「〈パリ写真〉の世紀」(今橋映子著、白水社)
永らく積読本として放置されていた本書をようやく読了。絶版本を中古購入したものだが、本書を知ったきっかけは数年の経過で失念してしまっている。そして写真を主題とするものでは類稀な良本であり、これまで手に取らなかったことがいまさら悔やまれる。(小生は(旧)京都造形大学通信教育部 写真コース2020年度卒)
タイトルの示す通りパリを被写体とした「都市写真」を作品とした写真家の仕事を出自、作品(主に写真集に主眼)、言葉のあらわしとの関係をめぐってゆく。全12章+序章・終章、厚くて、そして重い。
扱う写真家は、ウジェーヌ・アジェ(フランス)、アンドレ・ケルテス(ハンガリー)、ジェルメーヌ・クルル(ポーランド)、ブラッサイ(トランシルヴァニア)、モイ・ルイヴェール(リトアニア)、ロベール・ドアノー(フランス)、ウィリー・ロニ(フランス)、イジス(リトアニア)、アンリ・カルティエ=ブレッソン(フランス)、フランク・ホーヴァット(イストリア)、エド・ファン・デル・エルスケン(オランダ)、ヨハン・ファン・デル・コイケン(オランダ)、ウィリアム・クライン(アメリカ)など。また写真家と同位に重要なのが詩人(アンリ・ミショー、ジャック・プレヴェール、ブレーズ・サンドラール)の存在である。写真集で詩と画像のレイアウトであったり、そもそもの企画段階から共同作業を行ってきたことが知れる。2大戦間および戦後の流動的なパリでのアーティストたちの交流が調査により明らかになっている。当時パリ在住のピカソ(試作品もあり)、ヴァルター・ベンヤミン、ル・コルヴィジェの都市考察も交わってくる。そして「バルト、ソンタグ、ベンヤミン、ブルデューという、写真批評で多用される「四種の神器」をあえて使わずに出発し、なおかつだからこそ彼らの啓示力に打たれたことも認めねばならない。」(あとがき)ともある。
20世紀初頭の流動的なヨーロッパで、上記作家の出身地からも憶測できるように主に東欧出身の彼ら・彼女らがパリにて行った仕事だからこその部外者の眼、またはフランス人作家であっても、歴史遺産的な城壁によって区分されるパリのヒエラルキーが作品(そもそものポリシー)に反映される。
作家名、作品の一部は知っていた(つもり)が、本書を読むと作品の見方がが大きく変わる気がする。彼らの作品を再度見たいと思わせる。
また、当時の潮流のシュールレアリスムとの関係もよく考察されている。よくある話かもしれないが、アジェ='無意識'という構図で説明されるが、アジェ作品のどこが'無意識'なのかよくわからない(小生の場合はそうであった)、事象があると思う。これはマン・レイ(実際の主格はアシスタントであったベレニス・アボット)がアジェを評価したところから、マン・レイ=シュールレアリスム、シュールレアリスム='無意識'、アジェ='無意識'と扱うことに原因があると思うのだが、本書により、アジェの評価が明らかになる。
誤謬の修正のような仕事は、アンリ・カルティエ=ブレッソンの「決定的瞬間」というタイトルが間違いであるという指摘は数度聞いたことがあるが、写真界隈での訂正に対して著者はその間違いを指摘する。本格的なフランス文学研究者の仕事、なにより著者の綿密な文献調査によりすがすがしく解決される。その解決からもブレッソンへの再評価も興味深い。
写真について学ぼうとする方にはお勧めしたい本です。絶版本だが中古では入手可能と思われます。
放置していた本書を読み始めるきっかけとなったのは、序章を初めて開いたことによる。なんと江戸浮世絵と20世紀初頭の写真との画面構図が比較されているではないか…アンリ・リヴィエールのリトグラフ「エッフェル塔三十六景」の影響のようだが…。拙作(2020年度卒業制作)は富嶽三十六景をモチーフに写真作品を制作したものだったので、故に悔やまれるのです。