は天からこれを見てどう思ったのでしょうか。