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社会に自分を適応させる力

とある日の日曜日。
お昼ごはんを食べた後、友人ととある街の商店街を歩いていると、見知らぬカフェが目に映った。

「あれ、こんなとこにカフェなんてあったっけ?」

しばらくこの街にきていなかった僕は、見知らぬカフェをきっかけに「この通り沿いに居酒屋さんができた」とか、「駅近くのビルに大きい本屋さんが入った」とか、街並みの変化を友人から色々と教わった。

「いやー、この街も変わったなぁ。」

もの思いに更けながら、「そもそもこの街は100年前はどんな街並みだったのか」「これから100年後はどんな街並みになっているのか」など、街の変化感に想像を膨らませながら、家路を急いだ。

「進化」と「変化」の違い

人類は、ここ数百年、数十年で大きな発展を遂げている。今では当たり前と感じている身の回りのモノたちも、考えてみると大した歴史をもっていないことを思い知る。

明らかに変化していることはわかるが、これを「進化」かどうかと問われると、一瞬思考が止まる。

「進化」と「変化」には、どんな違いがあるのか。

私たち人類は「進化」しているといえるのか。
はたまた、自分自身は「進化」しているのだろうか。

そのためには、まず「進化」の定義を自分なりにしていく必要がある。そんなことを思いながら進化を辞書で引いてみると、このように出てきた。

長大な時間経過に伴い生物が変化していくことをいう。生物の形質(形態・生理・行動など)が生息する環境に、より適合したものになる、既存の種から新しい種が形成される、単純な原始生命から複雑多様なものへ変化する、などがその変化の内容である。

「日本大百科全書」より

「変化」が単純に「変わる」ということ全般をさすのに対し、進化には「適応、適合する」という概念が加わる。

生物変化を「生存戦略」という軸で考えると、「環境変化に伴い、自分自身やその種が生存しやすいように、行動や形態を変えること」が「進化」だと捉えることができる。

もう少し、個人単位で「進化」を定義するとすると、社会の変化に適応して、自分が生きやすいように思考や行動、環境を変化させることが進化といえるのではないだろうか。

種が変化するのではなく、環境を変化させる

私たち人類が歩んできた歴史は、環境の変化とともに存在する。「自然環境が変わって、それに合わせて個体が変わる」という生物の進化とは少し異なり、人類は「環境そのものを変える」手段を選んできた。

もちろん、それも自然環境とともにあることに違いはないが、「地球の温度が下がると身体を毛や厚い皮膚で覆う」のではなく「住居環境や身につける防寒具を進化させる」という形で適応してきたのが人類だ。

私たちが他の生物と違うのは、環境に対して自分自身を変えるのではなく「周囲を変える」力をもっているということだ。

そうして、周囲を変化させる力を備えた私たちは「社会」という概念の環境を作り、それを作りかえながら、自分たち自身もそれに適応していくように変化させる。

そして、変化に適応することが遅れた人類は「時代遅れ」となり、前時代感のまま「個人と社会のズレ」を感じながら生きていくことになるのだ。

「適応」と「持続」

新しいことが正しいわけでも、歴史あるものが正しいわけでもない。私たちは、ただ「どうすれば生きやすい人生になるか」を考えたとき、適切な方を選び続けるしかないのかもしれない。

自然環境が変わることに抗えないように、社会が変わっていくこともまた必然として受け入れるしかない。

だからこそ、変わりゆく社会の形に柔軟に身を委ねながら、自分自身をアップデートする。

人の進化とは、その連続のように思える。

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