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携帯を手にする前の「余白の使い方」

電車に乗って、移動している時間。

予定より早く着いた、待ち合わせの時間。

いつからだろう。気付いたら、空き時間は無意識にスマホを眺めるようになっていた。インプットに躍起になっている時期はとくに、「この隙間時間の有効活用が大きな差になるんだ!」と、ニュースサイトを見たり、音声学習コンテンツを聞いたり。

1分1秒をできるだけ有益な時間にしようと、「隙間時間」をすべてスマホにbetしていた。

そんなある朝。

その日は私用で遠出する予定があった。電車で1時間半ほど。いつものように電車の中で携帯を触っていたのだが、普段より長い時間電車に乗っているからか。途中から顔を上げ、窓の外を眺めていた。

左から右へ流れる窓の向こう側を眺めていると、なんだか懐かしい気持ちになった。そのとき見た土地自体には、なんの思い入れもないのに。

僕が懐かしいと感じたのは、電車からみえる景色自体ではなく、景色が流れゆく様子。都会から、だんだんと田舎の街並みに移り変わる情景。何の変哲もない、ただゆっくりと時間が過ぎていく体感だった。

思考を楽しむ時間

いつぶりだろう。
窓の外の景色を、長い時間眺めることに使ったのは。

いつからだろう。
ちょっとした時間を、スマホに費やすようになったのは。

別にそれが悪いこととは思わない。スマホが与えてくれたエンターテインメントは本当に素晴らしいものだと思う。僕はこれからもこの文明の利器を使い続けるだろう。

だけど、物事はなんでも表裏一体だと思っている。

得たものがあれば、必ず失ったものがある。
スマホによって、僕が失っていたものは何だろう。

思考を巡らす

スマホを見ているとき、僕は一方的な「インプット」をしていたと思う。興味があるものをタップし、文章を眺める。音声を聞き流す。

そのもの自体が良質なコンテンツであるため、僕がしていたことは「記憶すること」もしくは、内容に一喜一憂することだった。自分にとって有益だと思う情報を覚え、それ以外を捨てる。面白いモノには笑い、つまらなければ飛ばす。

効率を最大化すると、スマホがもたらしたものは凄まじい。テレビのCM、本の導入、あらゆる余白やゆっくりとした入りがなくなり、欲しい情報をダイレクトに、表面を切り取ってインプットする。

それによって僕たちは、思考を巡らすことで楽しむことが減ってきたのではないだろうか。

例えば、窓の景色を眺めているとき。

ただ窓の外を眺めていたって、面白くもなんともない。だからこそ僕たちは変哲もない風景から、何かを面白いものを掴み取ろうと思考を巡らす。この時間を有益なものにしようと、妄想を膨らます。

「あの建物、すごい珍しいカタチしてるな。なんの施設だろう?」
「あの花、どっかで見たことある。なんて名前だっけ?」

何気ない風景から情報をキャッチアップし、思考を巡らせ、時間を使う。それが有益かどうかは分からないけれど、そうやって僕たちは「何気ない日常を楽しむ方法」を編み出していたのだ。

時代は移り変わっていく

恐らく今の若者の多くは、携帯を忘れて家を出ると、やることがなくてソワソワしてしまうのではないだろうか。

時間の使い方が分からない。

だけど、ほんの少し前には確かに携帯がない時代があって、その時代でも人は日々を楽しく過ごしていたのだ。

時代によって、時間の消費の仕方が変わっていく。

テクノロジーの発展は、これからも僕たちの生活を変化させ続けているだろう。もしかしたら、10年後にはスマホすらもう古くて、別の方法で時間を使うことが当たり前になっているかもしれない。

その度に、それによって失ったものもたまには振り返りながら、昔の時間の楽しみ方を体感してみるのも、新鮮で良いなぁと感じた朝の電車でした。

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