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もう会えない人に5本の薔薇を

友人の母が今日亡くなった。癌だった。

その訃報を受け取ったのは、私がしごと終わりに地下鉄の改札に行くまでの道で、スマホをふと開いたときのことだった。その知らせはインスタのチャットを通じてだった。生まれて初めて、チャットのことばに重みを覚えたし、訃報をインスタ経由で知ることに少し震えた。

友人は高校時代より精神障害を患ってきた。家庭環境がすこし不安定で、どういうわけか卒業後は家を出てひとりで暮らしていたらしい。

話をしている途中、友人は生活保護の助けを借りていたことがわかった。私が驚いたのはそれだけではなく、彼の母も生活保護を受けていたことだった。今日彼が泣きながら電話で話をしてくれた際、それについて初めて知った。

『コロナの影響で、最期は直接会えなかった。ガラス越しにしか見えなかった。』

いろいろと悪条件が重なり、彼は母と間接的なお別れをしたらしい。

私は、彼からの着信にすぐに応えることができたと思う。だが、5分にも満たない話をひたすら優しい声で聴くしかなかった。何もできなかった。

上京して自分のことで精いっぱいだった私は、しばらく彼のことなど忘れていた。いや、むしろ生活保護で得たお金で、時々やや贅沢な暮らし(旅行)をしていた彼に嫉妬心を抱き、意図的に距離を取り、だんだんと疎遠になっていった。

友人に実家はあるが、家庭環境のせいで、そこに居場所はなかったらしい。唯一あったのは、暴言や暴力と聞いたことがあったかもしれない。

自分の苦痛を隠すために、彼は彼なりに「一人暮らし」という独立証明をしていたのだろう。と同時に「生活保護」というSOSを発していたのだろうか。

彼の母の死で、彼を救ってくれる人がひとり消えてしまったのではないかと想像し、自意識過剰的にプレッシャーを感じている。

ひとりの死が、疎遠になっていた私たちの関係を呼び戻すというのは、何とも言葉にしがたいことだと感じた。



そういえば、昨日読んでいた本の中に、こんな記述があった。

『死別と離別、どちらがつらいのか。私は未だによく分からない。どこかできっと生きているのにもう会える望みは薄い。その方がつらいのか、もう二度と会えないことが確定している方がつらいのか。私は未だに分からない。』

私は、かつて付き合っていた恋人を数年前に亡くした。

関係性は過去形だが、その人からもらったCDをいまでも聴くことがある。あれだけ嫌いになって離別したのにもかかわらず、「死別」になったと分かった瞬間、急にその人との思い出が美化される。それくらい単純で複雑のようなのです。

必ず訪れてしまう刺々しい別れに、どうか5本の薔薇と美しい夜を与えて。どうかご冥福を。












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外資系専門商社でBtoB, BtoG営業をしています。さまざまな社会問題や身の回りに起きた出来事を発信しています。「新しいモノ・コトで人々の生活を豊かにする」