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深夜の独り言 24
私の中では今日(もう昨日ですね)からゴールデンウィークです。連休、と言われても何にも予定がないので、一日中ごろごろしていました。
片山恭一さんの「世界の中心で、愛をさけぶ」を読みました。昨日までは石田衣良さんの「オネスティ」で、その前は江國香織さんの「赤い長靴」を読んでいました。明日も読むかもしれませんが、とりあえず今週読んだ三冊です。大学に通うようになってから、通学の時間などで、本を読む量が増えました。
とくに石田衣良さんの「オネスティ」は今年に入ってから一番くらいにおもしろくて、興味深い内容でした。『一般的な名前のつけられない関係』をもったふたり。凪良ゆうさんの「流浪の月」とか、千早茜さんの「男ともだち」、桜庭一樹さんの「私の男」なんかも『一般的な名前のつけられない関係』のふたりが出てきて、そういうのが好きです。「オネスティ」の中に、心に残るフレーズがありました。
適切な言葉がないから、どういう関係なのか定義できないのだ。言葉がないということは、彼らには絶対にわからないということだった。自分とミノリの関係は、この世界には理解不能だ。
いつかの国語の教科書に、ソシュールの「言葉とは何か」という文章が載っていて、言葉があって初めてものを認識する、という考えが書かれていました。確か倫理の授業でも似たようなことを習いました。そういったことを思い出して、この本を読みました。そこでは確か、言葉によって世界の区切り方は異なっていて、社会的、文化的背景によって、物事の認識が異なるといったことも書かれていました。英語の"water"と日本語の"水"が指しているものがほんの少し違うといったように。
私には「友だち」と呼べるひとが本当に少なくて、両手で数えられるほどしかいません。それを別にいいとも悪いとも思っていないのですが、ときどき、おかしなことが起こります。
「友だち」って、なんでしょう。私にとっては、よくふたりきりで遊んだり、何か楽しそうなことを見つけたら一緒にやりたいと思ったり、でも何もなくてもただ会いたくなったり、何時間でも語り合いたい、そんな相手のことです。連絡をしたり会う約束を取り付けたりするのはとても面倒だけれど、それをしてでも会いたいと思うような。
だから、冷たいかもしれないけれど、中学や高校で毎日教室で顔を合わせてそれなりに会話をするほとんどのクラスメイトのことを、私は友だちだとは思っていませんでした。一緒にいてそれなりに楽しいけれど、友だちというほどじゃない。ただのクラスメイト。でも、向こうは違ったりする。そのくらいの浅い付き合いでも私のことを友だちだと思っていたりする。
まあ別に、どっちでもいいんですけど。Instagramに「親しい友達」という機能があって、私からしたら友だちではないのに、なぜか「親しい友達」にカウントされていたりするのを見ると、これはおかしなことだ、と思ったりします。
言語による違いだけじゃない。ひとそれぞれ認識は違うし、言葉の定義も少しずつ異なっているのかもしれません。例えば男女間に友情が成立しないと思っているひとと、成立すると思っている私では、何か根っこのところが違うのかもしれません。でも別に、言葉の違うひとたちに理解される必要はないのでしょう。私は私の大切なひとたちと理解し合うことができれば、それで。
言葉は思っているよりとても大切なもののような気がします。言葉がないと、何も存在し得ない。それなのに、どんどん変化していく。とても不思議なものです。もっといろんな言葉に触れたい。知りたいと思います。
最近noteのタイムラインが追えていません。明日は読めるかな。積読も減らしていきたいです。次は何を読もうかな。
言葉に触れる夜に、
深夜の独り言。
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