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身ぶりを再考する――官僚からコンサルになってみたとりあえずの感想
こうして「民主主義」も、市場を意味するようになった。ひるがえって、「官僚制」とは,市場への政府の介入を意味するようになる。(Graeber 2015=2017: 15※)
お金が必要なのでなんとか仕事を続けている.
前にも別の記事で書いたように,2021年6月に国家公務員からいわゆるコンサル業界に転職してみた.
今回は,そうした中で自分の仕事における身ぶりがどう変わったかについて考えてみた.もちろん,どちらもあくまで下っ端から見た見え方である.なお,仕事のやりがいであるとか,社会に与えるインパクトといったことは,役所や企業の採用パンフレットなどを見ていただくほうが分かりやすいと思う(意外と"建前"ではないことが書いてあったりする).
※ Graeber, D, 2015, The utopia of rules: On technology, stupidity, and the secret joys of bureaucracy, Melville House. (酒井隆史訳, 2017, 『官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』)
1.あまり変わらないこと
以前以下の記事で,行政システムが世界を記述してあたらしいことばをつくること,そしてそれが「支配的な語り」になりやすいのではないかという仮説を書いてみた.
しかしスタッフの身ぶりのレベルでいうと,最終的な効果が異なるだけで,コンサル会社もこれに近いことをやっているのではないかと感じている.
経営コンサル会社の仕事は基本的にシンプルで,企業から様々な粒度/種類の課題解決についての依頼を受け,それを提言の形で実現することになる.とくにぼくの在籍する戦略系と呼ばれるようなコンサル会社ではそれが経営層への提言になることが多いため,経営会議などでその提言が(多くの場合そのまま)オーソライズされ,公式の決定として効力をもつ.
そしてそうした提言をつくる際にぼくたちは,顧客やその業界のビジネスのあり方を一定のフレームワーク――「3C」でも「ROS・RMS」でも「PPM」でもよい――に落とし込み,そこから示唆を引き出そうとする.
![画像1](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/68518713/picture_pc_0f6cd1dea642735826d317b5a0129e59.jpg?width=1200)
Small Worlds IV, plate four from Kleine Welte, Vasily Kandinsky
もちろんそれは最終的には提言になるため,顧客の了解可能なかたちで記述されないといけないわけだが,実際にはその調整過程では異なる意味の体系同士の衝突が頻繁に発生する.下っ端仕事では「分析上意味のある切り分け方になっていない顧客ローカルのデータセットをフラグ付けしなおす」といったこともその事例だし,もっとハイレベルでいえば,「事業の経済性を評価する際に適切だと考える指標が異なる」といったこともあるだろう.
こうしたコミュニケーションをする際,その身ぶりが官僚時代にやっていたことに近いと感じた.官僚は,世の中に存在する問題を抽出し,それを法律や政府の公式文書用の文言に落とし込むことで,解決策を実現に導く.その際も,意味体系の衝突が発生するし,ある意味その衝突が十分に解決されているかを確認するために「法制局」のような装置があるといってもよさそうだ.
![クレー](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/68522685/picture_pc_97f8d31d47f903bca030b5e44a19490d.png?width=1200)
Still Life with Fragments, Paul Klee
この身ぶりは結構おもしろい.ようは,異なる2つの辞書の間の対応関係をつくるような作業で,そこからは当事者の世界観にまつわるいろいろな気づきがある.官僚からコンサルへの転職というルートは結構多いと聞くが,その背景には,こうした身ぶりに関心がある,ないしはこうした身ぶりが得意な人が多いといった事情があるのではないかと勝手に考えている.
2.けっこう変わること
1節では,官僚とコンサルの共通点を考えてきた.これらは,(行政のもつ暴力装置以外は)基本的に物理的な商材がない"虚業"がゆえの共通点なのかもしれない.
一方で,2つのお仕事には当然,異なる点もたくさんある.考え出すとキリがないが,ここでは特にクリティカルに見えるコンサルと官僚の思考様式の違いとして,「2割の扱い」という点を挙げたい.
![ロスコ](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/68523816/picture_pc_017a311349d2478f9bb5b7083ea4b651.png?width=1200)
Untitled, Mark Rothko
ぼくの会社で比喩的によくいわれるのは,「8割を占める重要なイシューに集中して,残り2割は切り捨てろ」ということだ.たとえばある事業の収益性へのインパクトを考えたとき,2割しか影響しないドライバーはいったん脇に置いておけ,という発想である.この発想には,顧客の意思決定にノイズが入ることを防ぐことや,重要な点に狭く深くフォーカスして意味のある示唆を生むこと,そして余計な仕事を減らしてワークライフバランスを改善することといったねらいがある(らしい).
これはおそらく,官僚とは真逆の発想だ.行政の意思決定において,とりあえず前例通りの制度でうまくいっている8割に積極的な政策的手当てをする必要はない.むしろ,そこから零れ落ちてしまった2割を拾うこと,あるいは既存の制度枠組みから飛び出していく2割を抑え込むことこそが重要だ.たとえば社会保障や消費者保護政策などを考えるさいにはこうした発想が顕著だろう.
![画像4](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/68524248/picture_pc_081c6699d659cc0750eae58be5de114b.png?width=1200)
Altar Table with Mandala of Amitayus, the Buddha of Infinite Life
この違いが生まれる理由は,陳腐ではあるもののやはり「市場」というもののとらえ方にあるように思う.市場原理のもとで特に投資家の審級にさらされる経営の意思決定は,常にいかに大きな収益や売上を挙げて事業を成長させるかを重視する.このため,2割にかまっている余裕はない.他方,行政は市場で救われないひずみの部分をこそ扱うセクターなので,2割を拾う努力をするし,漏れのない世界の分節のしかたが求められる.行政は税金を徴収し法律を執行するための暴力装置をもっているのだから,なおさらそうした公正さは厳格に求められるところだろう.
官僚時代に曼荼羅を何枚か描いてきた身としても,この発想の違いは大きく感じられるし,逆に言うと曼荼羅こそが仕事の本質なのだとも思う.
3.まとめ
仕事を変えてみて改めて実感したのは,「身ぶり」というのは結構大事だな,ということだった.
もちろん仕事の社会的意義ややりがい,「尊敬できる人がいるかどうか」といった点を重視する人も多いのだろうとは思うが,個人的には自身の存在論的な認識であるとか,そういったものと合致する身ぶりをいち構成員として続けられる仕事をすることがストレスを抑えるために重要なのではないかと思う(仕事をしない,というのももちろん一つの解である).ぼくはその点は,前の職場の今の職場も割と成功している気がしている.
どんな場所でも人は演技をするものだが,その演技をどこまで自然にできるのかをたまに考えてみることは有意義な気がする.