「ファミリーランド」澤村伊智
私は両親のことが大好きだ。
一人娘として育てられ、愛情を受けて育ってきた。
母と父方の祖母の関係も良かった。ネグレクトもなかった。勿論毒親でもない。晩婚や介護は、未だ経験していない。
そんな私にとって背表紙に踊る未知のワードは、非常に興味をそそった。
「ファミリーランド」は、6つの短編小説から成る短編集。
コンピューターお義母さん(嫁いびり)
翼の折れた金魚(ネグレクト)
マリッジ・サバイバー(晩婚)
サヨナキが飛んだ日(毒親)
今夜宇宙船(ふね)の見える丘に(介護)
愛を語るより左記の通り執り行おう(○○)
正直に言うと、ここまで近未来的な話だと思っていなかったので、最初の「コンピューターお義母さん」で度肝を抜かれた。
何しろ小説の出だしがなんともアナログなのである。
アナログな始まりとは裏腹にこの話の主人公はテクノロジーにゴリゴリに縛られていた。
ギャップに頭が追い付かず「あれ、私読み飛ばしてないよね」とページを確認してしまった程だ。
このゴリゴリのテクノロジーは最後の話までゴリゴリのままである。
帯にもあるように「いちばん怖い」と書かれているのは嘘ではなく、ドラえもんのような平和で非現実的なテクノロジーは一切出てこないし、なんなら数十年後には当たり前の物になっていそうなものばかりだから余計恐ろしい。
「今夜宇宙船の見える丘に」は、読み終えた時なんとも言えない感情に心を支配された。
直接的な表現がこれまた生々しく、複雑な感情に輪をかける。
これから先自分も同じ状況になるかもしれない、と背中がムズムズするような、読み進めたくないような、あまりにも残酷なテクノロジーに苦い顔をしながら、そんな気持ちと裏腹に好奇心は止まらず、寧ろ急いでいるかのように読み進めてしまった。
「サヨナキが飛んだ日」と「今夜宇宙船の見える丘に」は、医療についても深く関わっている。
今の当たり前の医療がどう変わっているのか、是非確かめて欲しい。ここに描かれる医療は人間にとって良い物なのか悪い物なのか、それを題材に白熱するディベートが開けるだろう。
全ての短編に共通するのは現代人から見れば有り得ないテクノロジーが「当たり前」になっていることだ。
作中に出てくる人間たちは、人によっては疑問を持ちながらもそれを受け入れている。
恐ろしいなと思ったが、思ったのだが…
今から100年前、大正時代の人間たちが現代にタイムスリップしたとしたら、やはり私と同じように感じてしまうのだろうか。現代人にとっての「当たり前」が「恐ろしい」に変わってしまうのだろうか。
「愛を語るより左記の通り執り行おう」に関しては、短編集の最後を飾るに相応しいテーマを扱った小説だった。
敢えて○○と書いたが、これは受け取り手によって変わるだろう。ネタバレにもなるので触れないが、私はこんな未来は来て欲しくないと素直に思った。
日本人が、というより人類が誕生した時から大切にしていたものがとうに崩れてしまっている未来を覗いてしまったような気がした。
この短編集にはホラー小説や怪談のようなファンタジー的な怖さは一切ないが、本当にこうなるかもしれないという現実的な恐怖が散りばめられている。
どの人物も一般的な価値観を持っている普通の人達なのだが、その普通はとても不気味で理解し難い。
不思議なことに最初は「いやいや、まさか、こんなことあるわけない」と思っていたのがいつのまにか消えてしまうのだ。
読み進めるうちに読者自身が未来の当たり前を無意識のうちに刷り込まれている、そんな読書がもたらす思考の変化に対しての畏怖も同時に感じた。
私はそこまで機械に強くないし、AIが描く絵や、最近話題のchatGPTやメタバース、仮想空間、そういうコンテンツには馴染みがない。
ただ急速に拡がっていくこれらを見ていると、恐ろしいと感じた「ファミリーランド」の世界は自分が思うよりすぐそこまで近付いているのかもしれない。
テクノロジーに支配されて当たり前の世界。
生活が豊かになると思うか、人間の尊厳が失われると思うか。あなたはどう感じるだろうか。
是非、この薄ら寒い恐怖を体感してほしい。