男の「奢る・奢らない」論争
友人と雑談をしていたとき、「スタンスって大事だよね」という話になった。
どういう立場・立ち位置から、その発言をしているか。これを考慮せずに、ただ言葉の意味だけを切り取ってしまうと、コミュニケーションにズレが生まれる。
「お前が言うんじゃねーよ」
「お前には言われたくない」
これが往々にして起きるのが、コミュニケーションなのである。
奢る・奢らない論争
そもそも友人とこの話になったのは、「男性は女性に奢るべきか否か」ということで、女性YouTuberの発言が炎上していた件について軽く触れたときだった。
その女性のことをよく知ってはいないのだが、それを発端として色んな人が「男性は女性に奢るべきかどうか」という議題について自論を述べていた。
すごいどうでもいい話なのだが、このときに友人と一致したのが「スタンス」についての意見だった。
自分も友人も、どちらかといえば女性に奢るタイプの人間だったので、割り勘をする男がいたら恐らく「それくらい払ってやれよ」とは思ってしまう。
一方で、女性に「男性が払う」というのを当たり前のように言われてしまうと、何かモヤっとする。そしてこのモヤっとの原因は、恐らく「男が男のエゴでお金を払っている」というスタンスが保たれているかどうか、ということが重要なんだと思う。
面倒くさいと思われそうなので、例を「接客」に変えた考えてみる。
「お客様は神様だ」について
「お客様は神様だ」
日本の接客業において、よく使われるこの言葉。
これは、お店の従業員のスタンスについて言われる言葉だ。
「お客様に接するときには、丁寧に接しなさい。」というような意味がこの言葉には含まれていて、それは「お店の従業員」に、従業員の立場から発せられた言葉である。
この「従業員の立場から従業員に」という矢印が重要で、これを「お客様が、自分の立場から従業員に」向けて使った瞬間、それは相手への強要になる
大事なのは、従業員が自らの意志で「お客様を神様のように思って丁寧に接する」というスタンスを持つことであって、それが無視されて言葉だけが一人歩きしてしまうと、それは人をコントロールする呪いの言葉になってしまう。
だからこそ、我々は常に言葉を発するときには「どの立場から発しているか」を意識することが重要なのではないだろうか。
奢る奢らない論争でも、大事なのは「男が、男のエゴで払っている」というスタンスであり、それが崩されてしまうと言葉による他者コントロールが生まれる。
「男は奢るべき」と言う言葉は、言葉の主体である男にのみ発する権利がある。これが、「スタンス」つまり行動主体をもとにした発言の考え方なのである。
もし皆さんが、自分が行動主体ではない物事に対して発言をするときには、気を付けてみてほしい。
「老人は〜」
「障害者は〜」
「ヴィーガンは〜」
「中国人は〜」
自分がそのカテゴリに当てはまらない物事について発言するとき、他者との分断を生むきっかけを作ってしまうかもしれないからだ。