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「生きてるだけで偉い」を解説してみた
「生きてるだけで偉い」というフレーズがある。
メンタルを病んでいる人、苦しい状況に置かれている人にとっては"ありがたいお言葉"だ。
しかしながら、「生きてるだけで偉い」と言われても「なぜ?」と思ってしまう僕のような人間も少なからず存在する。
ある程度の根拠がないとモヤモヤしてしまうわけだ。
もちろん、このフレーズに救われる人もいるはずだが、
一部の人間に効き目がないというのはなんだか勿体ない。
そこで今回は僕のような理屈が必要な人間のために「生きてるだけで偉い」に僕なりの理屈をつけてみる。
「生きてるだけで偉い」の違和感
「生きてるだけ」なんて言われると、なんだか偉くあるための条件である「生きてる」に行為を感じない。
どういうことかというと、
『稼いでるからとか人を笑顔にさせているからとかじゃなくて「生きてるだけで偉い」。』
というように、枕詞が存在しているような気がしてしまう。
さも「生きてる」=「何もしていない」であるかのように感じるということだ。
それに、そもそも「偉い」とか上から目線な感じもする。
なぜ「生きているから偉い」ではなく「生きているだけで偉い」なんだろう?
生きていることが偉いと思っている人は「生きているだけ」なんてお粗末な扱いはしない。
しかし、逆に生きていることが偉くもなんともないと思っている人は
「生きているだけで」までは言えても「偉い」なんて言わない。
そう考えてみるとこのフレーズって起こり得ない言葉に思えてなんだかおもしろい。
でも考えてみると、
生きてることが偉いと感じている人が
「僕なんて私なんて生きてるだけだし、なんにも偉くないよ」と感じている人に向けて作ったメッセージだということを踏まえるとどうだろうか。
つまり、「僕なんて私なんて生きてるだけだし」という価値観に対するアンサーとしてあえて、「生きてるだけ」という言葉を引用しているのではないのかということだ。
それだと辻褄が合う。スッキリする。
まてまて、それじゃ「偉い」という上から目線はどうなんだ。って感じだけど、これも考えてみると良い答えが出た。
「生きてるから偉い」と思えるにはそう思えるような体験が必要だ。
普通の人は「生きてるから偉い」なんて思えない。
なぜなら、生きることにそれほど労力を必要としないからだ。
大きな問題にぶち当たることもなくぼけーっと人生を過ごしてる才能や環境に恵まれた人間も少なからずいる。
そういう人の多くは「生きてるから偉い」なんて思えないだろう。
ようするに特定の体験を経ることで初めて「当たり前」から抜け出せるということだ。
そのような体験をした人が過去の自分と同じ状況にある人を見るとどう思うだろうか。
おそらく愛おしく思えるのではないだろうか。
「あぁ、自分もそんな時期があったなぁ」なんて思いつつ温かい目で見てくれるのではないだろうか。
応援してくれるのではないだろうか。
そう考えると上から目線なのも頷ける。
これは実際にその人はそれを体験して乗り越えたのだから上からものを言うのも納得という話ではなく、
上は上でも親、先輩、師匠、親分のような気持ちなんだということだ。
ということでこの「生きてるだけで偉い」という言葉の違和感は解消された。
「生きてる」とは
『なぜ「生きてるだけで偉い」のか』を考えるためには
まず「生きてるだけ」という状態が何なのかを明確にする必要がある。
「生きてる」とは継続中の行為だ。
「生きてる」とは「死んでない」ということでもある。
「死んでない」のは「死なない」という選択肢を選び続けているということだ。
ここからは、
・「死んでない」という負の側面
・「生きてる」という正の側面
から見た『「生きてる」という状態』を解説した後、最後に別の観点からも1つ理屈を添えておく。
①感性・理性・本能の壁
僕らは「死なない」という選択肢を選び続けている。
「死なない」という選択肢を選び続けているというのはどういうことなのかを構造を踏まえて解説する。
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僕らには、感性と理性がある。
嬉しいとか悲しいとか悔しいとかの感情や感覚全般を含む感性。
理屈を担当する理性。
感性は素早い。外部から刺激を受けたとき、僕らはまず感性でそれを解釈する。
続いて、後追いで理性によって再解釈することで現象を把握する。
危機的状況で僕らはまず恐怖を感じる。
その後、状況を理解して逃げたり立ち向かったりする。
というように、感性と理性は僕らの命を守る壁として機能する。
そして、その壁を突破された後に残るのは本能の壁だ。
ここで、自ら命を絶つ人の一連のプロセスを考えてみる。
自ら命を絶つプロセス
1.悲しい、苦しいと感じる(感性)
2.悲しみや苦しみを増長させる理屈しか持ち合わせていない(理性)
3.ずっと悲しいし苦しい(感性)
4.この悲しみや苦しみから逃れたい(感性)
5.方法論の1つとして自殺がよぎる(理性)
6.自ら命を絶つのは怖い(本能による防衛)
自ら命を絶つ状況を回避するプロセスとしては、
・悲しみや苦しみを自分で処理する。
👉️理屈で納得させることで増長を抑えて、少しずつ受け入れる。
・医師を頼り、処方された薬によって悲しみや苦しみを軽減する。
・悲しみや苦しみを誰かに話して受け止めてもらう。
・美味しいものを食べたりすべてを投げ出して無理やり休暇を取って負の感情を消化する。
・怖くて死ねない。
というように、感性・理性・本能の壁が機能するタイミングがいくつか存在する。
僕らは
1.悲しい出来事が起こる
2.悲しい出来事を感情に変換
3.感情に支配される
4.何らかのアクションを取る
5.感情を解消
というプロセスを通して、悲しい出来事を受け入れることができる。
そういう意味で、感性は壁として機能すると言える。
理性は、感性の増長を抑えたり、根本の原因を解消したり、原因から遠ざかるために機能する。
理性が自分の味方をしてくれないと、
ぐるぐる思考に陥ることで悲しみや苦しみがループしてしまい、
もともと受けたダメージよりも多くのダメージを継続して受けてしまうことになる。
まずは、このループを起こさないようにすることが肝心だ。
本能は、一番奥深くに陣取っているだけあってとても心強い。
感性・理性の壁を突破したあとも必死になって僕らを守ってくれる。
という感じで深く追求してみると、
「死なない」という単純に思える状態も、
いくつかの壁がしっかりと機能している結果だとわかる。
僕らの心の中の感性ちゃんや理性くん、本能きゅんが一生懸命になってるって考えたら素敵やん?
偉いやん?
と思えないだろうか。
美しいとさえ思える。
なぜそう思えるのかを考えてみると、
それは人間が持つ機能として「正しい」からだ。
もし、悲しみや苦しみを抱えている人や自殺したい人のように自分を嫌いになってしまっている人がいたとしても、
死なない選択肢を取り続けている、正解を選び続けていることの正しさによって
その人自身は肯定されるということだ。
だから「生きてるだけで偉い」。
②集団の一部
僕が好きな理論に、人間媒体論がある。
「人間とは媒体である」という考え方だ。
これは、様々な思想とマッチする。
例えば、
◯「万物の根源は水である」という古代ギリシャの哲学者タレスの思想
◯諸行無常・諸法無我という仏教の思想
諸行無常:世の中のあらゆるものは常に変化し、永遠に不変のものは存在しない
諸法無我:世の中のあらゆるものは、相互に影響を与え合って存在しており、独立して存在するものは存在しない
◯アドヴァイタ(不二一元論)
究極的な実在は単一であり、分離や区別は幻想にすぎないという思想。
「単一の究極的な実在」を前提とするものの、すべては「単一の究極的な実在」なので本質的に同じ。
◯岡田斗司夫の「人間は文化の構成要素=媒体である」という理論
・『受け取って』『考えて』『真似して』『伝える』
・リチャード・ドーキンスの『ミーム』の概念(ミームとは、「脳から脳へと伝わる文化の単位」)
人間はジーン(遺伝子)やミーム(文化)を伝えるための機械・媒体
◯シミュレーション仮説(この世はシミュレーションである=人間はシステムの一部である)
◯一は全、全は一(鋼の錬金術師)
◯「俺達は呪術師だ」
「俺と、お前と! 釘崎! ミスター七海!」
「あらゆる仲間、俺たち全員で呪術師なんだ」
「俺達が生きている限り、死んでいった仲間達が真に敗北することはない!」
「罪と罰の話ではないんだ」
「呪術師という道を選んだ時点で、俺達の人生がその因果のうちに収まりきることはない」(呪術廻戦)
ちなみに、僕の「構造哲学(Youtube)」と「石橋を叩いてい渡る哲学(note)」もこの人間媒体論を支持している。
この人間媒体論を前提とすると、
僕らの価値は本質的には「媒体」だということ自体にある。
つまり、俗にいう稼げるとか人気があるとかは全く本質的な価値ではなくどうでもよいということだ。
偶然、2000年代までの競争社会に生まれただけで、
・稼ぐやつが偉い
・賢いやつが偉い
・強いやつが偉い
・勝つやつが偉い
のような未来には存在しないであろう一時的な競争によって支えられる価値観に翻弄される必要はない。
僕らの本質的な価値は「媒体」にある。
生きていれば「媒体」として機能する。
だから「生きてるだけで偉い」。
参考:
③そんな世界は嫌だ
正負それぞれの側面から「生きてるだけ」という状態を明確にすることで「生きてるだけで偉い」について納得できた。
これで十分だと思ったが、ふと思いついたので最後に別の観点での理屈を載せておく。
人間には理想がある。
当たり前のことだ。
自分や相手に理想を抱いたり、未来に理想を抱いたりする。
世界に対して理想を抱くこともごく自然だ。
「もしもボックス」というドラえもんのひみつ道具も「理想の世界」あっての話だ。
これは今までのような込み入った話ではない。
もっと単純な話だ。
「偶然生まれた時代に流行っている特有の価値に関連する何らかの成果を挙げていないと生きていてはいけない世界」
なんて誰が望む?
そんなスパルタな世界、誰だって嫌だ。
ただの地獄だ。
誰もが優しい世界を望んでいる。
これは間違いない。
ただ、今の時代の技術ではすべての人を幸福にできない。
したがって、自分・家族・仲間・村・街・国のように優先順位が発生し、結果的に現在の惨状となっている。
全員が幸せになれるボタンがあるとすればプーチンだろうがゼレンスキーだろうがそのボタンを押すだろう。
少し話が逸れるが、
身近なところでは、SNSで生活保護の人が叩かれてたりする。
勘違いしがちだが、実は弱者を叩いているからといってその人が地獄の世界を望んでいるわけではない。
人間には、防衛機制という抱えたストレスに対処する機能が備わっている。
防衛機制にはさまざまな種類があるが、それぞれ品質がピンからキリまである。
中には「置き換え」という八つ当たりをするものもある。
抱えたストレスを無関係の人にぶつけるというものだ。
ストレスを発散するための行為であるため、強者を狙って攻撃することはまずない。
なぜなら、反撃を喰らえばまたそれがストレスになり本末転倒だからである。
よって、基本的には弱者がスケープゴートになる。
このように、実際に地獄絵図に見える現象も構造を把握するとしょーもない生理現象の結果だったりする。
もしも何らかの方法で置き換えを行う人のストレスを事前に軽減できたとしたら、そのようなことも起きないのだ。
時代とともに技術は進化する。
そうすると、「何らかの方法」もいずれ発明されて今よりも平和な世の中になるだろう。
人間の醜さを技術で抑制できるようになるまでは
「人間なんてそんなもん」と受け入れつつ、
無駄に世間の価値観に左右されず、ただ媒体として生きていれば良い。
話をもとに戻すと、
僕らが生きていれば少なくともスパルタの世界に近づくことはない。
死なないということは「そんな世界」にならないように戦っているということだ。
だから「生きてるだけで偉い」。