小学生向け 読書感想文 「嫌われる勇気」その16 ※私の見解も含めて、小学生向けに分かりやすく紹介しています。
「「課題(かだい)の分離(ぶんり」とはなにか」
たとえば、勉強(べんきょう)をしない子どもがいたととしよう。授業(じゅぎょう)は聞かない。宿題(しゅくだい)もやらない。
こういった子どもに対(たい)して、無理(むり)やり勉強をさせようとする親(おや)が多(おお)い。塾(じゅく)に行かせたり、宿題(しゅくだい)を終(お)わらせるまで、ご飯(はん)を食べさせないとかね。
この「勉強する」という課題(かだい)があったとき、アドラー心理学(しんりがく)では、「これは誰(だれ)の課題(かだい)なのか?」という観点(かんてん)から考(かんが)えていくんだ。
子どもが勉強するかしないか、友だちと遊びに行くのか行かないのか。これを決めるのは「子どもの課題(かだい)」であって、「親(おや)の課題」ではないよね。
僕たちは、「これは誰の課題なのか?」という視点(してん)から、自分(じぶん)の課題と人の課題を分けていく必要(ひつよう)があるんだよ。
分けたら、人の課題には踏み込まないようにする、それだけなんだ。
あらゆる対人関係(たいじんかんけい)のトラブルは、人の課題(かだい)に土足(どそく)で踏(ふ)み込(こ)むこと、あるいは、自分(じぶん)の課題に(かだい)に土足で踏み込まれること_によって引き起(お)こされているんだ。
ある課題があったときに、その課題が誰の課題かを見分(みわ)ける方法(ほうほう)は簡単(かんたん)なんだよ。「その選択(せんたく)によってもたらされる結末(けつまつ)を最終的(さいしゅうてき)に引き受(う)けるのは誰(だれ)か」を考えればいいんだ。
子どもが勉強(べんきょう)をしないという選択(せんたく)をしたとき、それによってもたらされる結末(けつまつ)を最終的(さいしゅうてき)に引き受けるのは親(おや)じゃないよね、間違(まちが)いなく子どもだ。つまりここでの勉強とは、子どもの課題なんだよ。
よく、親は「あなたのためを思って」という言葉(ことば)を使(つか)うことがある。だけど、親は明らかに自分(じぶん)の目的(もくてき)、____それは世間体(せけんてい)や見栄(みえ)、支配欲(しはいよく)かもしれない_____を満(み)たすために動いている。
かといって、アドラー心理学は、子どもを放任(ほうにん)しろといっているわけではないんだ。子どもが何をしているか知ったうえで、見守(みまも)ること。勉強だったら、それが本人(ほんにん)の課題(かだい)であることを伝(つた)え、もし勉強したいと思ったとこにはいつでも援助(えんじょ)する用意(ようい)があることを伝えておくんだね。
ある国に、「馬(うま)を水辺(みずべ)に連れていくことはできるが、水を飲(の)ませることはできない」ということわざがある。アドラー心理学もそういったスタンスなんだよ。
自分の人生(じんせい)を変えることができるのは、自分しかいないんだ。
今日はここまで。次は、「他者(たしゃ)の課題(かだい)を切り捨てよ」について説明(せつめい)していくね。
それではまた明日!
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