熱海とコーンウォールとハイデガー【自己隔離生活1日目】
【隔離前】
3/21、20時頃、ロンドンはヒースロー空港を出発し同日22時頃パリCDG着。約1時間のトランジットを挟んで羽田へ。
機内ではLady Birdを観て (地元を出る話を地元に戻る道中で観るという皮肉)、Jojo Rabbitを20分でギブアップして(子供の可愛さで画を保たせるのずるいよ)、Les Misérablesを観て(パリ郊外の警察と住民による軋轢の話、大傑作)、Fisherman's Friendsを観て(今住んでいるコーンウォール地方の映画、よかった、贔屓目に見てだけど)、少し眠った。
あ、エールフランス偉い人さ、日本映画を選ぶ係の人は絶対に変えた方がいいよ。
着陸してすぐ、ここから14日間に及ぶ自己隔離についての説明と同意について記された紙が配られ、記入が終わった人間から退出。見るからに疲れ果てた顔をした空港職員の方(本当にお疲れ様です)に隔離に対する説明をより詳細に受け、20時過ぎに羽田を出た。
体温検査とかされるのかと思ってたけど、書類を普段より多く書いた以外は普段の入国検査と変わらなかった。ちなみに空港からの帰宅にも公共交通機関の利用は認められていないらしく、おれの場合、母と叔父が車で迎えに来てくれてたからいいけど、遠方へ帰る人で迎えのアテのない人はどうしたのだろう。
【隔離1日目】
羽田空港にて懇切丁寧に自宅隔離の説明をしてくれた、二徹明けみたいな顔色のお兄さん(本当にお疲れ様です)によると空港に到着した日は0日目とするらしく、14日間というのは空港到着の翌日から数えての期間らしい。
時差ボケではないけど、5時半に目が覚めた。朝食、筋トレ、メールを打ってオンライン英会話、そのあとはひたすら読書。
天気が良くて最高でした。逆に普段より優雅に生活してる。
ワタナベアニさんの『ロバート・ツルッパゲとの対話』を通読。非常に面白かったです。初日にこの本を選んでよかったなあ。皆さんも是非。
夕食はもちろん一人で。
山菜の採集が好きなどこかのおじさんが熱海の方で摘み、おすそ分けしてくれたというフキノトウの天ぷらを食べた。やっぱり田舎のコミュニティはすごい。
そういえば先日、大学のフィールドワークで植物学者の人とコーンウォールの海岸線を歩き、食べられる野草を摘んだのは面白かった。話を聞く前、自分の中では『雑草』と雑に(雑草だけに)一括りに認知し見向きもしなかったものが、新しい知識や経験を経ることで勝手に目に入ってくるようになった。あの体験の以前と以後では自分という人間は僅かだが確かに別の人間になっていて、世界の姿はこちらも僅かだが変化した。正確に言うと世界は変わっていないけれど、世界の見え方、知覚の仕方が変わった。『ロバート・ツルッパゲとの対話』にも書いてあったけど、人間は言葉で世界を理解し、認知する。あの日、自分は新しい言葉を与えられて、より世界の複雑性と多様性に気づいたのだな。
そんなことを考えていたら、そういえばおれ、お土産にコーンウォールの塩を大量に買ってきたんだと思い出して、ひとつまみほどフキノトウにかけ口に運んだ。ぶっちゃけあまりヒマラヤの岩塩との違いは分からなかったが、背景にストーリーがあった分、時間をかけて味わった。
熱海の山菜は栃木のおじさん(おれはその人のことを見たことがないのでもしかするとおじいさんかもしれない、どうでもいいけど)に摘まれ、生まれ育った地から連れ去られた。コーンウォールの海を彷徨っていた塩はパック詰めされ、COVID-19を理由に帰国を余儀なくされた日本人留学生によって買われ、飛行機で海を渡った(元々海にいたのに)。そして2人は栃木県那須塩原市で運命の出会いを果たし、その一生を終えたのだった。
かつて哲学者の國分功一郎は自著『暇と退屈の倫理学』でファストフードは含まれている情報量が少ないから早く=Fast 食べることができる(Info poor food)反対に、味わうに値する食事には大量の情報が含まれているため、身体で処理するのに大変な時間がかかる=Slow(Info rich food)と言うようなことを書いた(多分、知らんけど)。食に含まれる「情報」とは、見た目や価格、味や香り、栄養分等だけではない、その食品がどこで、誰によって、どのように作られたかという素性や履歴も含まれる。
下記の記事を一部引用する。
20世紀を代表する哲学者のハイデガーは「退屈」にまつわる論考の中で「パーティーに際しての退屈な体験」について書いている。おいしい食事が供され、心地よい音楽を聴き、葉巻を吸い、会話もそれなりに楽しんだ。ところが帰宅後のふとした瞬間に気がつくのだ。「私は今晩、この招待に際し、本当は退屈していたのだ、と」。これは一体どういうことか。
哲学者の國分功一郎氏の分析はこうである。「あの場でハイデッガーが退屈したのは、彼が食事や音楽や葉巻といった物を受け取ることができなかったから、物を楽しむことができなかったからに他ならない。そしてなぜ楽しめなかったのかと言えば、答えは簡単であって、大変残念なことに、ハイデッガーがそれらを楽しむための訓練を受けていなかったからである」(國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』)
訓練を経て初めて楽しめるようになるのは古典文学を原典で読むとか能楽を演じるといった高尚な趣味やスポーツばかりではない。「食のような身体に根ざした楽しみも同じく訓練を必要とするのである」
そう、何かを味わって食べる、ゆっくり、時間をかけて食べると言うことは、訓練や知識、ストーリーを見つけ知覚する力を必要とする行為なのだ。ゆえに、よく小学校の先生が言う(今も言うのかは知らない、おれはよく言われた、気がする)「味わって食べましょう」は、公式を教えずに数学の問題を解かせるようなものであり、英単語や英文法を教えずに英文を読ませるようなものだ。
そんなことを考えた、自己隔離生活1日目でした。
いやいやいやいや、どんな着地よ
また明日。